2017年11月25日土曜日

とあるラジオ放送を聞きながら…

先ほどまでこちらのツイキャスで「研究者のためのSNS活用法!」という放送を聞いていたのですが…どうしようかしらん。
https://ssl.twitcasting.tv/fujinoyuko

というのも、現在友人たちと「マグリブ研究会」という会を運営しており、先日11/18にその第八回例会があったのです。そしてその話し合い(+アフター)を受けて、もっとしっかり研究会の内容を告知して、マグリブ研究者以外の方でも関心があったら顔を出してもらえるようにしよう、そのために研究会のホームページを簡単なものでいいから立ち上げよう、と考えているところ。

幸いこの数年で歴史研究者だけでなく、人類学や政治学の分野を専門としている若いマグリブ地域研究者も参加していただけるようになってきて、さてこれからどのように展開していこうか。日本中東学会のMLのような大規模なMLに、報告の概要とホームページのアドレスを記載した告知メールを流すだけで十分なのか?研究会のTwitterやFacebookのアカウントも作って、我々こんな研究をやってますよ!こんなことができますよ!と売り込んでいくべきなのか?うーん…?

ま、それはおいおい考えるとして、ホームページの内容はどんなものにするかねえ。
・研究会の紹介
・研究会の報告の告知(日時、場所、報告者、タイトル、概要)
・要請に応じて他の研究会の告知や論文出版等の報告
・問い合わせ
・スケジュール
こんなものかなあ…






2016年6月26日日曜日

近世初頭モロッコの知的環境について

(別の個所でつぶやいた話をもとに、こそっと更新してみる)

17世紀前半モロッコの学問的状況を調べていたら、1649年にフランス人P. Danが出版した『バルバリアの歴史』に、当時のフェズにおける数学や医学教育に関する短い記述が見つかった。
〔法学者やクルアーン注釈学者のほかにも〕そこには小規模な学校を持っている師匠たちがおり、そこで数学や医学を教えている者も幾人かいる。ただし非常に晦渋で、キリスト教徒の学校におけるこれらの学問とも、そこで行われている教育方法とも、全く関係がない。
... outre quelques autres maistres qui y tiennet les petites Escholes, & quelques-uns qui y enseignent les Sciences de Mathematique & de Medecine, quoy que d'une maniere assez obscure, & qui ne tient rien de ces scicnces & de la maniere de les enseigner qui est pratiquée dans les escholes des Chrestiens.
Dan, Pierre. 1649. Histoire de Barbarie et de ses corsaires de royaumes, et des villes d'Alger, de Tunis, de Salé, & de Tripoly: Paris: Pierr Rocolet, p. 249.

この作品は、1637年に初版が出版されており、BNFのGallicaにはそちらがアップロードされている。今回はarchive.orgにアップロードされた1649年版を参照した。
なお、この一文を発見したのは、Jacques BerqueのL'intérieur du Maghreb(p. 147, n. 3)によるもので、Berqueは1649年版を参照している。

この作品は、特に16世紀以降相当数ある、ヨーロッパ人捕虜やその解放交渉人によって執筆された北アフリカ事情の報告書であり、著者がフェズのマドラサで行われていた教育についてどの程度正確な情報を得ていたかという点において、一旦留保する必要があるとおもう。

とはいえ、その前後に記載された詳細な情報の正確さや、この時期以降のモロッコにおける非実学的な学問の衰退を考えると、17世紀前半の全般的な混乱からアラウィー朝成立までの時期が一つの重要な分岐点であったのかなあと、厳密な検証は難しいながら思う次第。
前述の個所で著者は続けて曰く、
今日この町は、その学校においても交易においても、もはやかつてほど栄えていないし、高名でもない。この国を苛んだ戦争のためである。
Cette Ville aujourd'huy n'a plus tant de vogue, & n'est plus si fameuse, tant en ses escholes, qu'en son trafficq, comme elle a esté, à cause des Guerres qui ont travaillé ce pays.
北アフリカ地域の衰退の起源をどこに位置付けるかは、地域的にも分野的にも多様であり難しい問題だが、モロッコ地域の知的環境に関して、段階的に考えてみる。

まず15世紀以降の世界的な交易網の変動の中で、モロッコ地域はサブサハラ地域と西欧地域との交易の結節点としての重要性を喪失していく。

この傾向に対して、16世紀中葉に成立した中央集権的な国家(サアド朝)は、一方ではサハラ砂漠を介した交易路、他方では大西洋航路の支配強化を試みていくが、これは16世紀末から17世紀初頭の社会・経済的危機を背景とする政治的混乱の中で破たんしていく。

そして、地域内外の交易活動の拠点として発達してきた、フェズを代表とする大都市の経済活動の停滞は、その知的活動の環境を悪化させ、法学関連の実学を除く諸学問の停滞を引き起こした…

みたいなことは言えるのかしらん。

2014年3月23日日曜日

法学文献から見た15-16世紀マグリブ・アクサー北部の境域

Mezzine, Mohamed. 1988. "Les relations entre les places occupées et les localités de la région de Fès aux XViéme et XVIiéme siècles, a partir de documents locaux inédits: les nawāzil." Relaciones de la península Ibérica con el Magreb siglos XIII-XVI : actas del coloquio (Madrid, 17-18 diciembre 1987). Ed. Gárcia-Arenal, Mercedes & Viguera, María Jesús. Madrid: Consejo Superior de Investigaciones Científicas, Instituto de Filología: 539-60.

 モロッコ人社会史研究者ムハンマド・マッズィーンによる、15-16世紀マグリブ・アクサー北部の境域に関する論文を取り上げました。マッズィーンは中世後期から近世初頭のこの地域をフィールドとしており、主要な著作として、サアド朝期のファースとその「農村」を扱った2巻本の浩瀚な研究書Fās wa-bādiyat-hāがあります(1986)。

 1415年ポルトガル王国ジョアン1世によるセウタ占領と、その後一世紀程の間断続的に行われた征服活動は、マグリブ・アクサー北部に新たな「境域」を誕生させます。この異教徒の征服によって成立した境域では、ポルトガル人を中心としたキリスト教徒と被占領地域周辺に暮らすムスリム住民が対峙しあい、頻繁に軍事的な衝突を繰り返します。
 両者の関係はなによりこの対立から生じた恒常的な戦争状態によって支配されます。しかし彼らは同時に隣り合って暮らす必要性から、交易関係もまた発達させていきます。そしてこの関係を規定する法学者たちの議論もまた蓄積されていきます。マッズィーンが中心的に用いている法学文献『ジャワーヒル』は、キリスト教徒とムスリムの関係について提起された質問と回答からなる様々なファトワーを蒐集したものです。
 この文献はJ. Berque以降様々な研究者が利用していますが、未だ校訂はされていません。将来何らかの形で発表しようと、留学中から少しずつ作業を進めているのですが…。またファトワーを史料とした社会史研究としては、D.S.Powersや少し前に取り上げたÉ.Voguetの他様々な研究者が手掛けています。

 マッズィーンのこの論文について少し言葉を足しておくと、興味深い事例をいくつも提示してはいるのですが、あまりにも個々の説明が簡潔すぎて物足りない、また評価の妥当性が判断できないという不満があります。
 それからIVの15世紀から16世紀にかけての通時的な変化については、以下の要約テキストの中でも述べましたが、具体的な事例が一切挙がっていないので何の説得力もありません。そもそもマーリク派のファトワー(をナズィーラ/ナワーズィルというのですが)は、ある法的意見を必要とする問題が起きたとき、その問題に固有の文脈を重要視するが故に、社会史で利用可能になるような詳細な情報が記載されるわけです。よって法学者の回答での見解も個々の事例に即したものとなっているはずで、その変化を恣意的にならずに比較するのは非常に困難であろうと考えられます。彼らはなにか抽象的な同一の質問について見解を述べているわけではないのですから。そして「狂信」や「寛容」という概念にも説明がないため、法学者たちの言説に「狂信-寛容」という変化が起きていたのか、判断の使用がありません。「ナショナリズム」に関する言及も全く唐突のことに思えます。
 15世紀以降のマグリブ・アクサー北部におけるキリスト教徒とムスリムの2つの集団が、恒常的な戦争状態にあったこと、それにもかかわらず両者が交易の他様々な関係を結んでおり、法学者たちがこの関係を規定しようと試みていたこと、この点についてマッズィーンの議論に問題はありません。しかし両者の関係の発展についての結論は、多分に議論の余地があるでしょう。

(この著者の議論はいつも結論がぱっとしないのですが…)





2014年3月19日水曜日

「ヒンタータ族のアミール」中世末期ムッラークシュの支配について

 フランスのモロッコ植民地統治時代に活躍したセニヴァルの古い論文をまとめてみました。

 イスラーム伝来以降のマグリブ・アクサーについては、概ね時代とともに史料は増加するのですが、その中で15世紀は例外的に乏しいという問題があります。これは、中央集権的国家の消滅により王朝年代記叙述の伝統が途絶えたこと、証書史料の保存状況もよくないこと、聖者伝文学の興隆が見られるサアド朝期以前の段階であること、そしてポルトガル人やカスティーリャ人など外国人による叙述が増えるのも16世紀以降であることによります。そして特にマグリブ・アクサー南部では情報が乏しく、南部の主邑たるムッラークシュをいつ頃誰が支配していたのかさえ、確かなことは殆ど言えなくなってしまいます。
 盛期マリーン朝期までは、特にイブン・ハルドゥーンが様々な情報を報告していますし、16世紀初頭になると、特に最後の外国人による情報が急増します。セニヴァル論文は、この間ムッラークシュを支配していたと考えられる「ヒンタータ族のアミール」についての情報を集めたものです。

16世紀スース地方の食生活:大麦を食べると…?

 あまりちゃんと更新していませんが、小ネタ紹介。妙なタイトルが付いておりますがお気になさらずに…

 17世紀初頭にスース地方のあるウラマーが著した、あまり知られていない小さな聖者伝『マナーキブ・バウキーリー』を読んでいたのですが、16世紀マグリブ・アクサー南部の食生活に関する妙な記事に行き当たりました。

2014年1月31日金曜日

部族の族長とムラービトゥーン まとめ

Voguet, Élise. "Chefs de tribus et murābiṭūn". Mélanges de l'École française de Rome - Moyen Âge. 124.2, 2012: 375-82.

 この論文で言うムラービトゥーンとはムラービト朝のことではなく、リバートに籠る人々、つまりいわゆる「イスラーム聖者」のこと。15世紀編纂されたファトワー集をもとに、中世末期中央マグリブの「田舎のエリート」の機能や性質、そしてスルターン国家との関係について論じています。

 このファトワー集はJacques BerqueやHouari Touatiも利用してきた文献で、Al-Durar al-Maknūna fī Nawāzil Māzūnaといいます。近年アルジェリアのコンスタンティーヌ大学の院生が学位論文という形で分担して校訂しているらしく、部分的ながらPDFが大学のデポジトリからダウンロードできます。

 論文の要点としては、
・中世末期中央マグリブでは、主にベドウィン部族の族長とムラービトゥーンが田舎のエリートを構成していた
・特に中央集権的な国家の権威が及ばない地域で、両者は国家の機能を代行し、富を蓄積し、国家と競合する独立性の高い権力となっていた
・ベドウィン部族の族長はスルターンと同様に、支配下にある地域住民の安全保障と引き換えに服従と納税を認めさせており、この住民を保護することによって富を得ていた
・ムラービトゥーンは地域住民にとって、国家から任命される統治者やカーディーよりも利用しやすく頼りになる調停者であった
・彼らの紛争調停という政治的機能を国家は正当化し、その支配が及ばない地域での代替として利用した
というところでしょうか。
 Berqueの「文学的な」議論を良くも悪くも整頓したような…あとところどころ、よく意味の分らない言葉づかいが出てくるのが困るのですが…。


2013年7月25日木曜日

権力の言語 まとめ

Stephen Cory. “Language of Power: the Use of Literary Arabic as Political Propaganda in Early Modern Morocco”. The Maghreb Review 30(1), 2005: 39-56.

 1585年サァド朝君主アフマド・マンスールは、現在のカサブランカ近辺のターマスナー平野で、息子で後継者のマァムーンに対するバィアの儀式を挙行しました。この儀式にはモロッコ各地の名望家たちが出席し、書記官アブド・アルアズィーズ・フィシュターリーの起草したバィアの文章が読み上げられた後、各人スルターンの前で服従の誓いを行ないました。

 フィシュターリーはこの文章を、彼の著した年代記の中で引用しています。その中ではサァド朝のイスラーム世界全体に対するカリフ位が主張され、その理論が詳細に説明されています。アッバース朝の衰退以降途絶えていた普遍的なカリフ位の主張が、16世紀の国際情勢とサァド朝のシャリーフの血統を重視する政治的主張によって復活したわけです。

 マンスールの宮廷で作成された文献は、非常に複雑で様式化されたアラビア語で書かれており、また非常にバイアスの掛かった、そして非現実的な内容を含むものです。そのため歴史研究者はしばしばその史料価値を軽視してきましたが、コーリーはこの種の文献の史料価値を擁護したうえで、これらに用いられている言語そのものが、君主と臣下の分離を強調する働きを持った、「権力の言語」であったと主張します。そしてバィアの文章の中で述べられているシャリーフの政治イデオロギーが、サァド朝滅亡後もアラウィー朝によって継承されていることに注目しています。

 論旨は興味深いのですが、若干気になる点を挙げると、
・サァド朝によるカリフ位の主張は16世紀前半アァラジュの治世で既に公然とされている
・そもそもムワッヒド朝の後継諸王朝においてもカリフ位の主張はされている
・シャリーフと政治権力の結びつきはマリーン朝期においてすでに見られる
といった、マンスールの治世以前の状況に関する認識の粗さが目につきます。
 それからコーリーは、サァド朝宮廷の称賛文学が、若干のモロッコ人研究者を除いて、現代の研究者から無視されていると述べていますが、それは誇張でしょう(そもそもこの著者は、先行研究に対する目配りが極めて乏しいように思います)。
 また〔〕で括って示しておきましたが、アラビア語の翻訳は必ずしも丁寧にされているわけではないかもしれません。この箇所、訳文に括弧が多いので気になってチェックしたのですが、(大意はそこまで変わらないとはいえ)誤訳といってよいと思います。他の研究者がテキストの難解さゆえにこれらの文献を利用していないと非難している時に、このような問題はまったくいただけない。雑誌自体もちゃんと編集しているのか、心配になる個所が散見されますし…

 いずれにせよ、マンスールの治世の安定は16世紀末以降の社会・経済的危機の中で失われていき、その急死とともに王朝は急速に崩壊していくわけです。その政治的危機に、マンスールの提唱した政治的イデオロギーや儀式がどの程度、どのように影響したのか、検討する必要があるように思います。