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2016年6月26日日曜日

近世初頭モロッコの知的環境について

(別の個所でつぶやいた話をもとに、こそっと更新してみる)

17世紀前半モロッコの学問的状況を調べていたら、1649年にフランス人P. Danが出版した『バルバリアの歴史』に、当時のフェズにおける数学や医学教育に関する短い記述が見つかった。
〔法学者やクルアーン注釈学者のほかにも〕そこには小規模な学校を持っている師匠たちがおり、そこで数学や医学を教えている者も幾人かいる。ただし非常に晦渋で、キリスト教徒の学校におけるこれらの学問とも、そこで行われている教育方法とも、全く関係がない。
... outre quelques autres maistres qui y tiennet les petites Escholes, & quelques-uns qui y enseignent les Sciences de Mathematique & de Medecine, quoy que d'une maniere assez obscure, & qui ne tient rien de ces scicnces & de la maniere de les enseigner qui est pratiquée dans les escholes des Chrestiens.
Dan, Pierre. 1649. Histoire de Barbarie et de ses corsaires de royaumes, et des villes d'Alger, de Tunis, de Salé, & de Tripoly: Paris: Pierr Rocolet, p. 249.

この作品は、1637年に初版が出版されており、BNFのGallicaにはそちらがアップロードされている。今回はarchive.orgにアップロードされた1649年版を参照した。
なお、この一文を発見したのは、Jacques BerqueのL'intérieur du Maghreb(p. 147, n. 3)によるもので、Berqueは1649年版を参照している。

この作品は、特に16世紀以降相当数ある、ヨーロッパ人捕虜やその解放交渉人によって執筆された北アフリカ事情の報告書であり、著者がフェズのマドラサで行われていた教育についてどの程度正確な情報を得ていたかという点において、一旦留保する必要があるとおもう。

とはいえ、その前後に記載された詳細な情報の正確さや、この時期以降のモロッコにおける非実学的な学問の衰退を考えると、17世紀前半の全般的な混乱からアラウィー朝成立までの時期が一つの重要な分岐点であったのかなあと、厳密な検証は難しいながら思う次第。
前述の個所で著者は続けて曰く、
今日この町は、その学校においても交易においても、もはやかつてほど栄えていないし、高名でもない。この国を苛んだ戦争のためである。
Cette Ville aujourd'huy n'a plus tant de vogue, & n'est plus si fameuse, tant en ses escholes, qu'en son trafficq, comme elle a esté, à cause des Guerres qui ont travaillé ce pays.
北アフリカ地域の衰退の起源をどこに位置付けるかは、地域的にも分野的にも多様であり難しい問題だが、モロッコ地域の知的環境に関して、段階的に考えてみる。

まず15世紀以降の世界的な交易網の変動の中で、モロッコ地域はサブサハラ地域と西欧地域との交易の結節点としての重要性を喪失していく。

この傾向に対して、16世紀中葉に成立した中央集権的な国家(サアド朝)は、一方ではサハラ砂漠を介した交易路、他方では大西洋航路の支配強化を試みていくが、これは16世紀末から17世紀初頭の社会・経済的危機を背景とする政治的混乱の中で破たんしていく。

そして、地域内外の交易活動の拠点として発達してきた、フェズを代表とする大都市の経済活動の停滞は、その知的活動の環境を悪化させ、法学関連の実学を除く諸学問の停滞を引き起こした…

みたいなことは言えるのかしらん。

2014年3月23日日曜日

法学文献から見た15-16世紀マグリブ・アクサー北部の境域

Mezzine, Mohamed. 1988. "Les relations entre les places occupées et les localités de la région de Fès aux XViéme et XVIiéme siècles, a partir de documents locaux inédits: les nawāzil." Relaciones de la península Ibérica con el Magreb siglos XIII-XVI : actas del coloquio (Madrid, 17-18 diciembre 1987). Ed. Gárcia-Arenal, Mercedes & Viguera, María Jesús. Madrid: Consejo Superior de Investigaciones Científicas, Instituto de Filología: 539-60.

 モロッコ人社会史研究者ムハンマド・マッズィーンによる、15-16世紀マグリブ・アクサー北部の境域に関する論文を取り上げました。マッズィーンは中世後期から近世初頭のこの地域をフィールドとしており、主要な著作として、サアド朝期のファースとその「農村」を扱った2巻本の浩瀚な研究書Fās wa-bādiyat-hāがあります(1986)。

 1415年ポルトガル王国ジョアン1世によるセウタ占領と、その後一世紀程の間断続的に行われた征服活動は、マグリブ・アクサー北部に新たな「境域」を誕生させます。この異教徒の征服によって成立した境域では、ポルトガル人を中心としたキリスト教徒と被占領地域周辺に暮らすムスリム住民が対峙しあい、頻繁に軍事的な衝突を繰り返します。
 両者の関係はなによりこの対立から生じた恒常的な戦争状態によって支配されます。しかし彼らは同時に隣り合って暮らす必要性から、交易関係もまた発達させていきます。そしてこの関係を規定する法学者たちの議論もまた蓄積されていきます。マッズィーンが中心的に用いている法学文献『ジャワーヒル』は、キリスト教徒とムスリムの関係について提起された質問と回答からなる様々なファトワーを蒐集したものです。
 この文献はJ. Berque以降様々な研究者が利用していますが、未だ校訂はされていません。将来何らかの形で発表しようと、留学中から少しずつ作業を進めているのですが…。またファトワーを史料とした社会史研究としては、D.S.Powersや少し前に取り上げたÉ.Voguetの他様々な研究者が手掛けています。

 マッズィーンのこの論文について少し言葉を足しておくと、興味深い事例をいくつも提示してはいるのですが、あまりにも個々の説明が簡潔すぎて物足りない、また評価の妥当性が判断できないという不満があります。
 それからIVの15世紀から16世紀にかけての通時的な変化については、以下の要約テキストの中でも述べましたが、具体的な事例が一切挙がっていないので何の説得力もありません。そもそもマーリク派のファトワー(をナズィーラ/ナワーズィルというのですが)は、ある法的意見を必要とする問題が起きたとき、その問題に固有の文脈を重要視するが故に、社会史で利用可能になるような詳細な情報が記載されるわけです。よって法学者の回答での見解も個々の事例に即したものとなっているはずで、その変化を恣意的にならずに比較するのは非常に困難であろうと考えられます。彼らはなにか抽象的な同一の質問について見解を述べているわけではないのですから。そして「狂信」や「寛容」という概念にも説明がないため、法学者たちの言説に「狂信-寛容」という変化が起きていたのか、判断の使用がありません。「ナショナリズム」に関する言及も全く唐突のことに思えます。
 15世紀以降のマグリブ・アクサー北部におけるキリスト教徒とムスリムの2つの集団が、恒常的な戦争状態にあったこと、それにもかかわらず両者が交易の他様々な関係を結んでおり、法学者たちがこの関係を規定しようと試みていたこと、この点についてマッズィーンの議論に問題はありません。しかし両者の関係の発展についての結論は、多分に議論の余地があるでしょう。

(この著者の議論はいつも結論がぱっとしないのですが…)





2014年3月19日水曜日

「ヒンタータ族のアミール」中世末期ムッラークシュの支配について

 フランスのモロッコ植民地統治時代に活躍したセニヴァルの古い論文をまとめてみました。

 イスラーム伝来以降のマグリブ・アクサーについては、概ね時代とともに史料は増加するのですが、その中で15世紀は例外的に乏しいという問題があります。これは、中央集権的国家の消滅により王朝年代記叙述の伝統が途絶えたこと、証書史料の保存状況もよくないこと、聖者伝文学の興隆が見られるサアド朝期以前の段階であること、そしてポルトガル人やカスティーリャ人など外国人による叙述が増えるのも16世紀以降であることによります。そして特にマグリブ・アクサー南部では情報が乏しく、南部の主邑たるムッラークシュをいつ頃誰が支配していたのかさえ、確かなことは殆ど言えなくなってしまいます。
 盛期マリーン朝期までは、特にイブン・ハルドゥーンが様々な情報を報告していますし、16世紀初頭になると、特に最後の外国人による情報が急増します。セニヴァル論文は、この間ムッラークシュを支配していたと考えられる「ヒンタータ族のアミール」についての情報を集めたものです。

16世紀スース地方の食生活:大麦を食べると…?

 あまりちゃんと更新していませんが、小ネタ紹介。妙なタイトルが付いておりますがお気になさらずに…

 17世紀初頭にスース地方のあるウラマーが著した、あまり知られていない小さな聖者伝『マナーキブ・バウキーリー』を読んでいたのですが、16世紀マグリブ・アクサー南部の食生活に関する妙な記事に行き当たりました。

2014年1月31日金曜日

部族の族長とムラービトゥーン まとめ

Voguet, Élise. "Chefs de tribus et murābiṭūn". Mélanges de l'École française de Rome - Moyen Âge. 124.2, 2012: 375-82.

 この論文で言うムラービトゥーンとはムラービト朝のことではなく、リバートに籠る人々、つまりいわゆる「イスラーム聖者」のこと。15世紀編纂されたファトワー集をもとに、中世末期中央マグリブの「田舎のエリート」の機能や性質、そしてスルターン国家との関係について論じています。

 このファトワー集はJacques BerqueやHouari Touatiも利用してきた文献で、Al-Durar al-Maknūna fī Nawāzil Māzūnaといいます。近年アルジェリアのコンスタンティーヌ大学の院生が学位論文という形で分担して校訂しているらしく、部分的ながらPDFが大学のデポジトリからダウンロードできます。

 論文の要点としては、
・中世末期中央マグリブでは、主にベドウィン部族の族長とムラービトゥーンが田舎のエリートを構成していた
・特に中央集権的な国家の権威が及ばない地域で、両者は国家の機能を代行し、富を蓄積し、国家と競合する独立性の高い権力となっていた
・ベドウィン部族の族長はスルターンと同様に、支配下にある地域住民の安全保障と引き換えに服従と納税を認めさせており、この住民を保護することによって富を得ていた
・ムラービトゥーンは地域住民にとって、国家から任命される統治者やカーディーよりも利用しやすく頼りになる調停者であった
・彼らの紛争調停という政治的機能を国家は正当化し、その支配が及ばない地域での代替として利用した
というところでしょうか。
 Berqueの「文学的な」議論を良くも悪くも整頓したような…あとところどころ、よく意味の分らない言葉づかいが出てくるのが困るのですが…。


2013年7月25日木曜日

権力の言語 まとめ

Stephen Cory. “Language of Power: the Use of Literary Arabic as Political Propaganda in Early Modern Morocco”. The Maghreb Review 30(1), 2005: 39-56.

 1585年サァド朝君主アフマド・マンスールは、現在のカサブランカ近辺のターマスナー平野で、息子で後継者のマァムーンに対するバィアの儀式を挙行しました。この儀式にはモロッコ各地の名望家たちが出席し、書記官アブド・アルアズィーズ・フィシュターリーの起草したバィアの文章が読み上げられた後、各人スルターンの前で服従の誓いを行ないました。

 フィシュターリーはこの文章を、彼の著した年代記の中で引用しています。その中ではサァド朝のイスラーム世界全体に対するカリフ位が主張され、その理論が詳細に説明されています。アッバース朝の衰退以降途絶えていた普遍的なカリフ位の主張が、16世紀の国際情勢とサァド朝のシャリーフの血統を重視する政治的主張によって復活したわけです。

 マンスールの宮廷で作成された文献は、非常に複雑で様式化されたアラビア語で書かれており、また非常にバイアスの掛かった、そして非現実的な内容を含むものです。そのため歴史研究者はしばしばその史料価値を軽視してきましたが、コーリーはこの種の文献の史料価値を擁護したうえで、これらに用いられている言語そのものが、君主と臣下の分離を強調する働きを持った、「権力の言語」であったと主張します。そしてバィアの文章の中で述べられているシャリーフの政治イデオロギーが、サァド朝滅亡後もアラウィー朝によって継承されていることに注目しています。

 論旨は興味深いのですが、若干気になる点を挙げると、
・サァド朝によるカリフ位の主張は16世紀前半アァラジュの治世で既に公然とされている
・そもそもムワッヒド朝の後継諸王朝においてもカリフ位の主張はされている
・シャリーフと政治権力の結びつきはマリーン朝期においてすでに見られる
といった、マンスールの治世以前の状況に関する認識の粗さが目につきます。
 それからコーリーは、サァド朝宮廷の称賛文学が、若干のモロッコ人研究者を除いて、現代の研究者から無視されていると述べていますが、それは誇張でしょう(そもそもこの著者は、先行研究に対する目配りが極めて乏しいように思います)。
 また〔〕で括って示しておきましたが、アラビア語の翻訳は必ずしも丁寧にされているわけではないかもしれません。この箇所、訳文に括弧が多いので気になってチェックしたのですが、(大意はそこまで変わらないとはいえ)誤訳といってよいと思います。他の研究者がテキストの難解さゆえにこれらの文献を利用していないと非難している時に、このような問題はまったくいただけない。雑誌自体もちゃんと編集しているのか、心配になる個所が散見されますし…

 いずれにせよ、マンスールの治世の安定は16世紀末以降の社会・経済的危機の中で失われていき、その急死とともに王朝は急速に崩壊していくわけです。その政治的危機に、マンスールの提唱した政治的イデオロギーや儀式がどの程度、どのように影響したのか、検討する必要があるように思います。


2013年7月22日月曜日

モロッコにおける聖性と王朝権力 まとめ

García-Arenal, Mercedes. "Sainteté et pouvoir dynastique au Maroc: La Résistance de Fès aux Sa'diens". Annales ESC 1990(4), 1019-1042.

 王朝権力の宗教的な要素による正当化という問題を、16世紀中葉モロッコのサァド朝によるファース(フェズ)の征服という事件を題材に論じた論文です。
 サァド朝のシャリーフ(預言者の子孫)の成功は、15世紀以降のイベリア半島のキリスト教徒の進出に対するジハードと関連付けて論じられ、しばしばナショナリズム的な解釈がされてきましたが、この王朝とその前代の王朝であるワッタース朝の抗争を見る限り、この解釈は支持できないとガルシア・アレナールは述べます。そして、特にワッタース朝の首都ファースの包囲戦の際の、スーフィー教団シャーズィリーヤのスーフィーとファースのウラマーたちの逸話を検討し、
・血統が聖性の源となる…支教団ジャズーリーヤ、サァド朝
・個人的な徳が聖性の源となる…支教団ザッルーキーヤ、ファースのウラマー
という対立軸が、16世紀のモロッコの権力の正当化を巡る言説においてあったという仮説を提示します。そして、モロッコではシャリーフであることが権力の保持を正当化すると考える立場においても、ウラマーによる正当性の承認が必要とされたと主張します。

 この論文について若干問題点を指摘すると、
・出来事のクロノロジーに対する配慮の不足
・幾つかの概念(特に「民衆的」)の曖昧さ
が挙げられ、それぞれF. R. MedianoやV. Cornellといった研究者からの批判を受けています。
 また、シャーズィリーヤ内部のザッルーキーヤとジャズーリーヤの対立という主張は、シャーズィリーヤとカーディリーヤの対立という主張と同じくらい疑わしいものに思われますし、1036頁のファースのシャリーフに関する記述は正直意味がよく分りません(特にun groupe dominant dans la ville de Fès qui s'oppose au nouveau pouvoir des Sa`adiens aussi parce qu'ils sont des shurafā...の下り、ファースのシャリーフたちがサァド朝権力に抵抗したという話はどこから…)。
 その他論理がよく分らない箇所、翻訳に頼っていて訳がおかしい箇所、細かい誤りなど、指摘していくといろいろあるのですが…とはいえ、サァド朝の地域統一に関するA. Courの重要な仮説を明確に否定し、その支配確立の過程を再度問題提起した点で、非常に重要な論文であることは確かです。

〔序文〕(1019-1021)

16世紀のサァド朝のシャリーフによる権力の確立は、イベリア半島のキリスト教徒によるモロッコ沿岸占領へのナショナリズム的反応と考えられてきた。
Abun-Nasrは、サァド朝の台頭の背景には安定した非部族的な政権を求める都市民の支持があったと主張するが、ファースの都市民はシャリーフの征服に頑強な抵抗を見せた。
A. Courは、ファースの影響力を持った人々は、スーフィー教団のカーディリー教団かジャズーリー教団のいずれかに加入しており、この帰属が政治的な態度の表明と関係していると考えた。そして、イベリア半島から避難してきたアンダルス人たちはワッタース朝には敵対的なサァド朝の支持者であり、ファースでジャズーリー教団に加入していた唯一の集団であったと考えた。

→このいずれの主張も支持することはできない。

出来事の枠組み:宗教的な人々の態度表明(1021-1026)

1509年頃、サァド朝の初代カーイムが帝国建設に着手
1524年、ムッラークシュの占領(息子のアフマド・アァラジュとムハンマド・シャィフによる)
1549年、ワッタース朝の首都ファースの第1次征服(ムハンマド・シャィフ)
1554年、ファースの第2次征服、モロッコの統一が確立
→比較的長期間(ムッラークシュ占領から数えても30年間)
→王朝支配確立のナショナリズム的解釈に対する疑義

両王朝の抗争に対するスーフィーとウラマーの関与を伝える逸話が多数存在する…
・和平条約締結の交渉や戦闘に参加

・王朝やその君主たちに対するスーフィーの呪詛
→どちらの陣営に対してもむけられる
彼らの政治に介入する能力は、民衆に対する影響力を反映したものか?
サァド朝の支持者=過激な神秘主義者(マジュズーブ、マラーマティーなど)

・ファースのウラマーのワッタース朝に対する支持
アブド・アルワーヒド・ワンシャリースィー…
第1次征服時にワッタース朝君主に対するバイアを破棄しないよう住民に呼びかけ
サァド朝君主を韻文で異教徒・反乱者呼ばわり
後者が匿名の悪党を雇って殺害させるとファースは数日で陥落

1554年オスマン朝の支援を受けたワッタース家のアブー・ハッスーンがファースを奪還
サァド朝とともに来たスース人の殺害
サァド朝は年内に再征服、激しい弾圧

イブン・ザッカーク…
サァド朝に反対したウラマーの1人、アブー・ハッスーンの時期に復権
スース人を殺すのは異教徒(マジュースィー)を殺すのと同じ
再征服後の処刑の際にサァド朝君主を呪詛(死に方を自分で選べ)→実現

サァド朝に対する反対のイデオロギー的諸要因(1026-1027)

アラビア語史料からは以下の3つの反サァド朝的要因が現れる
・非合法の権力…合法性の保持者たるウラマーからの支持を受けていない反乱者であり、それは背教者、不信仰者に準ずる
・卑しい出自…ファースの都市民にとってはスース地方から到来した粗野で無知な人々(支配者だけでなくそれを支持する宗教人に対しても)
・シャリーフ主義に対する疑義…血統の真正さに加えて、シャリーフの血統が権力の保持を正当化するのかという問題

先例:869/1465年のシャリーフの反乱(1027-1029)

ファースの町はサァド朝による征服の1世紀前にイムラーン家のシャリーフ=ジューティーによるマリーン朝への反乱と短期間の支配を経験しており、ワッタース朝はこの政権を打倒して成立した王朝である。
ワッタース朝のアブー・ハッスーンによるファース奪還後のラーシド家のアミール投獄を巡る逸話を除き、ファースのシャリーフがサァド朝の支配確立に関与した証拠はない。
ジューティーの支持者に対する批難とサァド朝の支持者に対する批難は口調が共通しているだけでなく、状況も類似しており、また批難者たちの間には繋がりがある。
1465年のマリーン朝の正当な君主の殺害とワッタース朝を支持する法学者の殺害は、いずれも匿名の悪人の仕業とされている。
→正当なイマームに対する反乱は禁止だが、反乱に成功すればその反乱者は正当なイマームとなり、正当性は力に依拠している

名望家たちの政治:集団としての「ウラマー」

共通の知識の加入者たち(1029-1031)

サァド朝のファース征服に関与したウラマーの学識伝授の繋がりを検討すると、彼らは2人のアンダルスの法学者を共通の師匠としてもっており、彼ら自身の中でアンダルスに起源をもつ人々も多い。また彼らは、15世紀終わりからファースの重要な役職を独占していたことがわかる。
→アンダルス人をワッタース朝の敵対者とみなすCourの仮説の否定

共通のスーフィズムの加入者たち(1031-1036)

・シャーズィリーヤとカーディリーヤの対立
サァド朝によるファース征服において言及されるスーフィーはいずれもシャーズィリーヤだが、その内部での系統には違いがある。
アンダルス人≒シャーズィリーヤ(Courの仮説)…正しいが、カーディリーヤもまたアンダルスに進出していたし、シャーズィリーヤとカーディリーヤを明確に区別することは難しい
16世紀後半より前にモロッコで教団組織としてカーディリーヤが存在していたという証拠はない。
当時のモロッコでのスーフィズムの形態:
北部の都市民の間で広まっていた形態…特定の教団に加入しない知識人たちによって実践
南部の農村民の間で広まっていた形態…教団組織

・シャーズィリーヤ内部の対立
ザッルーキーヤ…アフマド・ザッルークを名祖とする
ファースのウラマーとの関係
過激な神秘主義的形態の不在
民衆的聖者への非難~物質的な目的のために抑圧者たちと協力し、無知な人々をだましている
マフディー主義への警戒

ジャズーリーヤ…マハンマド・ジャズーリーを名祖とする
サァド朝を支援した人々が加入
マフディーを自称し、自身に従うことを要求~サァド朝のムハンマド・シャィフもマフディーを自称
→シーア派的傾向、ミクナースのハティーブはサァド朝に殺害される前に、シーア派に殺害されたカリフ=ウスマーンに言及

・権力の保持を正当化する条件としての血統
サァド家の血統の正統性に対する疑義…二次的な問題
シャリーフの血統は権力の保持とムスリム共同体の指導を正当化するするのか?
ザッルーク…高貴さ=宗教的に優れていること、≠先祖の徳
ジャズーリー…高貴さ=出自、シャリーフであること、自身の先祖が預言者であることを強調
ジャズーリーヤとサァド朝のシャリーフの利害は一致(←?)
→ファース第2次征服より2年ほどで両者の協力関係は終了

cf. ルネッサンス期ヨーロッパでの論争:
血統こそが徳・威厳・名誉の源泉 vs 行為・知識・宗教的遵守による個人的徳の擁護

・シャリーフとビルディーイーンの対立
ビルディーイーン…ムスリムに改宗したユダヤ人、ファースの富裕な商人でシャリーフと経済的に対立
シャリーフはファースの重要な商業地区であるカィサリーヤへのビルディーイーンへの進出を、その出自を根拠に阻もうと試みる。
出自の神話…血統は都市内部の対立において、ある集団の優位を確立するためのプロパガンダとして用いられる
→サァド朝のシャリーフとファースのシャリーフを結び付ける唯一の要素

ワッタース朝最後の君主であるアフマド・ワッタースィーの治世、ファースのシャリーフたちはカィサリーヤからビルディーイーンを追放することをスルターンに要求する。スルターンはファースのウラマーにファトワーを求める。
→出自は差別の理由となりえないこと、追放に反対することで意見の一致
ファトワーを提出したウラマー=サァド朝の支配に抵抗した人々

〔結論〕(1036-1037)

サァド朝
・地域権力と中央政府の既存のシステム内部での、外交と武力行使によって権力を獲得した王朝
・宗教的要素=シャリーフの血統はその権力獲得の正当化、正統性の源

ファースのウラマー
・彼らによって承認を受けない限りいかなる権力も正当ではない
・血統に基づいて聖性が与えられるとか、ムスリム共同体に対するヘゲモニーの権利が得られるという主張への反対
・過激な神秘主義や、マフディー主義の影響を受けたシャリーフ主義への不信

ファースの征服ではこの二つの宗教的な立場も対立
16世紀モロッコにおける権力の所在や、正当性の観念・象徴をよく表している

E. Gellnerの主張:
正当性の問題に関してウラマーの評決は事後になされ、事実上の権力に判断を下すのではなく、それを承認する
→ファースの征服はこのモデルに該当しない
→サァド朝のスルターンは支配の正当性を得るためにウラマーのバイア=承認を必要とした

Cl. Geertz:
モロッコのスルターンは2つの他の地域では対立する原則を兼ねている
・イマームは超自然的な権力によってそのような資格を与えられているからイマームである
・イマームは共同体の資格のある代弁者がそのことで合意したからイマームである

イフラーニーの記述:
サァド朝の高貴な血統の正統性は、聖者の勧告と博士の承認によって根拠づけられる
→シャリーフであることが権力の行使を正当化すると信じる者にとっても、ウラマーの承認は必要である


2013年7月17日水曜日

ポルトガルの海外進出とマグリブ・アクサー

7/5(金)に京都女子大学でゲストスピーカーとして話した時の配布資料に、やや手を入れたもの。
ポルトガルの海洋進出というと、インドから東南アジアの香辛料取引への介入やブラジル経営の話が中心になって、アフリカの特にモロッコ支配については、海外進出の発端である1415年のセウタ征服以降ほとんど言及されないように思います。
今回の授業では、ジョアン1世によるこの征服遠征の背景やその後の展開、そしてこのポルトガル人の進出に対するムスリムの反応について、特に前提知識のない人を想定しながら説明してみましたが、若干概略過ぎたようにも思います。「平和のムーア人」と呼ばれる、ポルトガル人の支配に協力するムスリムの話など、興味深い事例がいくつもあったのですが、またの機会に…

ポルトガル語の単語の表記については、山川の新版世界各国史シリーズのそれに従っています。

2013年6月26日水曜日

サァド朝とマフディズム まとめ

Mercedes García-Arenal. "Mahdisme et dynastie sa`dienn". Mahdisme: Crise et changement dans l'histoire du Maroc. Ed. Abdelmajid Kaddouri. Casablanca: Najah El Jadida, 1994.

 この論文は、サァド朝によるマフディー像の利用を、王朝の創始者であるムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンと最盛期の君主であるアフマド・マンスールを中心に分析する。マフディーの名における権力樹立の試みはマグリブでは繰り返し見られたが、統治者がその象徴と宣伝を利用するのは珍しく、この点でマンスールの事例は特殊である。以下の議論ではそれぞれの象徴と宣伝の手段を分析し、マフディー像がどのような言葉で表明されてきたかを見る。そして王朝創始の偉業とその継続の試みの間で見られる矛盾の解決を試みる。マフディー像は単に象徴としてだけでなく権力の象徴体系としても言及される。

 著者はまず、統治者や王が神といくつかの特徴を共有しているという問題に触れ、『王の二つの身体』や『王の奇跡』といった著作に言及する。またドルス(M. Dols)は預言者の奇跡治療者としての力について研究しているし、ドゥッテ(E. Doutté)は聖者と魔術師の力が全く同一で区別が困難であることを指摘している。そして王権が魔術的な起源をもつという概念や、あらゆる君主権に内在する神聖性という概念はよく知られており古典的でさえある。要約するなら、「国家は確立して以降永続性の意志であり、超越性の追求であり、あらゆる超越性と同様に必然的に神聖性で形作られている。人々はこの神聖性を権力を保持する者たちを介して表現しようとした。」この(聖なる王権という)問題について、アフリカでは人類学者が、ヨーロッパでは歴史研究者が関心を持ってきたが、両者の関係は乏しく重なり合うことが少なかった。ギアツ(Cl. Geertz)、ダクリア(J. Dakhlia)、ソ(Michel Sot)らの研究が例外として挙げられる。これらは権力がそれを介して現れるような儀礼やイメージについて議論し、権力の象徴体系についての研究と権力の性質についての研究の類似を示した。マフディー像は以上の前提に基づいて研究することに適している。そして集団的表象と個人的野心の結合する代表的な事例である。「正しく導かれた者」を意味するマフディーは世界の終わりに神から遣わされる最高の支配者であり、終末の前に神の霊感によってムスリム共同体を指導する。マグリブではマフディーは宗教の再生者という固有の特徴を獲得している。そして神による統治権、神によって選ばれ導かれること、預言者の子孫であること、無謬で法に関する最高権威であることによって特徴づけられる。よってマフディーは個人的カリスマの権威を体現し、既存の規範構造と断絶する権利を保持していると同時に、「伝統的」性格の権威を与えて正統化する、家系によるカリスマの保持者でもある。マフディーはマグリブにおいては独自の共同体を創始し導こうとする戦闘的なムラービトであり、そしてスーフィズムと預言者の模範や「良き導き」といった点で密接に結びついている。両者の境界は閉ざされていないのである。人類学において聖なる現象は魔術と宗教の二極との関係から定義される。前者は個人的、後者は集団的なものである。王権にはその双方の基礎があり、魔術的権力は断絶、宗教的権力は永続で家族の崇拝に根付いており、王朝的である。神聖な血統によって獲得された資格が権力を与える。「魔術的」な王は勝者の王であり、力のある王である。「宗教的」な王は王朝的な王である。宗教的な水準での伝統と儀礼は王権の連続性を強調し、君主を先祖の世界と繋ぐ結びつきの価値を強調する。サァド朝のマフディーはこの前提を考察し直すうえでの興味深い事例である。

 サァド家のシャリーフの一族は8/14世紀ヒジャーズ地方からマグリブに移住したとされる。この逸話は、長期間のナツメヤシ栽培の不振に不安を覚えたダルア地方の住民が、預言者の子孫が持つバラカの魔術的な力を期待したと伝えている。同様の話はアラウィー朝の先祖にも知られており、聖なる家系と結びついた東方の起源は魔術的な性質を獲得していた。王朝初代のムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは15世紀末に活動を開始し、法学者として知られていたが、同時に魔術を行なっていたとされる。また彼は戦闘的なムラービトとして活動し、東方への巡礼中も含めて各地で悪を禁じ善を命じていた。この種の逸話はムワッヒド朝マフディー=イブン・トゥーマルトにも見られ、マグリブの歴史における回帰的な要素である。またその2人の息子については、将来人々の指導者になることを予言する夢や魔術的な印が伝えられている。彼はこの種の主張を繰り返し、マフディーと称されていた。そして915/1510年バイアを受けると、マフディズム的な響きを持つ「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」を名乗った。またサァド朝の政治運動とジャズーリー教団は協力関係にあったことが知られている。その開祖ジャズーリーは支持者の一部からマフディーとみなされていたし、その発言にもシャリーフという血統の高貴さを強調するもの、そして預言者の言葉を借りて自身がマフディーであることを宣言するものが見られる。ムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは、ジャズーリーが結びついていたスース地方のマフディズムの伝統を意識的に利用したのである。そして彼の宣伝の中では、その2人の息子も魔術的な記号を付与されている。その後彼は息子たちをファースに送り、教育を受けさせている。聖性の正当化には、ファースのウラマーの系譜に連なることもまた必要とされたのである。またジャンナ―ビーによれば、1513年頃サァド朝の支持者たちはアフマド・アァラジュのことをファーティミーと呼んでいた。ところがイフラーニーは、彼らがシャリーフの系譜に属することと、このことについてウラマーの確証を得たことに依拠して彼らが正当な統治者であることを示そうとしており、マフディズム的な要素は消えている。つまり王朝的カリスマだけが持続している。
 しかしその後もサァド朝の統治者たちは、ウラマーの支持が得られない時や既存の規範を侵犯する時には、マフディー像を利用し続けた。1554年ファースを征服したムハンマド・シャィフは、墓の銘文で、古い規範を破棄し新たな規範を作りうる人物であることが示されている。そして個人的な特徴が強調されており、その先祖、つまりムハンマドの法を革新するために神が指名したという例外を除き、家系への言及は見られない。またシャリーフであることは魔術的な特徴を排除するものではない。ムハンマド・シャィフは[ママ]1524年ムッラークシュを占領し1554年までマリーン朝=ワッタース朝との戦いを続けるが、そのうち特に重要なのは1549年と1554年の2度のファース包囲戦である。そして包囲戦は既存の権力の合法性を根拠にサァド朝に抵抗した有力なウラマーの殺害を伴った。1549年の包囲戦の際ムハンマド・シャィフはファースの高名な法学者ワンシャリースィーからのバィアを取り付けようと試みたが、法学者は法的な理由がないことを理由にこれを拒んだ。ミクナースやファースの他の高名なウラマーたちもムハンマド・シャィフとの戦いを呼びかけ、殺害された。これらのウラマーにとって、権力が正当であるためにはその合法性を彼らから承認される必要があり、サァド朝の権力はこの点で不当であった。そしてムハンマド・シャィフはこの意見に対して、マフディーとして、古い規範を破棄し新しい規範を作る法の革新者として、彼の魔術的な性質と無謬性の特徴を突きつけたのではないか。伝統的な権威の基準の擁護者の支持が得られない時には、個人的カリスマだけが権威と権力の基準だったのである。

 ムハンマド・シャィフの後継者であるアブド・アッラーフ・ガーリブがマフディーの名前で参照されている事例は見当たらない。むしろ彼はスーフィーのアフマド・ブン・ムーサーの証言によって、偉大な聖者、枢軸(クトゥブ)であるかのように示される。また彼は公共建築の建設者であったが、それを錬金術によって実現したと伝承は伝えている。神権統治の概念や君主の超自然的能力に関する象徴的な要素は、アフマド・マンスール・ザハビーの事例においてより顕著である。幼少期のアフマドの偉大な将来を予言する逸話は数多く、それらを紹介する中でイフラーニーは、政治権力は預言者の、さらには神の指名によって正当化されるという考えを承認しており、アフマドが行ったその神格化の宣伝活動を我がものとしているように思われる。アフマドが1578年ワーディー・アルマハーズィンの戦いで勝利してから後、諸史料は象徴的重要性を持つ逸話や典礼、豪勢さや栄光や宮廷儀礼について章を割いている。これらはカリフの壮麗化、神格化を意図した宣伝活動だった。その逸話の一つとして、ターンスィフト河畔で軍隊を前にして行った、息子ムハンマド・マームーンへの後継者指名の儀式が挙げられる。また預言者生誕祭(マウリド)やバディー宮殿建設、旅行や謁見の壮麗さが挙げられる。バディー宮殿は謁見と贅沢のためだけに用いられており、様々な象徴的な意味が込められていた。この宮殿でアフマド・マンスールによって実施されたマウリドは、その描写からは、先祖である預言者以上にカリフの名誉のために行われたように思われる。この祭りには王国の様々な社会階層の代表者たちが参加し、ヒエラルキーによって秩序付けられており、史料の記述では宮殿の様子は楽園に擬えられている。断食明けの祭ではスルターンは白馬に乗って軍隊に取り囲まれて現れ、ファーティマ朝から借りたパラソルの下で、半ば聖者、半ば戦士のように描写されている。その表現はアッバース朝のカリフのラカブを想起させるもので、偉大な過去の連続性と混入が行われている。そして寛大に贈り物を与える様子は豊富な雨の比喩で描写されており、これはハディースの、終末の前に現れて惜しみなく金品を与えるカリフの主題を想起させる。そのほか、闇夜を照らす月にカリフを対比する主題も用いられている。マンスールの旅行の壮麗さや儀礼は、預言者とその教友たちとの擬態によって王朝的・宗教的な意味を持った連続性を導入し、しかも単なる擬態だけでなく、預言者との系譜上の繋がりをも主張している。ヴェール(スィトル)の採用はファーティマ朝とアッバース朝から借りたもので、カリフと他の人間との差異と、神のカリフとしての例外的なアイデンティティーを示唆する。反乱の王朝による鎮圧に関する記述もまた、スルターンが預言者の振る舞いを再生産し、共同体をジャーヒリーヤのレプリカである無秩序から解放するという点で、正当化の意図を持っている。
 宮廷詩人たちの作品の中でアフマド・マンスールはマフディーであることが示唆されている。この印象は、年代記作家たちの記述を信じるなら一般民衆にも共有されていたようである。カッサールやムッラークシュのムフティーがアフマド・マンスールに捧げた作品は、後者がハディースに述べられているその世紀の革新者であることを主張している。またシャーティビーはマンスールをマフディーに擬えている。またイフラーニーが引用する一文では、マンスールによるスーダン征服は、ペストの流行や反乱、物価上昇、(スペインによる)オランの占領とともに、ファーティマ家のイマーム、マフディー到来が近いことの予兆であるとされる。スーダンの征服はウラマーから強い反対を受けた事業であり、マンスールはメシア的な主張によってこれを正当化する必要があったのではないか。一方ペストについては、イスラームではこの現象が生み出すのは「典型的な恐怖」であって、キリスト教ヨーロッパのように救世主的運動として表れることはなかった。マンスールのマフディズムへの参照はスーダン征服と関連して現れるが、その文書局の書類やフィシュターリー、イブン・アルカーディーといった年代記作家たちはマフディーという単語を用いることはなく、むしろ預言者との一体化、さらには神格化を行なっている。マンスールの大地とムハンマドの預言を相続する権利が言及され、「預言者の」という形容詞やカリフ位、イマーム位といった言葉が用いられている。そしてマンスールが、その唯一正当な政府のもとに、全てのムスリムを統治しウンマを統一する権利が強調される。逆にマンスールの支配を認めた者だけがウンマなのである。スーダン遠征の前にフィシュターリーが起草し、ボルヌーのスルターンに送られた書簡は、アフマド・マンスールこそが預言者と預言の後継者であり、大地を統治する権利を保持した普遍的皇帝(Empereur unversal)であり、ムスリムたちの唯一正当な政府であり、先行する政府全ての後継者にして継続者であり、その頂点であるとして、その征服を正当化している。そしてその支配下に入らない者は異端的であり、攻撃を受けるであろうと述べている。カリフ=マンスールは神から個人的に指名を受け、聖なる統治の力を持ち、神の本質に与るのである。スーダンはスンナ派の国であり、その征服はウラマーの強い反発を呼んだ。つまり、ファース征服のときと同様、君主の行動が法的な支持を受けず、正当性を得られなかった。この遠征の後各地に送った手紙の中でマンスールは、スーダンの征服が預言者の一族、ファーティマ家、アリー家のカリフによる、不信仰者に対する勝利であることを繰り返し述べている。そしてこの勝利によって、不信仰者の土地がムスリムの支配下に入ったのだと主張している。数か月後トンブクトゥで反乱がおこると、サァド朝の指揮官マフムード・ザルクーンは町のカーディーに手紙を送っている。その中で指揮官は、サァド朝の権力は神が預言者の子孫に与えたものであり、それは将来イエスの手に渡ることを述べている。ここでイエス=イーサーは、終末にマフディーがダッジャールを倒すのを助けるとされる人物であることを思い起こす必要がある。そして手紙の中で、悪魔の誘惑によるもので、棄教であり不信仰であると断言している。つまり、カリフに従う者だけが良きムスリムであり、反乱を起こせばその資格を失うのである。またこの征服の際にフィシュターリーが作った詩では、黒人の肌によって象徴される闇の消尽と、カリフの支持者と反対者の根本的対立の主題が用いられている。これは救世主的プロパガンダに典型的な二項対立である。最後に、この遠征の際に捕虜としてモロッコへ連行された法学者アフマド・バーバーとの会見において、アフマド・マンスールはカーテンの奥に隠れていた。アフマド・バーバーが見抜いたように、マンスールは預言者の模倣から神の模倣へと移行していたのである。

 著者の結論は以下の3点にまとめられる。
 アフマド・マンスールのマフディズムの主張は、その人格の強力な神格化から発したものである。そしてイスラーム共同体の王朝の正当性と唯一の指導を再構成し、単一の共同体に対する君主権を確立することが、王朝固有の正当性の条件となった。この中世イスラームの伝統である正当化の議論は、マグリブでは明らかに救世主的な含意を含んだ言語によって具体化し、カリフの地位の主張と密接に結びついた。
 アフマド・マンスールの権力を正当化する言説はマフディーという単語は用いなかったものの、マフディズムを明確に想起させる。ただしマフディーが「魔術的」な人格であるのに対して、マンスールの言説は彼を「宗教的」モデルの内部に位置づけており、これは12世紀以降のマグリブで有効だった王朝創始者たちの言説とは非常に異なっている。
 サァド朝のもとでシャリーフィズム、マフディズム、スーフィズムの3つの要素が結合し、その結果として新しい非常に固有の何か(政治制度?)が生み出された。

2013年6月22日土曜日

アブド・アッラフマーン三世によるカリフの称号の採用について まとめ

マリベル・フィエロによる、アンダルスのウマイヤ朝のカリフ位主張について論じた短い論文をまとめてみました。
その主張によれば、初代カリフ=アブド・アッラフマーン3世は、カリフ位就任を正当化する要素として、なにより父祖の権利の相続であることを強調していました。そしてそれに加えて、カルマト派のカーバ神殿襲撃に象徴されるアッバース朝の弱体化もまた、重要な要素だったようです。その一方で、歴史研究において重視されているファーティマ朝カリフの登場の問題は、ウマイヤ朝のカリフを正当化するプロパガンダの中では言及されていません。

Fierro, Maribel. "Sobre la adopción del título califal por `Abd al-Rahman III". Sharq al-Andalus  6, 1989: 33-42.

 アブド・アッラフマーン三世以前のアンダルスのウマイヤ朝君主は、マリクやアミール、もしくは「カリフたちの子孫」と呼ばれ、カリフの称号を採用することはなかった。王朝初代のアブド・アッラフマーン一世がカリフの称号である「信徒たちの指揮官」と呼ばれている例がイブン・ハズムによって指摘されているが、これは韻文で見られる事例であり、他の史料では確認できない。またアブド・アッラフマーン一世はアッバース朝によるウマイヤ家の虐殺を逃れてアンダルスに来たにもかかわらず、コルドバの征服後短期間ながらアッバース朝のカリフ=アブー・アルアッバース・マンスールの名前をフトバで唱えていたことも知られている。その期間は10か月という説と2年という説とあるが、その後はアッバース朝カリフへの呪詛とウマイヤ朝アミールの名前の言及に置き換わっている。このようにカリフ制の問題に関するアブド・アッラフマーン一世の政策は一貫性がない。アンダルスではこれ以前にもユースフ・フィフリーがアッバース朝の宗主権を認めていたし、このアンダルス最後の総督に対する反乱もまた、アッバース朝の名において行われた。ウマイヤ朝成立後の763年、776年にもアッバース朝によるアンダルス支配を意図した反乱が起きているが、その失敗はアンダルス征服の困難さをアッバース朝に理解させることになった。その後も3世紀終わりのの第一次内乱期には、多くの人々がアッバース朝カリフの名前をミンバル上で唱えたほか、ウマル・ブン・ハフスーンのようにファーティマ朝カリフの名前が唱えられる例も見られた。アブド・アッラフマーン一世がアンダルス支配の正当性を主張するためには、3つの手段があった。
 第1はアッバース朝のカリフ位を認めることだが、これは最初採用された後放棄され、再度行なわれることはなかったと考えられる。
 第2は自らカリフ位を称することであるが、諸史料はこの可能性に否定的である。それは当時カリフ位の資格が両聖地の領有と結びついていたからだと推測される。ただしアブド・アッラフマーン一世による東方でのウマイヤ朝再興の計画は、彼が先祖の地位の回復を断念していなかったことを示している。
 第3はカリフ位の問題を保留するという手段で、これが実際に選択された。その結果として理論的には異常事態となったが、実践的な問題は生じなかったし、それを理論的に正当化する必要が感じられていた証拠もない。こうしてアンダルスのウマイヤ朝は、アッバース家をウマイヤ家の正統なカリフ位の簒奪者と位置付けてその宗主権を否認したが、彼らの先人たちの遺産、特に両聖地再征服が実現できない以上、カリフの称号の採用は無意味なものとして先送りされた。


 316年アブド・アッラフマーン3世はカリフを称し、「信徒たちの指揮官」の称号を採用する。その理由をレヴィ・プロヴァンサルは2つ挙げる。
 第1に、アンダルスでのハフスーン家らの反乱を鎮圧し、またボバストロの要塞を征服したことで、君主権が十分確立したと感じられたこと。このことには彼がアブド・アッラフマーンという初代と同じ名前であったことも強調される。
 第2に、297年イフリーキヤでカリフを称したファーティマ朝に抵抗するため。この対抗カリフ制の創設によって、アンダルスのウマイヤ朝にもカリフ位を称する可能性が生まれた。
 ただし、アラビア語の史料は後者の要素については言及しておらず、むしろアッバース朝の衰退と関連付けている。これは、同じスンナ派のアッバース朝と違い、シーア派のファーティマ朝のカリフ登場とウマイヤ朝のそれとを結びつけても、その結果として後者のカリフ位が正当性を得ることはないからだと考えられる。また、ウマイヤ朝がカリフを称するに至った過程については知られておらず、誰がこれを着想したのか、それに対する法学者たちの反応がいかなるものだったのかも記されていない。そしてカリフ位の正当化も、その採用とともに始まったと考えられる。
 イブン・ハズムは、ウマイヤ朝のカリフ位について2点情報を提供している。まず彼は、アブド・アッラフマーン3世によるアミールからカリフへの移行を、シューラーの指名によるものに分類している。これはそのカリフ位就任が、先代からの後継者指名によるものにも、実力行使によるものにも分類できないためである。しかしこのシューラーの実体は不明であり、後世の法学者による後付の正当化であると考えられる。アブド・アッラフマーン3世自身は、相続権の主張で十分これを正当化できると考えていたと推測される。アブド・アッラフマーン1世がアミールを称したように、3世はカリフを称したのである。
 もう1つの情報はラカブ(尊称)に関する情報である。アブド・アッラフマーン3世は「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」というラカブのほか、「カーイム・ビッラーフ」というラカブを用いている。この後者はファーティマ朝2代カリフ=マフディーによって採用された「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」と類似している。またカーイムという言葉は一般にマフディーを指し、イスマーイール派的な含意を強く持つ。アブド・アッラフマーン3世によるこのラカブの採用には、ファーティマ朝のプロパガンダに対向する意図があったと考えられる。彼が北アフリカの同盟者に送った書簡の中には、「カーイム・ビ・アルハック・ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」を自称しているものがある。
 またイスラームでは、世紀の交替はムジャッディド(革新者)の登場を伴うという考えがある。アブド・アッラフマーン3世はこれを利用していたと考えられ、彼が消滅の間際にあったスンナ(慣行)を革新することを謳っている書簡がある。

 ナースィルによるカリフ位就任の決断はアッバース朝の衰退と結びつけて理解されていた。この正当化は、その翌年317年のカルマト派によるマッカ襲撃によって、一層力を持つことになった。ウマイヤ朝カリフはこの醜聞を自らの北アフリカに対するプロパガンダに利用する。そして319年に戦略的要衝であるセウタを征服し、北アフリカで拡大政策を推し進めていく。そしてこの地方の同盟者たちと書簡を交換し、その中でファーティマ朝に対向するプロパガンダを行なっている。例えば11世紀の年代記『ムクタバス』に収録されたある書簡の中では、沿岸地帯のベルベル人君主たちに対して、東方イスラーム世界の征服と先祖たちの遺産の回復を目指す計画を明かす。この再征服は、衰退し防衛能力を失ったアッバース朝から両聖地を取り戻すことを含意し、カリフの地位正当化の形式だったのである。この先祖の権利と遺産の回復、信仰の再生、異端の滅亡、マッカの保護という要素は、書簡の中で繰り返し強調される。
 『ムクタバス』の著者イブン・ハィヤーンは、ナースィルがムーサー・ブン・アルアーフィヤに宛てた書簡についてコメントし、東方の支配権の主張や聖地の侵犯の問題について、政治的有用性のために、繰り返し言及されていることを指摘している。この手紙の中でナースィルは、カルマト派によるマッカの神殿への襲撃と巡礼者たちの殺害を空前絶後の出来事として取り上げ、その古の館を保護し名誉を与えることを神への捧げ物にしたと述べる。また、父祖であるカリフたちの王国という権利の主張と遺産の回復、王朝の再興、先人たちの偉業の革新、宗教の再生、正義の完全な行使と異端の消滅といった事柄を謳っている。そして、東方はナースィルの先人たちの遺産であり、北アフリカのベルベル人たちの改宗はこの先人たちによってなされたことが指摘される。

 ウマイヤ朝のカリフ位を正当化する主要なプロパガンダは以下のようになる。
 ダマスクスのウマイヤ朝はカリフ位の正当な権利者であり、アンダルスのウマイヤ朝はその相続者である。そしてイスマーイール派の脅威と、簒奪者でマッカの涜神を防ぎ得ないほどのアッバース朝の弱体化のために、「カーイム・ビ・アッラーフ/アルハック」であり「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」であるアブド・アッラフマーン3世による、スンナ派イスラームの革新と防衛が必要となっている。

2013年6月21日金曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ 結論

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

結論(23)

カブリーは、IIIで検討してきたマフザンの儀礼の発展についての手がかりが、個別の指標として、資料体として意味することは何かを問い、以下の3点を挙げる。
・絶対的で半ば独占的に個人に属する、同一の権力の象徴体系を参照している
・特異な記号なり横断的な振る舞いなりを構成しているが、いずれも描写的な価値しか持たない
・君主について受容されているイメージと実際のステータスを同時に把握しようとする
君主のイメージとステータスは、絶対的で無制約なものと同化(≒神権的な性質の付与?)し、マフザンのバージョンによって、アミール、イマーム、カリフ、スルターンといった人々によって人格化される。君主がこのような様態で神権的な性質を帯びることは、権力の悲劇的な性格を証明している。なぜなら、この権力のシステムにおいて、君主は、神権的な正統性に依拠し、秩序と信仰とアサビーヤの名のもとに、決定権の独占を承認される。しかし、このアサビーヤという要素が、マフザンがもともと部族同盟であり、それは闇取引や均衡計画をもたらす隠れた対立を、常にはらんだものであることを明らかにする。この結果、一見堅固な一枚板に見える君主のステータスは、神権的な正統性を帯びた絶対的な決定権保持者であると同時に、共同支配者たちの前に現れて結束を確認する必要のある、部族同盟の一員でもあるという矛盾をはらむのである。

カブリーによれば、君主はマフザンのシステムの制約に従うことを余儀なくされる。そしてこの制約は、部族同盟的な性格が支配的な神権政治の一環として書き込まれた、管理の様式に起因しており、暗黙のうちではあるが、常に存在している。そして君主は、専制君主的な侵犯の余地を確保するため、これらの制約を超えた存在であるように見える必要があるという。このことをカブリーは、ミラーゲームと呼んでいるが、その明確な意味は不明である。ただ、儀礼によって強調される専制君主的な外見を維持しながらも、中世の特にマリーン朝のマフザンが、その時々の状況に応じて同盟者を選択したことを意識しているのであろう。そしてマフザンのシステムは、この共同支配者にも隷属する社会に対しても、現実主義と厳格さの双方を発揮していた。それゆえに、回帰的なデータが重要性を獲得し、教説的な特徴、政治的実践、儀礼的な性格をもった伝統といった形で伝播されていく。全体として、このシステムは、政治-宗教的二極性をもったものから、その逆の統一的なものに変化していき、「中世」の終わりには、比較的折衷的なアプローチを取るようになった。

最後まで論理がよく把握できないが、おそらく次のようなことが言いたいのだと思われる。
マフザンの儀礼の発達は、君主個人に神権的な外観を与えたが、マフザンから部族同盟的な性質を抽象することには成功しなかった。そのため君主は、その部族同盟の一員としての立場と、絶対的な専制君主としての立場との矛盾を抱えることになる。これは、マフザンの権力の持つ悲劇的な特徴ではあるが、しかしこの矛盾から生ずる制約ゆえに、マフザンは、同盟を結ぶ共同支配者を注意深く選択したのであり、政治と宗教において独占的で排外的なものから、次第に統合的で折衷的なものへと変化していった。
ただし、この変化はムワッヒド朝からマリーン朝にかけては妥当かも知れないが、ムラービト朝のマフザンの位置づけが困難になるように思う。

なお、「教説的な特徴、政治的実践、儀礼的な性格をもった伝統といった形で伝播」というくだりについてはやはりよく分らない。

2013年6月19日水曜日

アラブの歴史における独裁…

先日ジャズィーラの「奥深く」という番組をチェックしていたところ、モロッコ留学中僅かながら面識のあった方が登場出演していてびっくりしました。

この番組、毎週あるテーマを決めて数人の有識者を呼び、時に議論、時に詳しく解説するというものなのですが、この日のテーマは「アラブの歴史における独裁と公正の根」…
http://www.aljazeera.net/programs/pages/58bddcee-158a-4563-a08c-e8c4af95d7b3#L1
http://www.youtube.com/watch?v=Rt1jORvkZ4A

出演者について少し紹介しておくと、まずイブラーヒーム・ブートシーシュさんはアンダルスの政治史が専門の方で、特に初期アンダルスにおけるイクター制度と政治史の関係について重要な研究があります。少しひょろっとした感じの方で、少し御痩せになった…?と思いましたが、気のせいかもしれません。

マハンマド・ジャバルーンさんは、よりこの番組のテーマに近い方ですが、特にターイファ期からムラービト朝期にかけての、モロッコとアンダルスの政治思想史の研究者です。こちらの方とは特に面識はありません。



イスラームにおけるアダーラ(公正)という概念の起源について、お二人の間で意見が割れてるなあ…ウマイヤ朝の初代であるムアーウィヤ・ブン・スフヤーンの治世とみるか、戦利品の分配を巡ってムスリムが対立したウスマーンの治世とみるか…でもイスラームにおける正義の問題の起源ってハワーリジュ派の誕生にかかわる問題じゃないの…などと思いながら、ふんふんと聴いていたのですが、次第次第にむしろ番組の司会者と二人の話がかみ合わなくなっていきます。

このアダーラという概念は公平、正義などとも訳される言葉で、君主の備えるべき最も重要な資質の一つといえます。2011年モロッコで政権を握った王党保守派のイスラーム主義政党「公正開発党」の「公正」は、このアダーラです。つまり、(少なくともモロッコ的な理解では)今日でもイスラーム的な政治における重要な概念であるとみなされていると考えられるわけです。

この概念についてブートシーシュさんは、14世紀アンダルスのマラガ出身のイブン・リドワーンという法学者が書いた君主論を引き合いに出し、「君主が公正であれば彼には報償があり、臣民には感謝が課される。暴政を行なえば彼には罪があり、臣民には忍耐が課される」という定式を紹介します。
さらに君主論(アーダーブ・スルターニーヤ)においては「君主(スルターン)への服従は義務」であり、「君主への服従から外れた者はアッラーに反抗したのである」と主張されていることを述べます。

私見ですが、このことは、「君主論」と呼ばれるジャンルの作品が、なにより君主により良き統治の指針を示すという目的を持っていることを考えれば、特に不思議ではありません。法学者たちはムスリム共同体の生活がイスラーム的法規範に則った形で営まれるために、それらを執行する強制力を持った統治者を必要としています。彼らの立場からすれば、大切なのはこの統治者が公正であるか否か、そしてその基準を示すのは法学者である、ということです。そしてこの統治者が公正であるなら、独裁者であろうと別に問題はない。つまり独裁(イスティブダード)と公正は対立する概念ではないのであろうと。

さてさて、この公正の問題についてジャバルーンさんが以下のように話したところで、司会者さんが溜まらず異論をはさみます。
これは歴史的な問題であって、この時代の文化と、この時代の精神と結びついた問題なのです。というのも、私たちが話している時期について忘れてならないことですが、それは中世であって、中世においては独裁こそが、そこに至った…人間の政治思想が到達した最も洗練されたものだったのです
教授、今日バッシャール・アサド(や)カッザーフィー(といった)独裁統治者全てを法的に正当化するものがいるのですか?
この発言から明らかなように、司会者さんの図式では、独裁とは名前の挙がっている政治家によって体現されている、自国民を殺害し人権を抑圧するような不当な統治体制なのでしょう。つまりアダーラとイスティブダードという概念は、全く相いれないものだったのでしょう。

しかしモロッコの歴史において、法学者たちが称賛してきたのは、むしろ公正な君主による独裁でしたし、この背景にはジャバルーンさんが強調していたように、法学者たちが抱いていた、内乱への強い恐怖心があるように思います。これはモロッコの中央政府の権力の不安定さとおそらく関係があるのですが、いずれにしてもこの地域の歴史では、 君主に十分な暴力が備わっていなければ、法学者の理想とする公正な統治は実現しなかった。

しかしだからといって、このように法学者たちが歴史的に内乱への恐怖から独裁を許容してきたことは、現在において独裁者が国民を殺戮することを正当化しないと思うのですが、この司会者さんは「公正」という概念の歴史に独裁を否認する論理を求めるつもりだったのだろうな。なかなか難しいことだな、と思った次第です。

2013年6月14日金曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ III

この節に限ったことではありませんが、持って回った言い回し、くどくどしい留保、曖昧な語彙、抽象的な議論が続き、何が言いたいのかよく分りません。とりあえず最後まで到達したけれども、全体として何が主張したいのだか…とりあえず特に難解な個所は、括弧に括って凡その解釈を加えてみました。何だか一週間無駄に使ったように思いますが、あとは結論です。

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

III. 正統化の指示対象と「中世」儀礼の特有性 (13-22)

マフザンの様々なバージョンの中でもっともよく研究されているのは、前植民地時代のものであり、それ以前については、転換期であるサアド朝のマフザンも含めて、等閑にされている。ところでサアド朝期には、まずオスマン朝のシステムの影響を受けたことと、そして権力の正統性がシャリーフの性質を含意するようになったことのために、中世半ばから終わりにかけて制度的に確立しつつあったマフザンのイメージとは、とりわけ儀礼の点において大きく相違する。このシャリーフの性質による権力のある種の聖別化は、イブン・トゥーマルトのシーア-シャリーフ的な立場から要求された例外的な譲歩だったのであり、重要な変化が生じていることに留意する必要がある。ここでは、関係する「中世」の諸王朝によるそれぞれの正統化の戦略を検討する。

「聖なるものsacré」という概念を一貫して引き合いに出すことができるのかという問題について、シャリーフたちの時代以降のマフザンに対して、それ以前については懐疑的にならざるを得ない。この概念を表す語彙は、アラビア語では√QDSか√ḤRMから派生する。クルアーンの文脈では:
ḤRM…聖なるもの(sacré)と宣言された時間や空間に関係する
QDS…神の神聖性(sacralité)のみを独占的に表す
イスラームの創始に関わる反擬人主義的性格を鑑みれば、スンナ派の擁護者を自任する統治者たちにとって、この種の主張は曖昧で不適切である。ムワッヒド朝のマフディーの無謬性という例外を除けば、中世のマフザンの正統化の装置はいずれも、明白で程度の差はあれ承認された教説を参照する。
ムラービト朝…スンナ派のマーリク派法学
ムワッヒド朝…ザーヒル派法学に近い字義解釈
マリーン朝…マーリク派法学やシャリーフ全般の崇敬を支援

マフザンの手続きはいずれも神-法学的な基底(fond)に準拠しており、その諸要素はいずれも歴史的に「スンナ」から導き出されたものである。そのためマフザンの様々なバージョンは、いずれもスンナ派的な外観を呈している。宮廷の歴史叙述や書簡文献は、高名な精神的権威からの承認による(マフザンの?)正統化という目的を持った、汎イスラーム的な接触の逸話を伝える。
ムラービト朝…トゥルトゥーシー、ジャザーリー(?)
ムワッヒド朝…ジャザーリー(?)とイブン・トゥーマルト
マリーン朝…ヒジャーズ地方のシャリーフたち
(ジャザーリーはいずれもガザーリーのことだと思われるが、綴りがいずれも誤っている)

それほど明白ではないが、モロッコのマフザンのアプローチの独自性を裏付け、儀礼的な面での君主の立場を明らかにするような特色も存在する。これらの特色の中には、特定の王朝と結びつけられる特異なものがある一方で、諸王朝に横断的にあらわれるものも多々ある。そのいくつかの枠組みとなる要素を、非常に微妙な形態の忠実さへの関心から、提示する。

1. マグリブ・アクサーの諸王朝は、アンダルスよりはるかに遅れて中央集権化を開始したため、後者を支配しながらも、それに倣った。マフザンの文書局は、特に最初期には、専門家の供給の面でも儀礼上の伝統の面でも、アンダルスに依拠することになる。つまりムラービト朝は、アッバース朝に服従しながらも、そのライバルであるコルドバのウマイヤ朝カリフの、より単純な伝統を採用していた。その後のマフザンは、このアンダルスの伝統を活用し、その痕跡を伝播していく。
…権力の「地誌(=その所在)」や壮麗な顕れに関する語彙、諸処のエチケットの総体

2. マフザンの創始者であるムラービト朝において、君主個人に関する儀礼は重要ではなかった。またその君主たちが、ウラマーからの激しい非難に対して、穏健な態度を取った逸話が知られている。これは、ムラービト朝期の政治権力と宗教の権威の二極性という要因に加えて、ムラービト朝とアンダルス人の二重性という要因からも解明しうる。ムラービト朝貴族層が、アンダルス人の生活様式や文明に魅了されたのに対して、後者は前者に対して無関心であるか軽蔑しており、また公的な統治機構の役職を占めていた。
→ムラービト朝の権威の二極性…相互の対立
君主たちは、自らの影響力を確保するため、宗教の名において抜きんでる必要があった
また、イスラームにおいて正統性と教説は相互に支えあうものであり、レコンキスタが進展する中では双方にとってジハードは最重要の問題であった。そのため、君主の付属物は、パラソルも君主への平伏もヒジャーブも言及されず、軍旗や太鼓、君主個人の衛兵といった軍事的なものと、サンハージャ族のリサームに限られることになった。

(難解な主張。ムラービト朝の貴族たちはアンダルス人の文明に魅了されていた。ところが統治に関わる職務を占めていたアンダルス人たちは、ムラービト朝の人々を無視するか軽蔑するかしていた。そこで両者に対して影響力を持つために、王朝の君主たちは宗教的に高い評価を得る必要があった。そして、当時のジハードの宗教的重要性が増大したアンダルスの政治的状況の中で、軍事的な含意を持つ儀礼のみをムラービト朝の君主たちは採用した。そのため全体として、麻布残の儀礼の発達はそれほど見られなかった、ということか?)

3. 〔マフザンの正統性とカリフ制〕
ムラービト朝
・アッバース朝のカリフからの公式な承認
・暴力を行使する能力…10世紀ごろ、東方に現れた諸政権の正統性と共通
→権力を行使する正統性を獲得するためには、他の誰よりも強くなければならない
それ以外の要素(例、カリフの承認)…付随的なもの、ムラービト朝にとっては有益⇔ターイファ諸王国の乱立

ムワッヒド朝
・独自のカリフ制の樹立

マリーン朝
・ムワッヒド朝のカリフ制に依拠しながら、これを打破
→アッバース朝のカリフ制とムワッヒド朝のカリフ制は、共通の結末を辿る

諸朝の正統性…秩序の維持と、共同体の遺産の保護という、日常的な問題に依拠
→正統性の獲得においては、軍事力と結びついた、強制力における支配的状況こそが重要

(後半はやはり持って回った言い回しだが要するに、あるマフザンの正統性は、秩序を維持し共同体を防衛するだけの軍事力を保持しているか否かに依拠していた、ということが言いたいと思われる)

4. 〔カスティーリャ王権との共通性〕
カスティーリャの王権の正統性
・軍事力に基づいた強制力によって、秩序を維持し、共同体の遺産を保護
・ジハードとレコンキスタの交代

カスティーリャ王政
・ウマイヤ朝の西方カリフ制や、ターイファ諸王国の制度的発展の影響
・ピレネー以北のキリスト教諸国家より、アンダルスに近い存在
・ラス・ナバス・デ・トロサの戦いまで、聖別と戴冠の儀礼を利用することに成功しない
…境域の南への遠征が、塗油と戴冠の儀礼に相当
→「聖性なき王権」、北方のキリスト教諸王国と逆、南方のイスラーム諸王国と共通

マグリブ・アクサーの様々なマフザン
→ウマイヤ朝の西方カリフ制から派生したグループの構成要素、権力の正統化と行使において、聖性、戴冠、君主の神聖化といった要素の不在
・ムラービト朝…正統性の付与について承認された権威からの、理論的な委託
・ムワッヒド朝第二代アブー・ヤアクーブ…アンダルス遠征を行い、アンダルス人からのバイアを得るまで、カリフとして認められない
・同王朝第三代アブー・ユースフ…同様の結論(?)
それに、その息子で後継者であるアブー・ユースフの、伝説的になったイメージから、彼の治世の終わり頃である591/1195年の、マンスールの称号に加えて、その死の直後からの、まぎれもない神秘的な変化を彼に与えた、アラルコスにおける目覚ましい勝利という栄光で飾られた、彼の社会・宗教的政策のために、同様の結論が引き出され得るようである。
・マリーン朝アブー・ハサン…全く例外的に、後代の王朝年代記や民衆の記憶の中で、重要性を認められる
それ〔民衆の記憶〕は、二人の君主を、黒人スルターンという、価値を高める――そのように思われる――同じ称号によって混同しながら、永続させただろう。そして人々は彼のことを、そのジハードの遂行と公正さ崇拝のため、伝説の王として理解しようとする。

5. 君主のイメージと、その支配の正統性に対する、振る舞い(誰の?)のインパクトにもかかわらず、君主の支配者としての性格を表現するための典礼自体は存在した。ムラービト朝では、儀礼的要素は軍事的な側面とアッバース朝「君主」とアミールの名が打刻された貨幣等に留まっていた。その後ムワッヒド朝の時代になると、複雑な儀礼の形態が生まれた。ムワッヒド朝のシステムはヒエラルキー化され、ファーティマ朝と同様のシステムに属している。ムワッヒド朝のバージョンはこのファーティマ朝のそれと比較可能である可能性が否定できない(?)ファーティマ朝の手への口づけという儀礼はムワッヒド朝によってモロッコにもたらされた。しかしファーティマ朝で見られる、足への口づけやタマウクと呼ばれる地面に転がる儀礼は採用されなかった。カリフの前で地面に口づけする平伏のしぐさは行われていたが、マリーン朝のアブー・アルハサンはこれらをビドアであるとして廃止し、手や足などへの口づけに置き換えさせた。この改革はスンナ派の人々が、君主に対する崇敬の観念を含意する慣行を忌避するためである。

(全体的に意味不明だが、ムラービト朝においては儀礼は未発達であった。その後シーア派のファーティマ朝と類似したシステムを持つムワッヒド朝においては、君主への崇敬を含意する平伏の儀礼が採用されたが、ファーティマ朝に比べれば控えめであった。そしてスンナ派のマリーン朝の時代には、この慣行は忌避され、手や足、絨毯の上部、中部、下部への口づけで置き換えられたという、君主個人への儀礼の変遷の一例をあげているのであろう)

ムワッヒド朝の宮廷で採用されたこれらの振る舞いは、ファーティマ朝の礼儀作法を参照しているが、文脈が全くが同一というわけではなかった。また、このようなしぐさは、マリーン朝の時代にも類似したものがみられ、特にアブー・イナーンの時代の礼儀作法は、ムワッヒド朝期と同様に厳格だった。

(君主に関する儀礼の?)実践は、常に潜在的に存在し、文脈が求めれば繰り返し現れる。ムワッヒド朝の儀礼は、チュニスで存続したし、ハフス朝のカリフ位を狙うアブー・イナーンのような人物にとって、その典礼はリファレンスだった(?)。ただし、公式の称号も、マフザンによって用いられた形式も、シーア派のファーティマ朝のそれとは異なっている。この王朝にとって、預言者の系譜に連なる君主は、半ば神的性格を持った信仰の対象であったし、そのイマームにしてカリフである君主には、スンナ派では預言者に対してしか用いられない祈願が用いられた。この点で、ムワッヒド朝の典礼は、マリーン朝のそれと同様に正統派的なものだった。また、このような語彙自体、ムラービト朝のマフザンでは知られていなかったようであり、イブン・トゥーマルトや特にその後継者であるアブド・アルムゥミンの時期に導入され、その後発達したと考えられる。そしてこの語彙は、君主の機能と、とりわけその個人に属するものであった。
→ある治世における宮廷生活のキャンバス一般や君主に認められたイメージについて詳述することが可能になる

(モロッコにおける宮廷の儀礼は、シーア派的な傾向を持つムワッヒド朝の時代に発達したが、それがスンナ派のマリーン朝の時代に見られなかったわけではない。むしろ君主に対する儀礼の実践は歴史的文脈によって必要になれば、繰り返し現れたし、実際マリーン朝にとってムワッヒド朝の典礼は参照すべき典拠となった。また君主への儀礼について、特に用いられる祈願の定型句によってイフリーキヤのファーティマ朝と比較した場合、ムワッヒド朝もマリーン朝と同様にスンナ派的なものであった。そしてムラービト朝においてはこのような語彙は知られておらず、その後発達したものだと考えられる。このように、ある時代における宮廷生活の様子や君主個人に対する儀礼について詳細することが可能となる)

2013年6月7日金曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ II

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

II. 「中世」マフザンの基礎と変化(7-13)

ムラービト朝のサンハージャ族の軍事行動によって成立したマフザンは、被征服民に対してこれまで用いられたことのないシステムを構築した。
→中央集権化の導入に求められる定住化をほとんどしていない遊牧民による、国家権力の中央集権化のシステムが導入されたという矛盾した特徴
サバンナ、サヘル地帯に登場した諸国家のサブサハラ的な図式の中でこの現象を理解するべきである。ムラービト朝のマフザンは「労働の社会的分業の専門化とエリートの諸機能の構成の相対的な交差を提示する国家」に属する。(S. N. Eisenstadt, M. Abitbol & N. Chazan. "Les origines de l'Etat : une nouvelle approche". Annales ESC, 38.6 (1983): 1238.)
ムラービト朝の社会の中には、キャラバン交易に結びついたエリートの勢力と、軍事活動・ジハードの従事する勢力の双方が存在した。
→空間の安全を恒常的に保持するための強制力の独占
→統治者と結びつきのある集団や交易路の関係者がこの独占の維持に貢献

「中世」のマフザンは、国家である前に権威であり、そのシステムは、アフリカと地中海を結ぶ交易に統合され、それを支える軸と結びついていた。その調停者としての性質は、ここに起因する。調停-支えは、外部に向けられる前に、まず内部の様々な水準に介入しなければならず、そのため諸王朝は、同盟者や家族的な集団に属する部族的要素を統合する連合に依拠する。この連盟的な含意を持った性質のため、陰謀に晒され、潜在的な対立関係を助長することなしに、連合の相手を増やすことはできない。またマフザン国家は、この対立関係を利用して、分離的な行動を中立化しようとしている。この不安定な均衡の急な変化に備えて、権力はその統治を宗教的に正統化することに関心を持ち、神権的(…規範の順守、分担者・制限のない権威の審級であるという位置づけ)であろうとする。

「中世」マフザン・システムと国際的な状況の変化の関係
…地中海北岸の優位、マグリブの側による海峡のコントロールの喪失、ラス・ナバス・デ・トロサの大敗
→沿岸の相対的重要性の増大

マフザン・システムのマグリブ・アクサー版は、ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝(+イフリーキヤのハフス朝)の経験に帰着する。そして問題の連続する政府の間で、選択肢とイメージの面で境界画定は明確である。
ムラービト朝…スンナ派、マーリク派法学者と権力の結びつき
ムワッヒド朝…シーア派の過激な教義の主張、イマームで無謬のマフディーであるイブン・トゥーマルト(とその後継者たち)への全権集中
→マフザン・システムへの重大な変化=厳格なヒエラルキーの導入、教説上の差異に基づく排除の戦略、粛清や不寛容さの逸話、抑圧

イブン・トゥーマルトの教義に対するへの全面的な不満が生じ、それはスーフィーたちの運動と重なり合う。この運動はムラービト朝の成立とともにあらわれ、最初はアリー・ブン・ユースフ・ターシュフィーンの治世に半ば非合法とされた後、ムワッヒド朝の超権威主義的権力の登場時には、既に重要な役割を演じ、統治者たちに対して慎重な態度を示すようになっていた。この慎重さは、素朴で実践的な教育法によって支えられており、民衆に対する模範として示されたため、民衆とマーリク派法学者の双方からの支持を獲得し、新たな領域は地域の潜在的な反権力の場として認識される。

この認識が含意する、ムワッヒド朝マフザンに対する不満は、ラス・ナバス・デ・トロサでの大敗後実体化し、王朝のカリフ自身による無謬のマフディーの公式教義否認へとつながる。「厳格主義者たち」にとっては真の背教である、この決定を口実として、イフリーキヤのハフス家のアブー・ザカリヤーが反乱を起こし、その息子のムスタンスィルはカリフを自称するに至る。
→その支持者たちにとってはイブン・トゥーマルトとムワッヒド朝の唯一の後継者にして代表者
1269年マラケシュのカリフ制が廃止されるまで、イフリーキヤとマグリブ・アクサーの首都は、傭兵集団を間に挟んで敵対しあい、その一つであるマリーン族の部族集団が、ムワッヒド朝を滅亡させる。

ムワッヒド朝の滅亡後マリーン朝は、空間と権力の論理によって、次第にハフス朝と距離を取り始める。ハフス朝が信奉するイブン・トゥーマルトの教義のシステマチックな隠匿は、新たな征服者の独立の意志を印付けるものである。
初期マリーン朝君主たちのハフス朝のカリフに対する独立の意志を示すいくつもの兆候:
・アンダルスでのジハードによる彼らの継承の正統性の主張…ムワッヒド朝滅亡から5年余りで開始
・彼らによるマーリク派法学への断固とした支持…スーフィーたちの抗議的領域との相互作用に対して加えられた長期間の迫害後
・シャリーフたちへの全体的な崇敬…預言者の血統を含意するマフディー主義の乗り越え
マリーン朝の君主たちはイドリース家を優遇し、そのかつての政治・宗教的拠点だったファースを首都としながら、預言者家の家系を主張するほかの派の地位向上を警戒する。
この正統化の傾向は後にアブー・ハサンとアブー・イナーンによって、西方カリフ制の主張に用いられる。

マリーン朝のマフザンは、ムワッヒド朝の厳格さからは距離を取り、協調主義的な手続きを選択する。この種の運営の結果として、分割に依拠した支配の様態が現れ、この現象の結果として、王朝内部での策謀的な傾向が生じる。
君主たちの権力欲によって生じたこの状況は、協力者たちの欲求を一層刺激し、彼らはマフザンの覆いの下での分離的細分化を、一層推し進めることになる。
マリーン朝マフザン…実際的な性質、安易な妥協の危険性

マリーン朝のシステムは、このような状況の繰り返しの中で破たんしたが、その三世紀半ほどの持続の中で、マフザンのあり様に影響を及ぼした。ムワッヒド朝よりも寛容であると同時に、ムラービト朝よりも統合的なそのマフザンは、より近づきやすく、そのために複数の関与、服従と分割の枠組みの中で繰り返し再調整を施された。そしてマリーン朝は有力者、シャリーフ、学識者、民衆的神秘主義の師匠たちといった多様なパートナーを選ぶ戦略をとった。

この形態は、王朝の交代とともに手直しを受け、16世紀中葉シャリーフ主義によって権力を要求したサアド朝は、マフディー主義を自称した。ただしこれは、ジャズーリー教団によって調整を受けたシャリーフ主義であり、ムワッヒド朝マフディーの排他的な図式を複製することはできなかった。またマフザン・システムの側も、これを過度に強調することはなかった。

マフザンとは、安定した骨格を持ちながらも、柔軟で浸透性のある組織であり、その採用した諸形態は、個人的なコネと権力の個人化に運営を依存する、伝統的な国家の図式に属していた。そして、この国家は自律的傾向を持った複数の同盟者たちに依拠しており、その対立を利用する形で被害を抑え込もうとする。おそらくマフザンは、この脆い形態に内在する誘惑を悪魔祓いするために、被支配者に対しても共同支配者の集団に対しても、超越的で半ば攻略不可能な権力の側面を維持するための、儀礼的表現の諸手段に頼る。

2013年6月5日水曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ I


Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

I. 指示対象-サポートと登場の文脈(3-7)
カブリーによれば、マグリブにおいて空間の関連性は常に最重要の要素であり、定常的なものとして作用してきた。そしてあらゆる性質の差異にも拘らず、マグリブ各地の国家的建築物の全体と包括するような均一化が起こった。そしてこの均一化-指標と空間的形成が、はっきりとわかるような相互干渉をもたらした。
→この相互作用について考慮することが重要

平均的な国家の図式は同一の道程と結びついている。
=領域的基盤→諸条件充足→支配領域拡大→中央集権化(事実上→法的)
・ファーティマ朝(イフリーキヤ、9-10世紀)
・ズィール朝(イフリーキヤに加えて中マグリブの大半、10世紀末から11世紀)

ズィール朝の衰退及びヒラール族アラブの侵入と同時期に、ムラービト朝のサハラの南西からの北上が始まる。彼らはその呼称のもととなった禁欲主義とジハードだけでなく、地中海とサブサハラ地帯を結ぶネットワークのコントロールに関心をもつ。これらのネットワークの形成に応じて、彼らの領土の中心となる、マグリブ・アクサーと呼ばれる新たな空間-軸が形成されていく。地中海、サハラ、ムルーヤ川とその延長にある南東部のオアシスに挟まれたこの空間-軸は、可変的な周辺領域を持った空間-核を繰り返し形成する。
・マグリブの空間の結合
・諸王朝の勢力拡大の方向の共通性(北→太平洋岸→海峡の北側)⇔出発点の多様性
その多方向への勢力拡大の中心に、マフザン(Makhzan)と呼ばれる中央集権化のシステムが位置する。

→カブリーは、イフリーキヤのことをジール朝のプラットフォームと呼んでいる。よってこの言葉は、国家的組織の勢力拡大の基盤となる領域のことを指すと考えられる。ムラービト朝のプラットフォームは交易ネットワークの統制を通して形成され、マグリブ・アクサーと呼ばれる地域を軸に、変動する周辺領域を持った支配領域の核が形成され、その中心にマフザンと呼ばれる中央集権的なシステムが位置することになった、とまとめてよいだろう。

次いでカブリーはマフザンという用語の起源について議論を開始する。
アンダルスのウマイヤ朝においてマフザンという用語は、政府というより倉庫を意味していた。
ex. アビード・アルマフザン=倉庫の奴隷、ハーズィン・アルマール、ヒザーナト・アルマール等
マグリブでは、イフリーキヤのアグラブ朝期にバグダートのカリフに送る税を保管する金庫がマフザンと呼ばれた。このことからマフザンとは国家の徴税と結びついた概念だったと考えられる。
一方ファーティマ朝、ズィール・ハンマード朝では、倉庫を意味する孤立した例が1012年以前のイフリーキヤのファトワーに見られるだけで、この用語は少なくとも文献ではほとんど使用されていない。よって、公的な徴税組織を指して一般に用いられていた言葉ではないと考えられる。

マフザンという言葉は、11世紀ごろムラービト朝期のマグリブ・アクサーで権力システムを示すようになる。カブリーは以下のように推測している。
・ムラービト朝の遊牧民たちはダルア地方とスース地方で貯蔵庫(=アーガーディール)の機能を知った
・この貯蔵庫を管理する制度に魅了され、大規模なアーガーディールとしての倉庫国家を構想した
・彼らにとって国家とはアミール個人の倉庫であり、それが次第に集合的なもの、国家的なものとして提示されるようになった
マフザンという呼称の採用については、以下のように述べている。
征服者たちの計画に枠組みを与える社会・文化的な文脈を鑑みれば、このような態度は、少なくとも仮説としては承認できるものと思われる。理論的な視点においてシニフィアンとそれを支える、共有されたそして/もしくは暗黙の知識の間に存在する弁証法が、おそらくここでマフザンという聖化され支配的な語彙から借用された――もちろんアラビア語での――言葉を、シニフィアンとして選ばせたのだろうから。同時にそれは生き生きとした、ただし押し殺されたシニフィエを、それが世俗的であると同時に支配されているために表明しているということなのだが。

ムラービト朝のマフザンのシステムは、アグラブ朝のマフザン(=金庫)との類似に加えて、ファーティマ朝のシステムとも、何れも独占の排外的要求者を自任、キャラバン交易を重視、交易ネットワークの統制を優先するという類似性がある。
→国家の中央集権化の様態に従うほかない
→歴史叙述の中では創始に関する選択に仕立て上げられる
ただし、ムラービト朝とイフリーキヤでの先例との間には以下の相違がある。

  1. ムラービト朝が彼らの行動領域に属していたのに対して、アグラブ朝とファーティマ朝は東方を志向していた
  2. マフザンの中央集権化はおそらくこの理由によって(?)より柔軟だった

ムラービト朝の中央集権化は、支配的な部族連帯意識の内外で、部族の協調主義的な調合を伝播していた(?)。またこの王朝に先行するイドリース朝の権力システムは、鉱山採掘と農業経済活性化に結びついた都市化を優先していたものの、他の集団や敵対するアミール国を排除して、実効的な中央集権的国家を樹立することには失敗した。そしてイドリース二世は、領域拡大とキャラバン交易に関心を示したものの、その没後領域は反集権的な複数の公国に分裂した。

マフザンと呼ばれるシステムは、マグリブ・アクサーにおいては新機軸だった。

  • その第一の使命は何だったのか?
  • どのようにして定着に成功したのか?
  • その恒常的な要素は何だったのか?
  • 王朝ごとの境界を真に画定するものはあったのか?
  • それはどのような方向性においてであったのか?

→このシステムを構造化する土台と変化について問いかける

2013年6月3日月曜日

日本イスラム協会公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」その1

2013年6月2日東京外国語大学で、日本イスラム協会の主催による公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」が開催されました。講師は北海道大学の佐藤健太郎氏と神戸大学の齋藤剛氏で、60人強の聴衆の前でそれぞれ1時間ほどの時間を使っての議論となりました。
先に佐藤氏の「ジブラルタル海峡の北と南 ~イスラーム期のスペインとその対岸~」について内容をまとめてみました。
なお齋藤講演はこちら。

佐藤講演はジブラルタル海峡を挟んでイベリア半島とアフリカ大陸の両岸の関係を、特に13-14世紀の人的・文化的交流を中心に論じた。
アンダルス=イベリア半島の特にムスリム支配地域
マグリブ=アフリカ大陸北西部の、特に現在のリビア西部からモロッコを中心とした地域
最初にジブラルタル海峡が最狭部で約15キロと、日本の津軽海峡とほぼ同じ程度しか両岸が隔たっていないこと、自然環境の上でも共に地中海性気候に属し、小麦や果樹栽培を主とする農業が営まれていることを確認した。そしてこの海峡が歴史的には「zuqāq=道、隘路」と呼ばれ、またアンダルスからマグリブを見て「`udwa=対岸」と呼んだり、双方を合わせて「`udwatān=両岸」と呼んだりする例もあることを紹介した。

次いでマグリブ・アンダルスを代表する14世紀の知識人イブン・ハルドゥーンの生涯を軸に、この時代の知識人と文化の交流について議論を展開した。
マグリブ・アンダルスでは13世紀前半この地域を統一支配していたムワッヒド朝の崩壊により、マリーン朝、ザイヤーン朝、ハフス朝、ナスル朝の四王朝が分立する自体となった。そしてこの事態に伴うムスリム側の政治的混乱・弱体化をついて、キリスト教徒諸国家(カスティーリャ、アラゴン、ポルトガル)による大レコンキスタが進展し、アンダルスの主要都市が次々と陥落していった。
イブン・ハルドゥーンは1332年チュニスに生まれ、マグリブ・アンダルスの各地を遍歴して学問修業や宮廷への出仕をした後、1382年以降はカイロに移住した。その主著『歴史序説』は近代の社会科学を先取りする作品として名高い。

この時代知識人たちは、イブン・ハルドゥーンのように学問修業や宮廷での出仕を求めて、海峡を往来していた。これは両岸に同じ文化的土俵があったことが前提となる。具体的には法学、スーフィズム、ハディース学、韻文・散文学といった学術を両岸の人々が共通して学んでいたことである。このような知識人の例として、マグリブのセウタ生まれでナスル朝に仕えたイブン・アブドゥルムハイミンやアンダルスのマラガ出身でマリーン朝に仕えたイブン・リドワーンといった人物がいる。そして高名な知識人の名声は海峡を越えて伝わり、マリーン朝の君主がアンダルスの高名な知識人との会見を熱望するという事例も見られた。
また、イブン・ハルドゥーンとグラナダを代表する知識人でナスル朝の宰相でもあったイブン・ハティーブのように、海峡の両岸で文通・著作の交換を行う例もあった。両者はイブン・ハティーブの君主であるムハンマド五世が1539年マリーン朝宮廷に亡命した時から交流があり、一時仲違いするものの、その後関係が修復し、文通が始まった。この関係はイブン・ハティーブがグラナダを出奔しマリーン朝宮廷に亡命した後、ムハンマド五世の圧力で処刑されるまで続き、イブン・ハルドゥーンはその執り成しに尽力している。なお、交通や通信が未発達の時代、文通は巡礼者や短距離の旅行者、共通の知人などを介して行われていたと考えられる。
この様な人的交流だけでなく文化活動でも、両岸で流行の共通性がみられる。その例として建築様式の流行や、宮廷行事としての預言者生誕祭の広まりが挙げられる。イブン・ハルドゥーンはグラナダでの預言者生誕祭について、これがマグリブの王たちに倣って行われるようになったと説明している。

またレコンキスタの進展によって、マグリブ社会ではアンダルスからの移民が活躍するようになった。ハルドゥーン家(=イブン・ハルドゥーンの一族)もその一例である。この一族は8世紀以来セビーリャの名族であったが、13世紀ハサンと呼ばれる人物の代に、この町がカスティーリャによって陥落する直前セウタへ移住した。この頃チュニジアを支配していたハフス朝の君主は、元セビーリャの統治者であったため、ハサンはさらにチュニスへ移住し、この君主からから厚遇された。息子ムハンマドは宮廷に出仕して王国の財務行政の責任者となった。その息子のやはりムハンマドは軍人として重用されたが、のちに学問と信仰を中心とした生活を送るようになった。その息子のやはりムハンマドは宮仕えはせずに学問と信仰の生活を送った。その息子が『歴史序説』の著者アブドゥッラフマーンである。
このほかにもアンダルス移民の中には、宮廷人・軍人として活躍したり、イブン・ハルドゥーンの師匠であるイブン・ブッラールやアービリーのように知識人として活躍した者がいた。

この様に佐藤講演は、ジブラルタル海峡の両岸の人的・文化的交流の諸相を明らかにし、最後に現代のモロッコで「アンダルス音楽」という名前で呼ばれる音楽の演奏会の様子を映像で紹介して終了した。また、文化交流の一端として、セビーリャのアルカサルに見られるペドロ一世の宮殿のように、アンダルスのムスリム文化の影響がキリスト教国家まで及んだ例も紹介された。ただしそれは特異な事例に留まり、またこのペドロ一世に対する政敵のネガティブキャンペーンに、彼がムスリムやユダヤ教徒を厚遇していることが挙げられたことからして、リスクの大きい行為だったと考えられるという説明がなされた。

2013年6月1日土曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ 序文

 現代モロッコを代表する中世史研究者モハメド・カブリーが2005年発表した、モロッコのマフザン(中央政府)の起源に関する論考を少しずつまとめていきます。というのも、氏の叙述はフランス語であろうとアラビア語であろうと極めて難解で、この決して長くない論文でも一息に読み切ってまとめることが、私にはどうにも困難だからなのですが。
 最初は、1ページほどの序文をまとめた、というよりは様々な留保の類を削ってみた、といったところです。まずこの試論の目的が宣言されます。すなわち:
マフザンについての近代の個々の国家の枠組みの中で行われてきた議論を、より古い時代にさかのぼり、かつマグリブ全域を考察対象に入れたうえで、これまでの研究成果を再検討し、その起源を探究すること
ただ、「意味論的考古学」「プラットフォーム」「指示対象-サポート」とは何ぞや?これ以降の議論でどれだけ明確になることか、何とも不安です。

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

(序文 pp. 2-3)
 イスラームの政治制度は、全体的な発展の範囲では、その本質的な表象と構造を通して、信任(investi)されている。その歴史叙述と「実践」を考慮すると、この政治制度は多様な資料体(相互の矛盾、特定の文脈への参照)に依拠しているようにみえる。そしていくつかの試みは、地域的な固有性に注意を払いながらも、その形成の過程を総体として把握することには、すでに成功している。モロッコにおける政治制度の形成は、多くの互いに交差しあう研究の対象となり、豊かな成果をもたらしている。

この試論の目的
=より古い構造化するデータを解読しながら、これまでの豊富な研究の貢献を確認すること

最初に検討する研究の範囲を、時間・空間の両面で拡大するのが有益
時間…「近代=moderne」以前にさかのぼる
空間…領土的区分を超えてマグリブ全域に及ぶ
(大抵の場合、近代のみがモロッコの政治制度に関する最近の解釈を支持すると考えられている)

  • 起源へ(aux origines=複数の起源へ)とさかのぼること
  • この数世紀に現れ出た形態からだけでなく、プラットフォーム(plate-forme)の表象と記号の蓋然的な意味論的考古学(archéologie sémantique probable)からも読解が行われること(プラットフォームとは?)

多様な資料(sources)に対して、資料体(corpus)は限定されている。資料体を膨らませるのは、緩慢で段階的な現実の歩みであり、それがその(資料体の?)指示対象-サポート(référent-support)を構成する。この指示対象を特定するためには、本質的な構造化するデータで満足すべきだろう。