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2016年6月26日日曜日

近世初頭モロッコの知的環境について

(別の個所でつぶやいた話をもとに、こそっと更新してみる)

17世紀前半モロッコの学問的状況を調べていたら、1649年にフランス人P. Danが出版した『バルバリアの歴史』に、当時のフェズにおける数学や医学教育に関する短い記述が見つかった。
〔法学者やクルアーン注釈学者のほかにも〕そこには小規模な学校を持っている師匠たちがおり、そこで数学や医学を教えている者も幾人かいる。ただし非常に晦渋で、キリスト教徒の学校におけるこれらの学問とも、そこで行われている教育方法とも、全く関係がない。
... outre quelques autres maistres qui y tiennet les petites Escholes, & quelques-uns qui y enseignent les Sciences de Mathematique & de Medecine, quoy que d'une maniere assez obscure, & qui ne tient rien de ces scicnces & de la maniere de les enseigner qui est pratiquée dans les escholes des Chrestiens.
Dan, Pierre. 1649. Histoire de Barbarie et de ses corsaires de royaumes, et des villes d'Alger, de Tunis, de Salé, & de Tripoly: Paris: Pierr Rocolet, p. 249.

この作品は、1637年に初版が出版されており、BNFのGallicaにはそちらがアップロードされている。今回はarchive.orgにアップロードされた1649年版を参照した。
なお、この一文を発見したのは、Jacques BerqueのL'intérieur du Maghreb(p. 147, n. 3)によるもので、Berqueは1649年版を参照している。

この作品は、特に16世紀以降相当数ある、ヨーロッパ人捕虜やその解放交渉人によって執筆された北アフリカ事情の報告書であり、著者がフェズのマドラサで行われていた教育についてどの程度正確な情報を得ていたかという点において、一旦留保する必要があるとおもう。

とはいえ、その前後に記載された詳細な情報の正確さや、この時期以降のモロッコにおける非実学的な学問の衰退を考えると、17世紀前半の全般的な混乱からアラウィー朝成立までの時期が一つの重要な分岐点であったのかなあと、厳密な検証は難しいながら思う次第。
前述の個所で著者は続けて曰く、
今日この町は、その学校においても交易においても、もはやかつてほど栄えていないし、高名でもない。この国を苛んだ戦争のためである。
Cette Ville aujourd'huy n'a plus tant de vogue, & n'est plus si fameuse, tant en ses escholes, qu'en son trafficq, comme elle a esté, à cause des Guerres qui ont travaillé ce pays.
北アフリカ地域の衰退の起源をどこに位置付けるかは、地域的にも分野的にも多様であり難しい問題だが、モロッコ地域の知的環境に関して、段階的に考えてみる。

まず15世紀以降の世界的な交易網の変動の中で、モロッコ地域はサブサハラ地域と西欧地域との交易の結節点としての重要性を喪失していく。

この傾向に対して、16世紀中葉に成立した中央集権的な国家(サアド朝)は、一方ではサハラ砂漠を介した交易路、他方では大西洋航路の支配強化を試みていくが、これは16世紀末から17世紀初頭の社会・経済的危機を背景とする政治的混乱の中で破たんしていく。

そして、地域内外の交易活動の拠点として発達してきた、フェズを代表とする大都市の経済活動の停滞は、その知的活動の環境を悪化させ、法学関連の実学を除く諸学問の停滞を引き起こした…

みたいなことは言えるのかしらん。

2014年3月23日日曜日

法学文献から見た15-16世紀マグリブ・アクサー北部の境域

Mezzine, Mohamed. 1988. "Les relations entre les places occupées et les localités de la région de Fès aux XViéme et XVIiéme siècles, a partir de documents locaux inédits: les nawāzil." Relaciones de la península Ibérica con el Magreb siglos XIII-XVI : actas del coloquio (Madrid, 17-18 diciembre 1987). Ed. Gárcia-Arenal, Mercedes & Viguera, María Jesús. Madrid: Consejo Superior de Investigaciones Científicas, Instituto de Filología: 539-60.

 モロッコ人社会史研究者ムハンマド・マッズィーンによる、15-16世紀マグリブ・アクサー北部の境域に関する論文を取り上げました。マッズィーンは中世後期から近世初頭のこの地域をフィールドとしており、主要な著作として、サアド朝期のファースとその「農村」を扱った2巻本の浩瀚な研究書Fās wa-bādiyat-hāがあります(1986)。

 1415年ポルトガル王国ジョアン1世によるセウタ占領と、その後一世紀程の間断続的に行われた征服活動は、マグリブ・アクサー北部に新たな「境域」を誕生させます。この異教徒の征服によって成立した境域では、ポルトガル人を中心としたキリスト教徒と被占領地域周辺に暮らすムスリム住民が対峙しあい、頻繁に軍事的な衝突を繰り返します。
 両者の関係はなによりこの対立から生じた恒常的な戦争状態によって支配されます。しかし彼らは同時に隣り合って暮らす必要性から、交易関係もまた発達させていきます。そしてこの関係を規定する法学者たちの議論もまた蓄積されていきます。マッズィーンが中心的に用いている法学文献『ジャワーヒル』は、キリスト教徒とムスリムの関係について提起された質問と回答からなる様々なファトワーを蒐集したものです。
 この文献はJ. Berque以降様々な研究者が利用していますが、未だ校訂はされていません。将来何らかの形で発表しようと、留学中から少しずつ作業を進めているのですが…。またファトワーを史料とした社会史研究としては、D.S.Powersや少し前に取り上げたÉ.Voguetの他様々な研究者が手掛けています。

 マッズィーンのこの論文について少し言葉を足しておくと、興味深い事例をいくつも提示してはいるのですが、あまりにも個々の説明が簡潔すぎて物足りない、また評価の妥当性が判断できないという不満があります。
 それからIVの15世紀から16世紀にかけての通時的な変化については、以下の要約テキストの中でも述べましたが、具体的な事例が一切挙がっていないので何の説得力もありません。そもそもマーリク派のファトワー(をナズィーラ/ナワーズィルというのですが)は、ある法的意見を必要とする問題が起きたとき、その問題に固有の文脈を重要視するが故に、社会史で利用可能になるような詳細な情報が記載されるわけです。よって法学者の回答での見解も個々の事例に即したものとなっているはずで、その変化を恣意的にならずに比較するのは非常に困難であろうと考えられます。彼らはなにか抽象的な同一の質問について見解を述べているわけではないのですから。そして「狂信」や「寛容」という概念にも説明がないため、法学者たちの言説に「狂信-寛容」という変化が起きていたのか、判断の使用がありません。「ナショナリズム」に関する言及も全く唐突のことに思えます。
 15世紀以降のマグリブ・アクサー北部におけるキリスト教徒とムスリムの2つの集団が、恒常的な戦争状態にあったこと、それにもかかわらず両者が交易の他様々な関係を結んでおり、法学者たちがこの関係を規定しようと試みていたこと、この点についてマッズィーンの議論に問題はありません。しかし両者の関係の発展についての結論は、多分に議論の余地があるでしょう。

(この著者の議論はいつも結論がぱっとしないのですが…)





2014年3月19日水曜日

「ヒンタータ族のアミール」中世末期ムッラークシュの支配について

 フランスのモロッコ植民地統治時代に活躍したセニヴァルの古い論文をまとめてみました。

 イスラーム伝来以降のマグリブ・アクサーについては、概ね時代とともに史料は増加するのですが、その中で15世紀は例外的に乏しいという問題があります。これは、中央集権的国家の消滅により王朝年代記叙述の伝統が途絶えたこと、証書史料の保存状況もよくないこと、聖者伝文学の興隆が見られるサアド朝期以前の段階であること、そしてポルトガル人やカスティーリャ人など外国人による叙述が増えるのも16世紀以降であることによります。そして特にマグリブ・アクサー南部では情報が乏しく、南部の主邑たるムッラークシュをいつ頃誰が支配していたのかさえ、確かなことは殆ど言えなくなってしまいます。
 盛期マリーン朝期までは、特にイブン・ハルドゥーンが様々な情報を報告していますし、16世紀初頭になると、特に最後の外国人による情報が急増します。セニヴァル論文は、この間ムッラークシュを支配していたと考えられる「ヒンタータ族のアミール」についての情報を集めたものです。

16世紀スース地方の食生活:大麦を食べると…?

 あまりちゃんと更新していませんが、小ネタ紹介。妙なタイトルが付いておりますがお気になさらずに…

 17世紀初頭にスース地方のあるウラマーが著した、あまり知られていない小さな聖者伝『マナーキブ・バウキーリー』を読んでいたのですが、16世紀マグリブ・アクサー南部の食生活に関する妙な記事に行き当たりました。

2013年7月25日木曜日

権力の言語 まとめ

Stephen Cory. “Language of Power: the Use of Literary Arabic as Political Propaganda in Early Modern Morocco”. The Maghreb Review 30(1), 2005: 39-56.

 1585年サァド朝君主アフマド・マンスールは、現在のカサブランカ近辺のターマスナー平野で、息子で後継者のマァムーンに対するバィアの儀式を挙行しました。この儀式にはモロッコ各地の名望家たちが出席し、書記官アブド・アルアズィーズ・フィシュターリーの起草したバィアの文章が読み上げられた後、各人スルターンの前で服従の誓いを行ないました。

 フィシュターリーはこの文章を、彼の著した年代記の中で引用しています。その中ではサァド朝のイスラーム世界全体に対するカリフ位が主張され、その理論が詳細に説明されています。アッバース朝の衰退以降途絶えていた普遍的なカリフ位の主張が、16世紀の国際情勢とサァド朝のシャリーフの血統を重視する政治的主張によって復活したわけです。

 マンスールの宮廷で作成された文献は、非常に複雑で様式化されたアラビア語で書かれており、また非常にバイアスの掛かった、そして非現実的な内容を含むものです。そのため歴史研究者はしばしばその史料価値を軽視してきましたが、コーリーはこの種の文献の史料価値を擁護したうえで、これらに用いられている言語そのものが、君主と臣下の分離を強調する働きを持った、「権力の言語」であったと主張します。そしてバィアの文章の中で述べられているシャリーフの政治イデオロギーが、サァド朝滅亡後もアラウィー朝によって継承されていることに注目しています。

 論旨は興味深いのですが、若干気になる点を挙げると、
・サァド朝によるカリフ位の主張は16世紀前半アァラジュの治世で既に公然とされている
・そもそもムワッヒド朝の後継諸王朝においてもカリフ位の主張はされている
・シャリーフと政治権力の結びつきはマリーン朝期においてすでに見られる
といった、マンスールの治世以前の状況に関する認識の粗さが目につきます。
 それからコーリーは、サァド朝宮廷の称賛文学が、若干のモロッコ人研究者を除いて、現代の研究者から無視されていると述べていますが、それは誇張でしょう(そもそもこの著者は、先行研究に対する目配りが極めて乏しいように思います)。
 また〔〕で括って示しておきましたが、アラビア語の翻訳は必ずしも丁寧にされているわけではないかもしれません。この箇所、訳文に括弧が多いので気になってチェックしたのですが、(大意はそこまで変わらないとはいえ)誤訳といってよいと思います。他の研究者がテキストの難解さゆえにこれらの文献を利用していないと非難している時に、このような問題はまったくいただけない。雑誌自体もちゃんと編集しているのか、心配になる個所が散見されますし…

 いずれにせよ、マンスールの治世の安定は16世紀末以降の社会・経済的危機の中で失われていき、その急死とともに王朝は急速に崩壊していくわけです。その政治的危機に、マンスールの提唱した政治的イデオロギーや儀式がどの程度、どのように影響したのか、検討する必要があるように思います。


2013年7月22日月曜日

モロッコにおける聖性と王朝権力 まとめ

García-Arenal, Mercedes. "Sainteté et pouvoir dynastique au Maroc: La Résistance de Fès aux Sa'diens". Annales ESC 1990(4), 1019-1042.

 王朝権力の宗教的な要素による正当化という問題を、16世紀中葉モロッコのサァド朝によるファース(フェズ)の征服という事件を題材に論じた論文です。
 サァド朝のシャリーフ(預言者の子孫)の成功は、15世紀以降のイベリア半島のキリスト教徒の進出に対するジハードと関連付けて論じられ、しばしばナショナリズム的な解釈がされてきましたが、この王朝とその前代の王朝であるワッタース朝の抗争を見る限り、この解釈は支持できないとガルシア・アレナールは述べます。そして、特にワッタース朝の首都ファースの包囲戦の際の、スーフィー教団シャーズィリーヤのスーフィーとファースのウラマーたちの逸話を検討し、
・血統が聖性の源となる…支教団ジャズーリーヤ、サァド朝
・個人的な徳が聖性の源となる…支教団ザッルーキーヤ、ファースのウラマー
という対立軸が、16世紀のモロッコの権力の正当化を巡る言説においてあったという仮説を提示します。そして、モロッコではシャリーフであることが権力の保持を正当化すると考える立場においても、ウラマーによる正当性の承認が必要とされたと主張します。

 この論文について若干問題点を指摘すると、
・出来事のクロノロジーに対する配慮の不足
・幾つかの概念(特に「民衆的」)の曖昧さ
が挙げられ、それぞれF. R. MedianoやV. Cornellといった研究者からの批判を受けています。
 また、シャーズィリーヤ内部のザッルーキーヤとジャズーリーヤの対立という主張は、シャーズィリーヤとカーディリーヤの対立という主張と同じくらい疑わしいものに思われますし、1036頁のファースのシャリーフに関する記述は正直意味がよく分りません(特にun groupe dominant dans la ville de Fès qui s'oppose au nouveau pouvoir des Sa`adiens aussi parce qu'ils sont des shurafā...の下り、ファースのシャリーフたちがサァド朝権力に抵抗したという話はどこから…)。
 その他論理がよく分らない箇所、翻訳に頼っていて訳がおかしい箇所、細かい誤りなど、指摘していくといろいろあるのですが…とはいえ、サァド朝の地域統一に関するA. Courの重要な仮説を明確に否定し、その支配確立の過程を再度問題提起した点で、非常に重要な論文であることは確かです。

〔序文〕(1019-1021)

16世紀のサァド朝のシャリーフによる権力の確立は、イベリア半島のキリスト教徒によるモロッコ沿岸占領へのナショナリズム的反応と考えられてきた。
Abun-Nasrは、サァド朝の台頭の背景には安定した非部族的な政権を求める都市民の支持があったと主張するが、ファースの都市民はシャリーフの征服に頑強な抵抗を見せた。
A. Courは、ファースの影響力を持った人々は、スーフィー教団のカーディリー教団かジャズーリー教団のいずれかに加入しており、この帰属が政治的な態度の表明と関係していると考えた。そして、イベリア半島から避難してきたアンダルス人たちはワッタース朝には敵対的なサァド朝の支持者であり、ファースでジャズーリー教団に加入していた唯一の集団であったと考えた。

→このいずれの主張も支持することはできない。

出来事の枠組み:宗教的な人々の態度表明(1021-1026)

1509年頃、サァド朝の初代カーイムが帝国建設に着手
1524年、ムッラークシュの占領(息子のアフマド・アァラジュとムハンマド・シャィフによる)
1549年、ワッタース朝の首都ファースの第1次征服(ムハンマド・シャィフ)
1554年、ファースの第2次征服、モロッコの統一が確立
→比較的長期間(ムッラークシュ占領から数えても30年間)
→王朝支配確立のナショナリズム的解釈に対する疑義

両王朝の抗争に対するスーフィーとウラマーの関与を伝える逸話が多数存在する…
・和平条約締結の交渉や戦闘に参加

・王朝やその君主たちに対するスーフィーの呪詛
→どちらの陣営に対してもむけられる
彼らの政治に介入する能力は、民衆に対する影響力を反映したものか?
サァド朝の支持者=過激な神秘主義者(マジュズーブ、マラーマティーなど)

・ファースのウラマーのワッタース朝に対する支持
アブド・アルワーヒド・ワンシャリースィー…
第1次征服時にワッタース朝君主に対するバイアを破棄しないよう住民に呼びかけ
サァド朝君主を韻文で異教徒・反乱者呼ばわり
後者が匿名の悪党を雇って殺害させるとファースは数日で陥落

1554年オスマン朝の支援を受けたワッタース家のアブー・ハッスーンがファースを奪還
サァド朝とともに来たスース人の殺害
サァド朝は年内に再征服、激しい弾圧

イブン・ザッカーク…
サァド朝に反対したウラマーの1人、アブー・ハッスーンの時期に復権
スース人を殺すのは異教徒(マジュースィー)を殺すのと同じ
再征服後の処刑の際にサァド朝君主を呪詛(死に方を自分で選べ)→実現

サァド朝に対する反対のイデオロギー的諸要因(1026-1027)

アラビア語史料からは以下の3つの反サァド朝的要因が現れる
・非合法の権力…合法性の保持者たるウラマーからの支持を受けていない反乱者であり、それは背教者、不信仰者に準ずる
・卑しい出自…ファースの都市民にとってはスース地方から到来した粗野で無知な人々(支配者だけでなくそれを支持する宗教人に対しても)
・シャリーフ主義に対する疑義…血統の真正さに加えて、シャリーフの血統が権力の保持を正当化するのかという問題

先例:869/1465年のシャリーフの反乱(1027-1029)

ファースの町はサァド朝による征服の1世紀前にイムラーン家のシャリーフ=ジューティーによるマリーン朝への反乱と短期間の支配を経験しており、ワッタース朝はこの政権を打倒して成立した王朝である。
ワッタース朝のアブー・ハッスーンによるファース奪還後のラーシド家のアミール投獄を巡る逸話を除き、ファースのシャリーフがサァド朝の支配確立に関与した証拠はない。
ジューティーの支持者に対する批難とサァド朝の支持者に対する批難は口調が共通しているだけでなく、状況も類似しており、また批難者たちの間には繋がりがある。
1465年のマリーン朝の正当な君主の殺害とワッタース朝を支持する法学者の殺害は、いずれも匿名の悪人の仕業とされている。
→正当なイマームに対する反乱は禁止だが、反乱に成功すればその反乱者は正当なイマームとなり、正当性は力に依拠している

名望家たちの政治:集団としての「ウラマー」

共通の知識の加入者たち(1029-1031)

サァド朝のファース征服に関与したウラマーの学識伝授の繋がりを検討すると、彼らは2人のアンダルスの法学者を共通の師匠としてもっており、彼ら自身の中でアンダルスに起源をもつ人々も多い。また彼らは、15世紀終わりからファースの重要な役職を独占していたことがわかる。
→アンダルス人をワッタース朝の敵対者とみなすCourの仮説の否定

共通のスーフィズムの加入者たち(1031-1036)

・シャーズィリーヤとカーディリーヤの対立
サァド朝によるファース征服において言及されるスーフィーはいずれもシャーズィリーヤだが、その内部での系統には違いがある。
アンダルス人≒シャーズィリーヤ(Courの仮説)…正しいが、カーディリーヤもまたアンダルスに進出していたし、シャーズィリーヤとカーディリーヤを明確に区別することは難しい
16世紀後半より前にモロッコで教団組織としてカーディリーヤが存在していたという証拠はない。
当時のモロッコでのスーフィズムの形態:
北部の都市民の間で広まっていた形態…特定の教団に加入しない知識人たちによって実践
南部の農村民の間で広まっていた形態…教団組織

・シャーズィリーヤ内部の対立
ザッルーキーヤ…アフマド・ザッルークを名祖とする
ファースのウラマーとの関係
過激な神秘主義的形態の不在
民衆的聖者への非難~物質的な目的のために抑圧者たちと協力し、無知な人々をだましている
マフディー主義への警戒

ジャズーリーヤ…マハンマド・ジャズーリーを名祖とする
サァド朝を支援した人々が加入
マフディーを自称し、自身に従うことを要求~サァド朝のムハンマド・シャィフもマフディーを自称
→シーア派的傾向、ミクナースのハティーブはサァド朝に殺害される前に、シーア派に殺害されたカリフ=ウスマーンに言及

・権力の保持を正当化する条件としての血統
サァド家の血統の正統性に対する疑義…二次的な問題
シャリーフの血統は権力の保持とムスリム共同体の指導を正当化するするのか?
ザッルーク…高貴さ=宗教的に優れていること、≠先祖の徳
ジャズーリー…高貴さ=出自、シャリーフであること、自身の先祖が預言者であることを強調
ジャズーリーヤとサァド朝のシャリーフの利害は一致(←?)
→ファース第2次征服より2年ほどで両者の協力関係は終了

cf. ルネッサンス期ヨーロッパでの論争:
血統こそが徳・威厳・名誉の源泉 vs 行為・知識・宗教的遵守による個人的徳の擁護

・シャリーフとビルディーイーンの対立
ビルディーイーン…ムスリムに改宗したユダヤ人、ファースの富裕な商人でシャリーフと経済的に対立
シャリーフはファースの重要な商業地区であるカィサリーヤへのビルディーイーンへの進出を、その出自を根拠に阻もうと試みる。
出自の神話…血統は都市内部の対立において、ある集団の優位を確立するためのプロパガンダとして用いられる
→サァド朝のシャリーフとファースのシャリーフを結び付ける唯一の要素

ワッタース朝最後の君主であるアフマド・ワッタースィーの治世、ファースのシャリーフたちはカィサリーヤからビルディーイーンを追放することをスルターンに要求する。スルターンはファースのウラマーにファトワーを求める。
→出自は差別の理由となりえないこと、追放に反対することで意見の一致
ファトワーを提出したウラマー=サァド朝の支配に抵抗した人々

〔結論〕(1036-1037)

サァド朝
・地域権力と中央政府の既存のシステム内部での、外交と武力行使によって権力を獲得した王朝
・宗教的要素=シャリーフの血統はその権力獲得の正当化、正統性の源

ファースのウラマー
・彼らによって承認を受けない限りいかなる権力も正当ではない
・血統に基づいて聖性が与えられるとか、ムスリム共同体に対するヘゲモニーの権利が得られるという主張への反対
・過激な神秘主義や、マフディー主義の影響を受けたシャリーフ主義への不信

ファースの征服ではこの二つの宗教的な立場も対立
16世紀モロッコにおける権力の所在や、正当性の観念・象徴をよく表している

E. Gellnerの主張:
正当性の問題に関してウラマーの評決は事後になされ、事実上の権力に判断を下すのではなく、それを承認する
→ファースの征服はこのモデルに該当しない
→サァド朝のスルターンは支配の正当性を得るためにウラマーのバイア=承認を必要とした

Cl. Geertz:
モロッコのスルターンは2つの他の地域では対立する原則を兼ねている
・イマームは超自然的な権力によってそのような資格を与えられているからイマームである
・イマームは共同体の資格のある代弁者がそのことで合意したからイマームである

イフラーニーの記述:
サァド朝の高貴な血統の正統性は、聖者の勧告と博士の承認によって根拠づけられる
→シャリーフであることが権力の行使を正当化すると信じる者にとっても、ウラマーの承認は必要である


2013年7月17日水曜日

ポルトガルの海外進出とマグリブ・アクサー

7/5(金)に京都女子大学でゲストスピーカーとして話した時の配布資料に、やや手を入れたもの。
ポルトガルの海洋進出というと、インドから東南アジアの香辛料取引への介入やブラジル経営の話が中心になって、アフリカの特にモロッコ支配については、海外進出の発端である1415年のセウタ征服以降ほとんど言及されないように思います。
今回の授業では、ジョアン1世によるこの征服遠征の背景やその後の展開、そしてこのポルトガル人の進出に対するムスリムの反応について、特に前提知識のない人を想定しながら説明してみましたが、若干概略過ぎたようにも思います。「平和のムーア人」と呼ばれる、ポルトガル人の支配に協力するムスリムの話など、興味深い事例がいくつもあったのですが、またの機会に…

ポルトガル語の単語の表記については、山川の新版世界各国史シリーズのそれに従っています。

2013年6月26日水曜日

サァド朝とマフディズム まとめ

Mercedes García-Arenal. "Mahdisme et dynastie sa`dienn". Mahdisme: Crise et changement dans l'histoire du Maroc. Ed. Abdelmajid Kaddouri. Casablanca: Najah El Jadida, 1994.

 この論文は、サァド朝によるマフディー像の利用を、王朝の創始者であるムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンと最盛期の君主であるアフマド・マンスールを中心に分析する。マフディーの名における権力樹立の試みはマグリブでは繰り返し見られたが、統治者がその象徴と宣伝を利用するのは珍しく、この点でマンスールの事例は特殊である。以下の議論ではそれぞれの象徴と宣伝の手段を分析し、マフディー像がどのような言葉で表明されてきたかを見る。そして王朝創始の偉業とその継続の試みの間で見られる矛盾の解決を試みる。マフディー像は単に象徴としてだけでなく権力の象徴体系としても言及される。

 著者はまず、統治者や王が神といくつかの特徴を共有しているという問題に触れ、『王の二つの身体』や『王の奇跡』といった著作に言及する。またドルス(M. Dols)は預言者の奇跡治療者としての力について研究しているし、ドゥッテ(E. Doutté)は聖者と魔術師の力が全く同一で区別が困難であることを指摘している。そして王権が魔術的な起源をもつという概念や、あらゆる君主権に内在する神聖性という概念はよく知られており古典的でさえある。要約するなら、「国家は確立して以降永続性の意志であり、超越性の追求であり、あらゆる超越性と同様に必然的に神聖性で形作られている。人々はこの神聖性を権力を保持する者たちを介して表現しようとした。」この(聖なる王権という)問題について、アフリカでは人類学者が、ヨーロッパでは歴史研究者が関心を持ってきたが、両者の関係は乏しく重なり合うことが少なかった。ギアツ(Cl. Geertz)、ダクリア(J. Dakhlia)、ソ(Michel Sot)らの研究が例外として挙げられる。これらは権力がそれを介して現れるような儀礼やイメージについて議論し、権力の象徴体系についての研究と権力の性質についての研究の類似を示した。マフディー像は以上の前提に基づいて研究することに適している。そして集団的表象と個人的野心の結合する代表的な事例である。「正しく導かれた者」を意味するマフディーは世界の終わりに神から遣わされる最高の支配者であり、終末の前に神の霊感によってムスリム共同体を指導する。マグリブではマフディーは宗教の再生者という固有の特徴を獲得している。そして神による統治権、神によって選ばれ導かれること、預言者の子孫であること、無謬で法に関する最高権威であることによって特徴づけられる。よってマフディーは個人的カリスマの権威を体現し、既存の規範構造と断絶する権利を保持していると同時に、「伝統的」性格の権威を与えて正統化する、家系によるカリスマの保持者でもある。マフディーはマグリブにおいては独自の共同体を創始し導こうとする戦闘的なムラービトであり、そしてスーフィズムと預言者の模範や「良き導き」といった点で密接に結びついている。両者の境界は閉ざされていないのである。人類学において聖なる現象は魔術と宗教の二極との関係から定義される。前者は個人的、後者は集団的なものである。王権にはその双方の基礎があり、魔術的権力は断絶、宗教的権力は永続で家族の崇拝に根付いており、王朝的である。神聖な血統によって獲得された資格が権力を与える。「魔術的」な王は勝者の王であり、力のある王である。「宗教的」な王は王朝的な王である。宗教的な水準での伝統と儀礼は王権の連続性を強調し、君主を先祖の世界と繋ぐ結びつきの価値を強調する。サァド朝のマフディーはこの前提を考察し直すうえでの興味深い事例である。

 サァド家のシャリーフの一族は8/14世紀ヒジャーズ地方からマグリブに移住したとされる。この逸話は、長期間のナツメヤシ栽培の不振に不安を覚えたダルア地方の住民が、預言者の子孫が持つバラカの魔術的な力を期待したと伝えている。同様の話はアラウィー朝の先祖にも知られており、聖なる家系と結びついた東方の起源は魔術的な性質を獲得していた。王朝初代のムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは15世紀末に活動を開始し、法学者として知られていたが、同時に魔術を行なっていたとされる。また彼は戦闘的なムラービトとして活動し、東方への巡礼中も含めて各地で悪を禁じ善を命じていた。この種の逸話はムワッヒド朝マフディー=イブン・トゥーマルトにも見られ、マグリブの歴史における回帰的な要素である。またその2人の息子については、将来人々の指導者になることを予言する夢や魔術的な印が伝えられている。彼はこの種の主張を繰り返し、マフディーと称されていた。そして915/1510年バイアを受けると、マフディズム的な響きを持つ「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」を名乗った。またサァド朝の政治運動とジャズーリー教団は協力関係にあったことが知られている。その開祖ジャズーリーは支持者の一部からマフディーとみなされていたし、その発言にもシャリーフという血統の高貴さを強調するもの、そして預言者の言葉を借りて自身がマフディーであることを宣言するものが見られる。ムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは、ジャズーリーが結びついていたスース地方のマフディズムの伝統を意識的に利用したのである。そして彼の宣伝の中では、その2人の息子も魔術的な記号を付与されている。その後彼は息子たちをファースに送り、教育を受けさせている。聖性の正当化には、ファースのウラマーの系譜に連なることもまた必要とされたのである。またジャンナ―ビーによれば、1513年頃サァド朝の支持者たちはアフマド・アァラジュのことをファーティミーと呼んでいた。ところがイフラーニーは、彼らがシャリーフの系譜に属することと、このことについてウラマーの確証を得たことに依拠して彼らが正当な統治者であることを示そうとしており、マフディズム的な要素は消えている。つまり王朝的カリスマだけが持続している。
 しかしその後もサァド朝の統治者たちは、ウラマーの支持が得られない時や既存の規範を侵犯する時には、マフディー像を利用し続けた。1554年ファースを征服したムハンマド・シャィフは、墓の銘文で、古い規範を破棄し新たな規範を作りうる人物であることが示されている。そして個人的な特徴が強調されており、その先祖、つまりムハンマドの法を革新するために神が指名したという例外を除き、家系への言及は見られない。またシャリーフであることは魔術的な特徴を排除するものではない。ムハンマド・シャィフは[ママ]1524年ムッラークシュを占領し1554年までマリーン朝=ワッタース朝との戦いを続けるが、そのうち特に重要なのは1549年と1554年の2度のファース包囲戦である。そして包囲戦は既存の権力の合法性を根拠にサァド朝に抵抗した有力なウラマーの殺害を伴った。1549年の包囲戦の際ムハンマド・シャィフはファースの高名な法学者ワンシャリースィーからのバィアを取り付けようと試みたが、法学者は法的な理由がないことを理由にこれを拒んだ。ミクナースやファースの他の高名なウラマーたちもムハンマド・シャィフとの戦いを呼びかけ、殺害された。これらのウラマーにとって、権力が正当であるためにはその合法性を彼らから承認される必要があり、サァド朝の権力はこの点で不当であった。そしてムハンマド・シャィフはこの意見に対して、マフディーとして、古い規範を破棄し新しい規範を作る法の革新者として、彼の魔術的な性質と無謬性の特徴を突きつけたのではないか。伝統的な権威の基準の擁護者の支持が得られない時には、個人的カリスマだけが権威と権力の基準だったのである。

 ムハンマド・シャィフの後継者であるアブド・アッラーフ・ガーリブがマフディーの名前で参照されている事例は見当たらない。むしろ彼はスーフィーのアフマド・ブン・ムーサーの証言によって、偉大な聖者、枢軸(クトゥブ)であるかのように示される。また彼は公共建築の建設者であったが、それを錬金術によって実現したと伝承は伝えている。神権統治の概念や君主の超自然的能力に関する象徴的な要素は、アフマド・マンスール・ザハビーの事例においてより顕著である。幼少期のアフマドの偉大な将来を予言する逸話は数多く、それらを紹介する中でイフラーニーは、政治権力は預言者の、さらには神の指名によって正当化されるという考えを承認しており、アフマドが行ったその神格化の宣伝活動を我がものとしているように思われる。アフマドが1578年ワーディー・アルマハーズィンの戦いで勝利してから後、諸史料は象徴的重要性を持つ逸話や典礼、豪勢さや栄光や宮廷儀礼について章を割いている。これらはカリフの壮麗化、神格化を意図した宣伝活動だった。その逸話の一つとして、ターンスィフト河畔で軍隊を前にして行った、息子ムハンマド・マームーンへの後継者指名の儀式が挙げられる。また預言者生誕祭(マウリド)やバディー宮殿建設、旅行や謁見の壮麗さが挙げられる。バディー宮殿は謁見と贅沢のためだけに用いられており、様々な象徴的な意味が込められていた。この宮殿でアフマド・マンスールによって実施されたマウリドは、その描写からは、先祖である預言者以上にカリフの名誉のために行われたように思われる。この祭りには王国の様々な社会階層の代表者たちが参加し、ヒエラルキーによって秩序付けられており、史料の記述では宮殿の様子は楽園に擬えられている。断食明けの祭ではスルターンは白馬に乗って軍隊に取り囲まれて現れ、ファーティマ朝から借りたパラソルの下で、半ば聖者、半ば戦士のように描写されている。その表現はアッバース朝のカリフのラカブを想起させるもので、偉大な過去の連続性と混入が行われている。そして寛大に贈り物を与える様子は豊富な雨の比喩で描写されており、これはハディースの、終末の前に現れて惜しみなく金品を与えるカリフの主題を想起させる。そのほか、闇夜を照らす月にカリフを対比する主題も用いられている。マンスールの旅行の壮麗さや儀礼は、預言者とその教友たちとの擬態によって王朝的・宗教的な意味を持った連続性を導入し、しかも単なる擬態だけでなく、預言者との系譜上の繋がりをも主張している。ヴェール(スィトル)の採用はファーティマ朝とアッバース朝から借りたもので、カリフと他の人間との差異と、神のカリフとしての例外的なアイデンティティーを示唆する。反乱の王朝による鎮圧に関する記述もまた、スルターンが預言者の振る舞いを再生産し、共同体をジャーヒリーヤのレプリカである無秩序から解放するという点で、正当化の意図を持っている。
 宮廷詩人たちの作品の中でアフマド・マンスールはマフディーであることが示唆されている。この印象は、年代記作家たちの記述を信じるなら一般民衆にも共有されていたようである。カッサールやムッラークシュのムフティーがアフマド・マンスールに捧げた作品は、後者がハディースに述べられているその世紀の革新者であることを主張している。またシャーティビーはマンスールをマフディーに擬えている。またイフラーニーが引用する一文では、マンスールによるスーダン征服は、ペストの流行や反乱、物価上昇、(スペインによる)オランの占領とともに、ファーティマ家のイマーム、マフディー到来が近いことの予兆であるとされる。スーダンの征服はウラマーから強い反対を受けた事業であり、マンスールはメシア的な主張によってこれを正当化する必要があったのではないか。一方ペストについては、イスラームではこの現象が生み出すのは「典型的な恐怖」であって、キリスト教ヨーロッパのように救世主的運動として表れることはなかった。マンスールのマフディズムへの参照はスーダン征服と関連して現れるが、その文書局の書類やフィシュターリー、イブン・アルカーディーといった年代記作家たちはマフディーという単語を用いることはなく、むしろ預言者との一体化、さらには神格化を行なっている。マンスールの大地とムハンマドの預言を相続する権利が言及され、「預言者の」という形容詞やカリフ位、イマーム位といった言葉が用いられている。そしてマンスールが、その唯一正当な政府のもとに、全てのムスリムを統治しウンマを統一する権利が強調される。逆にマンスールの支配を認めた者だけがウンマなのである。スーダン遠征の前にフィシュターリーが起草し、ボルヌーのスルターンに送られた書簡は、アフマド・マンスールこそが預言者と預言の後継者であり、大地を統治する権利を保持した普遍的皇帝(Empereur unversal)であり、ムスリムたちの唯一正当な政府であり、先行する政府全ての後継者にして継続者であり、その頂点であるとして、その征服を正当化している。そしてその支配下に入らない者は異端的であり、攻撃を受けるであろうと述べている。カリフ=マンスールは神から個人的に指名を受け、聖なる統治の力を持ち、神の本質に与るのである。スーダンはスンナ派の国であり、その征服はウラマーの強い反発を呼んだ。つまり、ファース征服のときと同様、君主の行動が法的な支持を受けず、正当性を得られなかった。この遠征の後各地に送った手紙の中でマンスールは、スーダンの征服が預言者の一族、ファーティマ家、アリー家のカリフによる、不信仰者に対する勝利であることを繰り返し述べている。そしてこの勝利によって、不信仰者の土地がムスリムの支配下に入ったのだと主張している。数か月後トンブクトゥで反乱がおこると、サァド朝の指揮官マフムード・ザルクーンは町のカーディーに手紙を送っている。その中で指揮官は、サァド朝の権力は神が預言者の子孫に与えたものであり、それは将来イエスの手に渡ることを述べている。ここでイエス=イーサーは、終末にマフディーがダッジャールを倒すのを助けるとされる人物であることを思い起こす必要がある。そして手紙の中で、悪魔の誘惑によるもので、棄教であり不信仰であると断言している。つまり、カリフに従う者だけが良きムスリムであり、反乱を起こせばその資格を失うのである。またこの征服の際にフィシュターリーが作った詩では、黒人の肌によって象徴される闇の消尽と、カリフの支持者と反対者の根本的対立の主題が用いられている。これは救世主的プロパガンダに典型的な二項対立である。最後に、この遠征の際に捕虜としてモロッコへ連行された法学者アフマド・バーバーとの会見において、アフマド・マンスールはカーテンの奥に隠れていた。アフマド・バーバーが見抜いたように、マンスールは預言者の模倣から神の模倣へと移行していたのである。

 著者の結論は以下の3点にまとめられる。
 アフマド・マンスールのマフディズムの主張は、その人格の強力な神格化から発したものである。そしてイスラーム共同体の王朝の正当性と唯一の指導を再構成し、単一の共同体に対する君主権を確立することが、王朝固有の正当性の条件となった。この中世イスラームの伝統である正当化の議論は、マグリブでは明らかに救世主的な含意を含んだ言語によって具体化し、カリフの地位の主張と密接に結びついた。
 アフマド・マンスールの権力を正当化する言説はマフディーという単語は用いなかったものの、マフディズムを明確に想起させる。ただしマフディーが「魔術的」な人格であるのに対して、マンスールの言説は彼を「宗教的」モデルの内部に位置づけており、これは12世紀以降のマグリブで有効だった王朝創始者たちの言説とは非常に異なっている。
 サァド朝のもとでシャリーフィズム、マフディズム、スーフィズムの3つの要素が結合し、その結果として新しい非常に固有の何か(政治制度?)が生み出された。

2013年6月3日月曜日

日本イスラム協会公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」その2

2013年6月2日東京外国語大学で日本イスラム協会の主催で開催された公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」の講演より、齋藤剛「ベルベル人とイスラーム―モロッコにおける「先住民」運動の展開とその宗教観」の内容をまとめました。
なお、佐藤講演についてはこちら。

最初に発表の目的として、以下の二点が挙げられた
・モロッコにおける「アマズィグ運動」の成立と展開の紹介
・運動の言語観、歴史観、故郷観、宗教観の特質を明らかにすること

I. ベルベル人の概要
ベルベル人とはベルベル語を母語とする人々のことで、北アフリカの「先住民」であるといいう認識が近年現れている。彼らは北アフリカ一帯を中心に、東はエジプトのスィーワ・オアシス、そしてニジェール、ナイジェリア、モーリタニア、ブルキナファソなどの西アフリカや、さらにカナリア諸島まで広く分布している。そのため形質の面でも習慣の面でも非常に多様であり、専門家にとってもベルベル語を母語とする人々であるという以上の定義はし辛いのが実態。
ベルベル(berber、berbère)という呼称は多少であり、当人たちは自由な人、高貴な人を意味するアマズィグ(Amazigh/Imazighen)と自称する。
大半はモロッコ、アルジェリア(、チュニジア)に住んでおり、民族ごとの統計が存在しないため正確なベルベル人口は不明だが、全体では千数百万人と言われる。
ベルベル語を母語とする、というのがその定義ではあるが、言語の地域間の際は相当ある。
宗教的には圧倒的多数がムスリムである。
ベルベル語は歴史的には固有の文字を使用せず、それがこの言語の地域間の際の大きさの一因となっている。ただしアルジェリア南部を中心に活動する遊牧民トゥアレグ族の地域では、ティフィナグと呼ばれる独自の文字が古くから存在した。そして近年になって、ティフィナグをベルベル固有の文字として採用する動きが拡大している。

アラブ人とベルベル人は重なり合ったカテゴリーであり、アラブ人のベルベル化、ベルベル人のアラブ化という現象がみられる。そのアイデンティティーは重層的であり、ベルベル人であることがアラブ人であることを否定しない、そして逆も然りであることに留意する必要がある。ところでアマズィグ運動は、この両者を明確に区別しようとする傾向がある。

II. アマズィグ運動成立の歴史的背景
・アマズィグ運動が持つアラブとベルベルの二項対立的傾向の起源
ベルベルの研究は19世紀フランスのアルジェリア植民地化によって始まった。
アブド・アルカーディルの反フランス運動に対する現地住民の間での態度の際から、ベルベル人の存在が発見される。特にカビール山地にすむ部族民の研究から「カビール神話」が形成される。
→ベルベル人はアラブ人に対してより平等な社会を形成している、イスラーム化の程度は低く表層的なイスラーム化に留まる、女性に対してもより平等である、フランス文化と同質であるという想定
ムスリムであるアラブ人に対してキリスト教的なベルベル人という、両者を差異化する視点が現れる。キリスト教の宣教師の、イスラーム化したベルベル人をキリスト教化しようとする活動も行われる。

モロッコにおける植民地支配期のベルベル研究は、1912年の植民地化(保護領化と称された)以前は探検の時代であり、アラブとベルベルがそれほど明確に分けられるものではないことが指摘されるなど、比較的柔軟な発想によって行われた。しかし1904年以降は組織的な研究が開始し、イスラームとベルベルの関係を巡る特殊な見解(「表層的イスラーム論」=ベルベルは侵略者であるアラブ人によってイスラーム化されただけであり、その程度は低く表層的なものに留まる、という議論)が醸成された。そしてアラブ人ベルベル人の二項対立的な図式に基づくイメージが確立する。
アラブ⇔ベルベル
アラブ人⇔ベルベル人
アラビア語話者⇔ベルベル語話者
マフゼンの地⇔スィーバの地
イスラーム化されている⇔イスラーム化されていない
シャリーア⇔慣習法
ベルベル勅令の成立…シャリーアの適用対象をアラブ人だけに限り、ベルベル人の問題解決は先祖から受け継いできた慣習法によって行うことを規定
→アラブ、ベルベルの双方から、「我々はムスリム」という意識に基づく反発を受ける

フランス植民地支配期の二項対立的民族観は、両者の際を強調、強化することになり、これはアマズィグ運動指導者たちに受け継がれていく。しかしこの見方からは、二重言語話者の存在や、ベルベル人居住地域における知識人(ウラマー=イスラーム知識人?)の活躍の重要性、本人たちの自己認識における重層的なアイデンティティーといった要素が零れ落ちてしまう。

III. アマズィグ運動の成立と展開
アマズィグ運動交流の背景として、モロッコ独立後の国家統合政策がある。モロッコの植民地(保護領と呼ばれる)統治は既存の統治体制であるアラウィー朝を温存する形で行われた。そしてその権力を統制するために、地方のベルベル部族民を支援し、強化した。1956年にモロッコが独立すると国家統合政策の支柱として「アラビア語化」「モロッコ化」が掲げられた。これに対するベルベル部族民の抵抗運動は、皇太子時代のハサン二世によって武力によって鎮圧された。ベルベル諸語「方言」の公的領域での使用は禁止され、1990年代半ばまでメディアや学校教育からベルベル語は締め出されることになった。
ベルベル人は「アラビア語を話すモロッコ人」を中心とする国家統合政策によって周辺化される。また独立に伴う入植者の国外流出によって、その空白を埋める形でベルベルの故郷からの人口流出が進み、独自の慣習や言語の忘却への危惧が高まる。また都市へ流入したベルベル人に対しては、すでに長く都市に居住しているアラブ人からの偏見・差別がある。こういった社会状況を背景として、アマズィグ運動が成立する。
1960年代後半、一部のベルベル系住民の中から言語や慣習の保存、アイデンティティーの確立を訴える運動が形成される。彼らはベルベルではなくイマズィゲンを自称し、そのように呼ばれることを要求する。その主導者たちの多くは「世俗主義」的な思想を継承し、学校教員や大学の教員、学生、そして役人が参加していた。またフランスの同時代の社会主義、共産主義運動の影響を受けていた。
彼らは1967年「モロッコ文化交流協会」を設立するが、この名称は「アマズィグ」という言葉を使えないため採用されたものであり、また90年代半ばまで活動は活発化しなかった。1994年ハサン二世はベルベル三方言によるニュース番組の放映を許可(一方言ごとに5分の割り当て)し、その後活動が活発化する。2001年にはムハンマド六世がアマズィグ文化をモロッコ文化の一柱として公認、IRCAM=王立アマズィグ学院の設立。アマズィグ語教育の準備が開始され、2003年から小学校での教育が開始される。2011年にはアマズィグ語を公用語とすることが正式に発表される。
→国家主導でのアマズィグ運動への支援
…先住民運動の世界的な興隆、アルジェリアでの民族対立の激化の例、欧米に対して人権に配慮していることを示す意図
アマズィグ運動はアマズィグとしてのアイデンティティー、言語権、教育権を希求し、アラビア語化(国家統合政策)や政治体制(ベルベルの社会的周辺化とアラブの政治的優位)、「アラブ」への批判を行なう。そして「イスラーム」に対しても独特のスタンスを持つ。

IV. アマズィグ運動とイスラーム
・言語観
ベルベル語は地域間で差異が非常に大きいため、標準アマズィグ語を生成することになった。これはエリートの主導で行われ、三方言の話者からそれぞれ二人ずつの合計六人で、対等な形で語彙が選定された。その結果三方言からのパッチワークのような言語となり、従来使われてきた生活言語としての「方言」とは乖離することになった。また標準アマズィグ語は「世俗性」が求められ、宗教的な意味を持った表現は別の言葉で置き換えられることになり、イスラームとは距離を取った語彙選定がなされた。

・故郷観
ベルベルにとっての故郷はタマズィルトという言葉で表される。
出身村落、部族、地域、国と範囲が変化する、そして具体的な人間関係の連鎖と関連した故郷概念である。
これに対して運動はタマザガという新たな故郷概念を創出する。これは北アフリカ全域及び西アフリカのベルベル人が分布していると考えられる「国々」を包含する概念で、国家の集合体として構想されている。そこでは、イスラーム到来以前から今に至るまで、一貫してアマズィグ文化が継承され、独自のイスラーム文化が形成されてきたとみなす。

・宗教観
タマザガの内部では「穏健なイスラーム」「アマズィグ的イスラーム」が信仰され、その外部では「過激なイスラーム」が信仰されているとみなされる。タマザガはアマズィグ的イスラームが展開する固有の空間なのである。

・歴史観
運動はアラブとアマズィグの関係を再規定する。その対象はアラブとイスラームである。しかしこの差異化において運動はジレンマを抱え込むことになる。
まず世俗性と宗教性において、運動家たちと一般のベルベルはアラブからの差別などの経験を共有しているものの、それは後者においてはイスラームへの批判へと向かわない。むしろ彼らは、アラブが敬虔なムスリムでないからそのような行動をするのだと批判する。
そして「アラブ」と王権の関係において、アラブへの批判を突き詰めていくと、運動は王権批判の問題に直面する。国王の宗教的正統性の源泉はそのシャリーフの血統にあり、つまり国王はアラブの中のアラブだからである。これを回避するために、正統性の源泉の別の要素である、国王は信徒たちの指揮官である、という主張や、国王とのバイアはベルベル的なものだという理論を挙げる。
差異化の論理としては、植民地主義的ベルベル観を援用する。これはアラブ・イスラーム的歴史伝統を忌避するためである。そしてグローバル・スタンダードとなりつつある諸概念による再定義を行なう。
平等主義的社会→民主主義的社会
女性の扱いの平等性→女性の人権擁護
イスラーム化の低さ→宗教的・文化的多様性への寛容
上述のジレンマの乗り越えが試みられる。世俗性の強調と宗教性の受容については、独自のイスラーム理解の提示、つまりタマザガにおける「アマズィグ的イスラーム」を提示する。アラブと王権の関係においては、王権とアマズィグ文化の類縁性を強調し、イスラーム到来以前と以降の諸王の連続性を強調するとともに、アラブの「内的差異」を創出する。そしてタマザガの外部から流入してきた「アンダルス・アラブ」を批判する。


アマズィグ運動は独立以降の国家統合政策への批判から興り、アラブ・イスラームを批判対象とした。その展開は国家が主体的にリードし、モロッコ国外のグローバルなネットワークの活用、世界的な先住民運動への関心、グローバル・スタンダードとなりつつある概念への依拠という特徴がみられる。
運動の指導者たちは「世俗主義」的な背景を持っており、イスラームからは距離を置きたい一方で、支持者を獲得するためにはイスラームを無視できないというジレンマを抱えている。そのため、植民地支配期の研究の民族観、新たな故郷概念・言語・歴史観の創出と連動した独自のイスラーム理解を創造している。
→「アマズィグ的イスラーム論」「穏健なイスラーム論」「表層的イスラーム論」
→グローバル・スタンダードに依拠した権利請求の展開
(→信教の自由へも拡大)
ただしこれらの展開には、一般(ベルベル?)住民の宗教意識と乖離している面がある。

2013年6月1日土曜日

2012年ムーレイ・ブーアッザのムーセム

2012年4月8日モロッコ中部のムーレイ・ブーアッザという村で行われたムーセムを見学してきました。
ムーセムというのは聖者、この場合は村の名前の元であるムーレイ・ブーアッザ(アブー・イアッザー)という12世紀ごろの聖者の生誕祭のこと。
写真は聖者廟の前から延びる参詣路の両側に立ち並ぶ臨時スーク。
(写真テストのために掲載したものです)