Voguet, Élise. "Chefs de tribus et murābiṭūn". Mélanges de l'École française de Rome - Moyen Âge. 124.2, 2012: 375-82.
この論文で言うムラービトゥーンとはムラービト朝のことではなく、リバートに籠る人々、つまりいわゆる「イスラーム聖者」のこと。15世紀編纂されたファトワー集をもとに、中世末期中央マグリブの「田舎のエリート」の機能や性質、そしてスルターン国家との関係について論じています。
このファトワー集はJacques BerqueやHouari Touatiも利用してきた文献で、Al-Durar al-Maknūna fī Nawāzil Māzūnaといいます。近年アルジェリアのコンスタンティーヌ大学の院生が学位論文という形で分担して校訂しているらしく、部分的ながらPDFが大学のデポジトリからダウンロードできます。
論文の要点としては、
・中世末期中央マグリブでは、主にベドウィン部族の族長とムラービトゥーンが田舎のエリートを構成していた
・特に中央集権的な国家の権威が及ばない地域で、両者は国家の機能を代行し、富を蓄積し、国家と競合する独立性の高い権力となっていた
・ベドウィン部族の族長はスルターンと同様に、支配下にある地域住民の安全保障と引き換えに服従と納税を認めさせており、この住民を保護することによって富を得ていた
・ムラービトゥーンは地域住民にとって、国家から任命される統治者やカーディーよりも利用しやすく頼りになる調停者であった
・彼らの紛争調停という政治的機能を国家は正当化し、その支配が及ばない地域での代替として利用した
というところでしょうか。
Berqueの「文学的な」議論を良くも悪くも整頓したような…あとところどころ、よく意味の分らない言葉づかいが出てくるのが困るのですが…。
2014年1月31日金曜日
2013年7月25日木曜日
権力の言語 まとめ
Stephen Cory. “Language of Power: the Use of Literary Arabic as Political Propaganda in Early Modern Morocco”. The Maghreb Review 30(1), 2005: 39-56.
1585年サァド朝君主アフマド・マンスールは、現在のカサブランカ近辺のターマスナー平野で、息子で後継者のマァムーンに対するバィアの儀式を挙行しました。この儀式にはモロッコ各地の名望家たちが出席し、書記官アブド・アルアズィーズ・フィシュターリーの起草したバィアの文章が読み上げられた後、各人スルターンの前で服従の誓いを行ないました。
フィシュターリーはこの文章を、彼の著した年代記の中で引用しています。その中ではサァド朝のイスラーム世界全体に対するカリフ位が主張され、その理論が詳細に説明されています。アッバース朝の衰退以降途絶えていた普遍的なカリフ位の主張が、16世紀の国際情勢とサァド朝のシャリーフの血統を重視する政治的主張によって復活したわけです。
マンスールの宮廷で作成された文献は、非常に複雑で様式化されたアラビア語で書かれており、また非常にバイアスの掛かった、そして非現実的な内容を含むものです。そのため歴史研究者はしばしばその史料価値を軽視してきましたが、コーリーはこの種の文献の史料価値を擁護したうえで、これらに用いられている言語そのものが、君主と臣下の分離を強調する働きを持った、「権力の言語」であったと主張します。そしてバィアの文章の中で述べられているシャリーフの政治イデオロギーが、サァド朝滅亡後もアラウィー朝によって継承されていることに注目しています。
論旨は興味深いのですが、若干気になる点を挙げると、
・サァド朝によるカリフ位の主張は16世紀前半アァラジュの治世で既に公然とされている
・そもそもムワッヒド朝の後継諸王朝においてもカリフ位の主張はされている
・シャリーフと政治権力の結びつきはマリーン朝期においてすでに見られる
といった、マンスールの治世以前の状況に関する認識の粗さが目につきます。
それからコーリーは、サァド朝宮廷の称賛文学が、若干のモロッコ人研究者を除いて、現代の研究者から無視されていると述べていますが、それは誇張でしょう(そもそもこの著者は、先行研究に対する目配りが極めて乏しいように思います)。
また〔〕で括って示しておきましたが、アラビア語の翻訳は必ずしも丁寧にされているわけではないかもしれません。この箇所、訳文に括弧が多いので気になってチェックしたのですが、(大意はそこまで変わらないとはいえ)誤訳といってよいと思います。他の研究者がテキストの難解さゆえにこれらの文献を利用していないと非難している時に、このような問題はまったくいただけない。雑誌自体もちゃんと編集しているのか、心配になる個所が散見されますし…
いずれにせよ、マンスールの治世の安定は16世紀末以降の社会・経済的危機の中で失われていき、その急死とともに王朝は急速に崩壊していくわけです。その政治的危機に、マンスールの提唱した政治的イデオロギーや儀式がどの程度、どのように影響したのか、検討する必要があるように思います。
1585年サァド朝君主アフマド・マンスールは、現在のカサブランカ近辺のターマスナー平野で、息子で後継者のマァムーンに対するバィアの儀式を挙行しました。この儀式にはモロッコ各地の名望家たちが出席し、書記官アブド・アルアズィーズ・フィシュターリーの起草したバィアの文章が読み上げられた後、各人スルターンの前で服従の誓いを行ないました。
フィシュターリーはこの文章を、彼の著した年代記の中で引用しています。その中ではサァド朝のイスラーム世界全体に対するカリフ位が主張され、その理論が詳細に説明されています。アッバース朝の衰退以降途絶えていた普遍的なカリフ位の主張が、16世紀の国際情勢とサァド朝のシャリーフの血統を重視する政治的主張によって復活したわけです。
マンスールの宮廷で作成された文献は、非常に複雑で様式化されたアラビア語で書かれており、また非常にバイアスの掛かった、そして非現実的な内容を含むものです。そのため歴史研究者はしばしばその史料価値を軽視してきましたが、コーリーはこの種の文献の史料価値を擁護したうえで、これらに用いられている言語そのものが、君主と臣下の分離を強調する働きを持った、「権力の言語」であったと主張します。そしてバィアの文章の中で述べられているシャリーフの政治イデオロギーが、サァド朝滅亡後もアラウィー朝によって継承されていることに注目しています。
論旨は興味深いのですが、若干気になる点を挙げると、
・サァド朝によるカリフ位の主張は16世紀前半アァラジュの治世で既に公然とされている
・そもそもムワッヒド朝の後継諸王朝においてもカリフ位の主張はされている
・シャリーフと政治権力の結びつきはマリーン朝期においてすでに見られる
といった、マンスールの治世以前の状況に関する認識の粗さが目につきます。
それからコーリーは、サァド朝宮廷の称賛文学が、若干のモロッコ人研究者を除いて、現代の研究者から無視されていると述べていますが、それは誇張でしょう(そもそもこの著者は、先行研究に対する目配りが極めて乏しいように思います)。
また〔〕で括って示しておきましたが、アラビア語の翻訳は必ずしも丁寧にされているわけではないかもしれません。この箇所、訳文に括弧が多いので気になってチェックしたのですが、(大意はそこまで変わらないとはいえ)誤訳といってよいと思います。他の研究者がテキストの難解さゆえにこれらの文献を利用していないと非難している時に、このような問題はまったくいただけない。雑誌自体もちゃんと編集しているのか、心配になる個所が散見されますし…
いずれにせよ、マンスールの治世の安定は16世紀末以降の社会・経済的危機の中で失われていき、その急死とともに王朝は急速に崩壊していくわけです。その政治的危機に、マンスールの提唱した政治的イデオロギーや儀式がどの程度、どのように影響したのか、検討する必要があるように思います。
2013年7月22日月曜日
モロッコにおける聖性と王朝権力 まとめ
García-Arenal, Mercedes. "Sainteté et pouvoir dynastique au Maroc: La Résistance de Fès aux Sa'diens". Annales ESC 1990(4), 1019-1042.
王朝権力の宗教的な要素による正当化という問題を、16世紀中葉モロッコのサァド朝によるファース(フェズ)の征服という事件を題材に論じた論文です。
サァド朝のシャリーフ(預言者の子孫)の成功は、15世紀以降のイベリア半島のキリスト教徒の進出に対するジハードと関連付けて論じられ、しばしばナショナリズム的な解釈がされてきましたが、この王朝とその前代の王朝であるワッタース朝の抗争を見る限り、この解釈は支持できないとガルシア・アレナールは述べます。そして、特にワッタース朝の首都ファースの包囲戦の際の、スーフィー教団シャーズィリーヤのスーフィーとファースのウラマーたちの逸話を検討し、
・血統が聖性の源となる…支教団ジャズーリーヤ、サァド朝
・個人的な徳が聖性の源となる…支教団ザッルーキーヤ、ファースのウラマー
という対立軸が、16世紀のモロッコの権力の正当化を巡る言説においてあったという仮説を提示します。そして、モロッコではシャリーフであることが権力の保持を正当化すると考える立場においても、ウラマーによる正当性の承認が必要とされたと主張します。
この論文について若干問題点を指摘すると、
・出来事のクロノロジーに対する配慮の不足
・幾つかの概念(特に「民衆的」)の曖昧さ
が挙げられ、それぞれF. R. MedianoやV. Cornellといった研究者からの批判を受けています。
また、シャーズィリーヤ内部のザッルーキーヤとジャズーリーヤの対立という主張は、シャーズィリーヤとカーディリーヤの対立という主張と同じくらい疑わしいものに思われますし、1036頁のファースのシャリーフに関する記述は正直意味がよく分りません(特にun groupe dominant dans la ville de Fès qui s'oppose au nouveau pouvoir des Sa`adiens aussi parce qu'ils sont des shurafā...の下り、ファースのシャリーフたちがサァド朝権力に抵抗したという話はどこから…)。
その他論理がよく分らない箇所、翻訳に頼っていて訳がおかしい箇所、細かい誤りなど、指摘していくといろいろあるのですが…とはいえ、サァド朝の地域統一に関するA. Courの重要な仮説を明確に否定し、その支配確立の過程を再度問題提起した点で、非常に重要な論文であることは確かです。
Abun-Nasrは、サァド朝の台頭の背景には安定した非部族的な政権を求める都市民の支持があったと主張するが、ファースの都市民はシャリーフの征服に頑強な抵抗を見せた。
A. Courは、ファースの影響力を持った人々は、スーフィー教団のカーディリー教団かジャズーリー教団のいずれかに加入しており、この帰属が政治的な態度の表明と関係していると考えた。そして、イベリア半島から避難してきたアンダルス人たちはワッタース朝には敵対的なサァド朝の支持者であり、ファースでジャズーリー教団に加入していた唯一の集団であったと考えた。
→このいずれの主張も支持することはできない。
1524年、ムッラークシュの占領(息子のアフマド・アァラジュとムハンマド・シャィフによる)
1549年、ワッタース朝の首都ファースの第1次征服(ムハンマド・シャィフ)
1554年、ファースの第2次征服、モロッコの統一が確立
→比較的長期間(ムッラークシュ占領から数えても30年間)
→王朝支配確立のナショナリズム的解釈に対する疑義
両王朝の抗争に対するスーフィーとウラマーの関与を伝える逸話が多数存在する…
・和平条約締結の交渉や戦闘に参加
・王朝やその君主たちに対するスーフィーの呪詛
→どちらの陣営に対してもむけられる
彼らの政治に介入する能力は、民衆に対する影響力を反映したものか?
サァド朝の支持者=過激な神秘主義者(マジュズーブ、マラーマティーなど)
・ファースのウラマーのワッタース朝に対する支持
アブド・アルワーヒド・ワンシャリースィー…
第1次征服時にワッタース朝君主に対するバイアを破棄しないよう住民に呼びかけ
サァド朝君主を韻文で異教徒・反乱者呼ばわり
後者が匿名の悪党を雇って殺害させるとファースは数日で陥落
1554年オスマン朝の支援を受けたワッタース家のアブー・ハッスーンがファースを奪還
サァド朝とともに来たスース人の殺害
サァド朝は年内に再征服、激しい弾圧
イブン・ザッカーク…
サァド朝に反対したウラマーの1人、アブー・ハッスーンの時期に復権
スース人を殺すのは異教徒(マジュースィー)を殺すのと同じ
再征服後の処刑の際にサァド朝君主を呪詛(死に方を自分で選べ)→実現
・非合法の権力…合法性の保持者たるウラマーからの支持を受けていない反乱者であり、それは背教者、不信仰者に準ずる
・卑しい出自…ファースの都市民にとってはスース地方から到来した粗野で無知な人々(支配者だけでなくそれを支持する宗教人に対しても)
・シャリーフ主義に対する疑義…血統の真正さに加えて、シャリーフの血統が権力の保持を正当化するのかという問題
ワッタース朝のアブー・ハッスーンによるファース奪還後のラーシド家のアミール投獄を巡る逸話を除き、ファースのシャリーフがサァド朝の支配確立に関与した証拠はない。
ジューティーの支持者に対する批難とサァド朝の支持者に対する批難は口調が共通しているだけでなく、状況も類似しており、また批難者たちの間には繋がりがある。
1465年のマリーン朝の正当な君主の殺害とワッタース朝を支持する法学者の殺害は、いずれも匿名の悪人の仕業とされている。
→正当なイマームに対する反乱は禁止だが、反乱に成功すればその反乱者は正当なイマームとなり、正当性は力に依拠している
→アンダルス人をワッタース朝の敵対者とみなすCourの仮説の否定
サァド朝によるファース征服において言及されるスーフィーはいずれもシャーズィリーヤだが、その内部での系統には違いがある。
アンダルス人≒シャーズィリーヤ(Courの仮説)…正しいが、カーディリーヤもまたアンダルスに進出していたし、シャーズィリーヤとカーディリーヤを明確に区別することは難しい
16世紀後半より前にモロッコで教団組織としてカーディリーヤが存在していたという証拠はない。
当時のモロッコでのスーフィズムの形態:
北部の都市民の間で広まっていた形態…特定の教団に加入しない知識人たちによって実践
南部の農村民の間で広まっていた形態…教団組織
・シャーズィリーヤ内部の対立
ザッルーキーヤ…アフマド・ザッルークを名祖とする
ファースのウラマーとの関係
過激な神秘主義的形態の不在
民衆的聖者への非難~物質的な目的のために抑圧者たちと協力し、無知な人々をだましている
マフディー主義への警戒
ジャズーリーヤ…マハンマド・ジャズーリーを名祖とする
サァド朝を支援した人々が加入
マフディーを自称し、自身に従うことを要求~サァド朝のムハンマド・シャィフもマフディーを自称
→シーア派的傾向、ミクナースのハティーブはサァド朝に殺害される前に、シーア派に殺害されたカリフ=ウスマーンに言及
・権力の保持を正当化する条件としての血統
サァド家の血統の正統性に対する疑義…二次的な問題
シャリーフの血統は権力の保持とムスリム共同体の指導を正当化するするのか?
ザッルーク…高貴さ=宗教的に優れていること、≠先祖の徳
ジャズーリー…高貴さ=出自、シャリーフであること、自身の先祖が預言者であることを強調
ジャズーリーヤとサァド朝のシャリーフの利害は一致(←?)
→ファース第2次征服より2年ほどで両者の協力関係は終了
cf. ルネッサンス期ヨーロッパでの論争:
血統こそが徳・威厳・名誉の源泉 vs 行為・知識・宗教的遵守による個人的徳の擁護
・シャリーフとビルディーイーンの対立
ビルディーイーン…ムスリムに改宗したユダヤ人、ファースの富裕な商人でシャリーフと経済的に対立
シャリーフはファースの重要な商業地区であるカィサリーヤへのビルディーイーンへの進出を、その出自を根拠に阻もうと試みる。
出自の神話…血統は都市内部の対立において、ある集団の優位を確立するためのプロパガンダとして用いられる
→サァド朝のシャリーフとファースのシャリーフを結び付ける唯一の要素
ワッタース朝最後の君主であるアフマド・ワッタースィーの治世、ファースのシャリーフたちはカィサリーヤからビルディーイーンを追放することをスルターンに要求する。スルターンはファースのウラマーにファトワーを求める。
→出自は差別の理由となりえないこと、追放に反対することで意見の一致
ファトワーを提出したウラマー=サァド朝の支配に抵抗した人々
・地域権力と中央政府の既存のシステム内部での、外交と武力行使によって権力を獲得した王朝
・宗教的要素=シャリーフの血統はその権力獲得の正当化、正統性の源
ファースのウラマー
・彼らによって承認を受けない限りいかなる権力も正当ではない
・血統に基づいて聖性が与えられるとか、ムスリム共同体に対するヘゲモニーの権利が得られるという主張への反対
・過激な神秘主義や、マフディー主義の影響を受けたシャリーフ主義への不信
ファースの征服ではこの二つの宗教的な立場も対立
16世紀モロッコにおける権力の所在や、正当性の観念・象徴をよく表している
E. Gellnerの主張:
正当性の問題に関してウラマーの評決は事後になされ、事実上の権力に判断を下すのではなく、それを承認する
→ファースの征服はこのモデルに該当しない
→サァド朝のスルターンは支配の正当性を得るためにウラマーのバイア=承認を必要とした
Cl. Geertz:
モロッコのスルターンは2つの他の地域では対立する原則を兼ねている
・イマームは超自然的な権力によってそのような資格を与えられているからイマームである
・イマームは共同体の資格のある代弁者がそのことで合意したからイマームである
イフラーニーの記述:
サァド朝の高貴な血統の正統性は、聖者の勧告と博士の承認によって根拠づけられる
→シャリーフであることが権力の行使を正当化すると信じる者にとっても、ウラマーの承認は必要である
王朝権力の宗教的な要素による正当化という問題を、16世紀中葉モロッコのサァド朝によるファース(フェズ)の征服という事件を題材に論じた論文です。
サァド朝のシャリーフ(預言者の子孫)の成功は、15世紀以降のイベリア半島のキリスト教徒の進出に対するジハードと関連付けて論じられ、しばしばナショナリズム的な解釈がされてきましたが、この王朝とその前代の王朝であるワッタース朝の抗争を見る限り、この解釈は支持できないとガルシア・アレナールは述べます。そして、特にワッタース朝の首都ファースの包囲戦の際の、スーフィー教団シャーズィリーヤのスーフィーとファースのウラマーたちの逸話を検討し、
・血統が聖性の源となる…支教団ジャズーリーヤ、サァド朝
・個人的な徳が聖性の源となる…支教団ザッルーキーヤ、ファースのウラマー
という対立軸が、16世紀のモロッコの権力の正当化を巡る言説においてあったという仮説を提示します。そして、モロッコではシャリーフであることが権力の保持を正当化すると考える立場においても、ウラマーによる正当性の承認が必要とされたと主張します。
この論文について若干問題点を指摘すると、
・出来事のクロノロジーに対する配慮の不足
・幾つかの概念(特に「民衆的」)の曖昧さ
が挙げられ、それぞれF. R. MedianoやV. Cornellといった研究者からの批判を受けています。
また、シャーズィリーヤ内部のザッルーキーヤとジャズーリーヤの対立という主張は、シャーズィリーヤとカーディリーヤの対立という主張と同じくらい疑わしいものに思われますし、1036頁のファースのシャリーフに関する記述は正直意味がよく分りません(特にun groupe dominant dans la ville de Fès qui s'oppose au nouveau pouvoir des Sa`adiens aussi parce qu'ils sont des shurafā...の下り、ファースのシャリーフたちがサァド朝権力に抵抗したという話はどこから…)。
その他論理がよく分らない箇所、翻訳に頼っていて訳がおかしい箇所、細かい誤りなど、指摘していくといろいろあるのですが…とはいえ、サァド朝の地域統一に関するA. Courの重要な仮説を明確に否定し、その支配確立の過程を再度問題提起した点で、非常に重要な論文であることは確かです。
〔序文〕(1019-1021)
16世紀のサァド朝のシャリーフによる権力の確立は、イベリア半島のキリスト教徒によるモロッコ沿岸占領へのナショナリズム的反応と考えられてきた。Abun-Nasrは、サァド朝の台頭の背景には安定した非部族的な政権を求める都市民の支持があったと主張するが、ファースの都市民はシャリーフの征服に頑強な抵抗を見せた。
A. Courは、ファースの影響力を持った人々は、スーフィー教団のカーディリー教団かジャズーリー教団のいずれかに加入しており、この帰属が政治的な態度の表明と関係していると考えた。そして、イベリア半島から避難してきたアンダルス人たちはワッタース朝には敵対的なサァド朝の支持者であり、ファースでジャズーリー教団に加入していた唯一の集団であったと考えた。
→このいずれの主張も支持することはできない。
出来事の枠組み:宗教的な人々の態度表明(1021-1026)
1509年頃、サァド朝の初代カーイムが帝国建設に着手1524年、ムッラークシュの占領(息子のアフマド・アァラジュとムハンマド・シャィフによる)
1549年、ワッタース朝の首都ファースの第1次征服(ムハンマド・シャィフ)
1554年、ファースの第2次征服、モロッコの統一が確立
→比較的長期間(ムッラークシュ占領から数えても30年間)
→王朝支配確立のナショナリズム的解釈に対する疑義
両王朝の抗争に対するスーフィーとウラマーの関与を伝える逸話が多数存在する…
・和平条約締結の交渉や戦闘に参加
・王朝やその君主たちに対するスーフィーの呪詛
→どちらの陣営に対してもむけられる
彼らの政治に介入する能力は、民衆に対する影響力を反映したものか?
サァド朝の支持者=過激な神秘主義者(マジュズーブ、マラーマティーなど)
・ファースのウラマーのワッタース朝に対する支持
アブド・アルワーヒド・ワンシャリースィー…
第1次征服時にワッタース朝君主に対するバイアを破棄しないよう住民に呼びかけ
サァド朝君主を韻文で異教徒・反乱者呼ばわり
後者が匿名の悪党を雇って殺害させるとファースは数日で陥落
1554年オスマン朝の支援を受けたワッタース家のアブー・ハッスーンがファースを奪還
サァド朝とともに来たスース人の殺害
サァド朝は年内に再征服、激しい弾圧
イブン・ザッカーク…
サァド朝に反対したウラマーの1人、アブー・ハッスーンの時期に復権
スース人を殺すのは異教徒(マジュースィー)を殺すのと同じ
再征服後の処刑の際にサァド朝君主を呪詛(死に方を自分で選べ)→実現
サァド朝に対する反対のイデオロギー的諸要因(1026-1027)
アラビア語史料からは以下の3つの反サァド朝的要因が現れる・非合法の権力…合法性の保持者たるウラマーからの支持を受けていない反乱者であり、それは背教者、不信仰者に準ずる
・卑しい出自…ファースの都市民にとってはスース地方から到来した粗野で無知な人々(支配者だけでなくそれを支持する宗教人に対しても)
・シャリーフ主義に対する疑義…血統の真正さに加えて、シャリーフの血統が権力の保持を正当化するのかという問題
先例:869/1465年のシャリーフの反乱(1027-1029)
ファースの町はサァド朝による征服の1世紀前にイムラーン家のシャリーフ=ジューティーによるマリーン朝への反乱と短期間の支配を経験しており、ワッタース朝はこの政権を打倒して成立した王朝である。ワッタース朝のアブー・ハッスーンによるファース奪還後のラーシド家のアミール投獄を巡る逸話を除き、ファースのシャリーフがサァド朝の支配確立に関与した証拠はない。
ジューティーの支持者に対する批難とサァド朝の支持者に対する批難は口調が共通しているだけでなく、状況も類似しており、また批難者たちの間には繋がりがある。
1465年のマリーン朝の正当な君主の殺害とワッタース朝を支持する法学者の殺害は、いずれも匿名の悪人の仕業とされている。
→正当なイマームに対する反乱は禁止だが、反乱に成功すればその反乱者は正当なイマームとなり、正当性は力に依拠している
名望家たちの政治:集団としての「ウラマー」
共通の知識の加入者たち(1029-1031)
サァド朝のファース征服に関与したウラマーの学識伝授の繋がりを検討すると、彼らは2人のアンダルスの法学者を共通の師匠としてもっており、彼ら自身の中でアンダルスに起源をもつ人々も多い。また彼らは、15世紀終わりからファースの重要な役職を独占していたことがわかる。→アンダルス人をワッタース朝の敵対者とみなすCourの仮説の否定
共通のスーフィズムの加入者たち(1031-1036)
・シャーズィリーヤとカーディリーヤの対立サァド朝によるファース征服において言及されるスーフィーはいずれもシャーズィリーヤだが、その内部での系統には違いがある。
アンダルス人≒シャーズィリーヤ(Courの仮説)…正しいが、カーディリーヤもまたアンダルスに進出していたし、シャーズィリーヤとカーディリーヤを明確に区別することは難しい
16世紀後半より前にモロッコで教団組織としてカーディリーヤが存在していたという証拠はない。
当時のモロッコでのスーフィズムの形態:
北部の都市民の間で広まっていた形態…特定の教団に加入しない知識人たちによって実践
南部の農村民の間で広まっていた形態…教団組織
・シャーズィリーヤ内部の対立
ザッルーキーヤ…アフマド・ザッルークを名祖とする
ファースのウラマーとの関係
過激な神秘主義的形態の不在
民衆的聖者への非難~物質的な目的のために抑圧者たちと協力し、無知な人々をだましている
マフディー主義への警戒
ジャズーリーヤ…マハンマド・ジャズーリーを名祖とする
サァド朝を支援した人々が加入
マフディーを自称し、自身に従うことを要求~サァド朝のムハンマド・シャィフもマフディーを自称
→シーア派的傾向、ミクナースのハティーブはサァド朝に殺害される前に、シーア派に殺害されたカリフ=ウスマーンに言及
・権力の保持を正当化する条件としての血統
サァド家の血統の正統性に対する疑義…二次的な問題
シャリーフの血統は権力の保持とムスリム共同体の指導を正当化するするのか?
ザッルーク…高貴さ=宗教的に優れていること、≠先祖の徳
ジャズーリー…高貴さ=出自、シャリーフであること、自身の先祖が預言者であることを強調
ジャズーリーヤとサァド朝のシャリーフの利害は一致(←?)
→ファース第2次征服より2年ほどで両者の協力関係は終了
cf. ルネッサンス期ヨーロッパでの論争:
血統こそが徳・威厳・名誉の源泉 vs 行為・知識・宗教的遵守による個人的徳の擁護
・シャリーフとビルディーイーンの対立
ビルディーイーン…ムスリムに改宗したユダヤ人、ファースの富裕な商人でシャリーフと経済的に対立
シャリーフはファースの重要な商業地区であるカィサリーヤへのビルディーイーンへの進出を、その出自を根拠に阻もうと試みる。
出自の神話…血統は都市内部の対立において、ある集団の優位を確立するためのプロパガンダとして用いられる
→サァド朝のシャリーフとファースのシャリーフを結び付ける唯一の要素
ワッタース朝最後の君主であるアフマド・ワッタースィーの治世、ファースのシャリーフたちはカィサリーヤからビルディーイーンを追放することをスルターンに要求する。スルターンはファースのウラマーにファトワーを求める。
→出自は差別の理由となりえないこと、追放に反対することで意見の一致
ファトワーを提出したウラマー=サァド朝の支配に抵抗した人々
〔結論〕(1036-1037)
サァド朝・地域権力と中央政府の既存のシステム内部での、外交と武力行使によって権力を獲得した王朝
・宗教的要素=シャリーフの血統はその権力獲得の正当化、正統性の源
ファースのウラマー
・彼らによって承認を受けない限りいかなる権力も正当ではない
・血統に基づいて聖性が与えられるとか、ムスリム共同体に対するヘゲモニーの権利が得られるという主張への反対
・過激な神秘主義や、マフディー主義の影響を受けたシャリーフ主義への不信
ファースの征服ではこの二つの宗教的な立場も対立
16世紀モロッコにおける権力の所在や、正当性の観念・象徴をよく表している
E. Gellnerの主張:
正当性の問題に関してウラマーの評決は事後になされ、事実上の権力に判断を下すのではなく、それを承認する
→ファースの征服はこのモデルに該当しない
→サァド朝のスルターンは支配の正当性を得るためにウラマーのバイア=承認を必要とした
Cl. Geertz:
モロッコのスルターンは2つの他の地域では対立する原則を兼ねている
・イマームは超自然的な権力によってそのような資格を与えられているからイマームである
・イマームは共同体の資格のある代弁者がそのことで合意したからイマームである
イフラーニーの記述:
サァド朝の高貴な血統の正統性は、聖者の勧告と博士の承認によって根拠づけられる
→シャリーフであることが権力の行使を正当化すると信じる者にとっても、ウラマーの承認は必要である
2013年7月17日水曜日
ポルトガルの海外進出とマグリブ・アクサー
7/5(金)に京都女子大学でゲストスピーカーとして話した時の配布資料に、やや手を入れたもの。
ポルトガルの海洋進出というと、インドから東南アジアの香辛料取引への介入やブラジル経営の話が中心になって、アフリカの特にモロッコ支配については、海外進出の発端である1415年のセウタ征服以降ほとんど言及されないように思います。
今回の授業では、ジョアン1世によるこの征服遠征の背景やその後の展開、そしてこのポルトガル人の進出に対するムスリムの反応について、特に前提知識のない人を想定しながら説明してみましたが、若干概略過ぎたようにも思います。「平和のムーア人」と呼ばれる、ポルトガル人の支配に協力するムスリムの話など、興味深い事例がいくつもあったのですが、またの機会に…
ポルトガル語の単語の表記については、山川の新版世界各国史シリーズのそれに従っています。
ポルトガルの海洋進出というと、インドから東南アジアの香辛料取引への介入やブラジル経営の話が中心になって、アフリカの特にモロッコ支配については、海外進出の発端である1415年のセウタ征服以降ほとんど言及されないように思います。
今回の授業では、ジョアン1世によるこの征服遠征の背景やその後の展開、そしてこのポルトガル人の進出に対するムスリムの反応について、特に前提知識のない人を想定しながら説明してみましたが、若干概略過ぎたようにも思います。「平和のムーア人」と呼ばれる、ポルトガル人の支配に協力するムスリムの話など、興味深い事例がいくつもあったのですが、またの機会に…
ポルトガル語の単語の表記については、山川の新版世界各国史シリーズのそれに従っています。
2013年6月26日水曜日
サァド朝とマフディズム まとめ
Mercedes García-Arenal. "Mahdisme et dynastie sa`dienn". Mahdisme: Crise et changement dans l'histoire du Maroc. Ed. Abdelmajid Kaddouri. Casablanca: Najah El Jadida, 1994.
この論文は、サァド朝によるマフディー像の利用を、王朝の創始者であるムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンと最盛期の君主であるアフマド・マンスールを中心に分析する。マフディーの名における権力樹立の試みはマグリブでは繰り返し見られたが、統治者がその象徴と宣伝を利用するのは珍しく、この点でマンスールの事例は特殊である。以下の議論ではそれぞれの象徴と宣伝の手段を分析し、マフディー像がどのような言葉で表明されてきたかを見る。そして王朝創始の偉業とその継続の試みの間で見られる矛盾の解決を試みる。マフディー像は単に象徴としてだけでなく権力の象徴体系としても言及される。
著者はまず、統治者や王が神といくつかの特徴を共有しているという問題に触れ、『王の二つの身体』や『王の奇跡』といった著作に言及する。またドルス(M. Dols)は預言者の奇跡治療者としての力について研究しているし、ドゥッテ(E. Doutté)は聖者と魔術師の力が全く同一で区別が困難であることを指摘している。そして王権が魔術的な起源をもつという概念や、あらゆる君主権に内在する神聖性という概念はよく知られており古典的でさえある。要約するなら、「国家は確立して以降永続性の意志であり、超越性の追求であり、あらゆる超越性と同様に必然的に神聖性で形作られている。人々はこの神聖性を権力を保持する者たちを介して表現しようとした。」この(聖なる王権という)問題について、アフリカでは人類学者が、ヨーロッパでは歴史研究者が関心を持ってきたが、両者の関係は乏しく重なり合うことが少なかった。ギアツ(Cl. Geertz)、ダクリア(J. Dakhlia)、ソ(Michel Sot)らの研究が例外として挙げられる。これらは権力がそれを介して現れるような儀礼やイメージについて議論し、権力の象徴体系についての研究と権力の性質についての研究の類似を示した。マフディー像は以上の前提に基づいて研究することに適している。そして集団的表象と個人的野心の結合する代表的な事例である。「正しく導かれた者」を意味するマフディーは世界の終わりに神から遣わされる最高の支配者であり、終末の前に神の霊感によってムスリム共同体を指導する。マグリブではマフディーは宗教の再生者という固有の特徴を獲得している。そして神による統治権、神によって選ばれ導かれること、預言者の子孫であること、無謬で法に関する最高権威であることによって特徴づけられる。よってマフディーは個人的カリスマの権威を体現し、既存の規範構造と断絶する権利を保持していると同時に、「伝統的」性格の権威を与えて正統化する、家系によるカリスマの保持者でもある。マフディーはマグリブにおいては独自の共同体を創始し導こうとする戦闘的なムラービトであり、そしてスーフィズムと預言者の模範や「良き導き」といった点で密接に結びついている。両者の境界は閉ざされていないのである。人類学において聖なる現象は魔術と宗教の二極との関係から定義される。前者は個人的、後者は集団的なものである。王権にはその双方の基礎があり、魔術的権力は断絶、宗教的権力は永続で家族の崇拝に根付いており、王朝的である。神聖な血統によって獲得された資格が権力を与える。「魔術的」な王は勝者の王であり、力のある王である。「宗教的」な王は王朝的な王である。宗教的な水準での伝統と儀礼は王権の連続性を強調し、君主を先祖の世界と繋ぐ結びつきの価値を強調する。サァド朝のマフディーはこの前提を考察し直すうえでの興味深い事例である。
サァド家のシャリーフの一族は8/14世紀ヒジャーズ地方からマグリブに移住したとされる。この逸話は、長期間のナツメヤシ栽培の不振に不安を覚えたダルア地方の住民が、預言者の子孫が持つバラカの魔術的な力を期待したと伝えている。同様の話はアラウィー朝の先祖にも知られており、聖なる家系と結びついた東方の起源は魔術的な性質を獲得していた。王朝初代のムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは15世紀末に活動を開始し、法学者として知られていたが、同時に魔術を行なっていたとされる。また彼は戦闘的なムラービトとして活動し、東方への巡礼中も含めて各地で悪を禁じ善を命じていた。この種の逸話はムワッヒド朝マフディー=イブン・トゥーマルトにも見られ、マグリブの歴史における回帰的な要素である。またその2人の息子については、将来人々の指導者になることを予言する夢や魔術的な印が伝えられている。彼はこの種の主張を繰り返し、マフディーと称されていた。そして915/1510年バイアを受けると、マフディズム的な響きを持つ「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」を名乗った。またサァド朝の政治運動とジャズーリー教団は協力関係にあったことが知られている。その開祖ジャズーリーは支持者の一部からマフディーとみなされていたし、その発言にもシャリーフという血統の高貴さを強調するもの、そして預言者の言葉を借りて自身がマフディーであることを宣言するものが見られる。ムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは、ジャズーリーが結びついていたスース地方のマフディズムの伝統を意識的に利用したのである。そして彼の宣伝の中では、その2人の息子も魔術的な記号を付与されている。その後彼は息子たちをファースに送り、教育を受けさせている。聖性の正当化には、ファースのウラマーの系譜に連なることもまた必要とされたのである。またジャンナ―ビーによれば、1513年頃サァド朝の支持者たちはアフマド・アァラジュのことをファーティミーと呼んでいた。ところがイフラーニーは、彼らがシャリーフの系譜に属することと、このことについてウラマーの確証を得たことに依拠して彼らが正当な統治者であることを示そうとしており、マフディズム的な要素は消えている。つまり王朝的カリスマだけが持続している。
しかしその後もサァド朝の統治者たちは、ウラマーの支持が得られない時や既存の規範を侵犯する時には、マフディー像を利用し続けた。1554年ファースを征服したムハンマド・シャィフは、墓の銘文で、古い規範を破棄し新たな規範を作りうる人物であることが示されている。そして個人的な特徴が強調されており、その先祖、つまりムハンマドの法を革新するために神が指名したという例外を除き、家系への言及は見られない。またシャリーフであることは魔術的な特徴を排除するものではない。ムハンマド・シャィフは[ママ]1524年ムッラークシュを占領し1554年までマリーン朝=ワッタース朝との戦いを続けるが、そのうち特に重要なのは1549年と1554年の2度のファース包囲戦である。そして包囲戦は既存の権力の合法性を根拠にサァド朝に抵抗した有力なウラマーの殺害を伴った。1549年の包囲戦の際ムハンマド・シャィフはファースの高名な法学者ワンシャリースィーからのバィアを取り付けようと試みたが、法学者は法的な理由がないことを理由にこれを拒んだ。ミクナースやファースの他の高名なウラマーたちもムハンマド・シャィフとの戦いを呼びかけ、殺害された。これらのウラマーにとって、権力が正当であるためにはその合法性を彼らから承認される必要があり、サァド朝の権力はこの点で不当であった。そしてムハンマド・シャィフはこの意見に対して、マフディーとして、古い規範を破棄し新しい規範を作る法の革新者として、彼の魔術的な性質と無謬性の特徴を突きつけたのではないか。伝統的な権威の基準の擁護者の支持が得られない時には、個人的カリスマだけが権威と権力の基準だったのである。
ムハンマド・シャィフの後継者であるアブド・アッラーフ・ガーリブがマフディーの名前で参照されている事例は見当たらない。むしろ彼はスーフィーのアフマド・ブン・ムーサーの証言によって、偉大な聖者、枢軸(クトゥブ)であるかのように示される。また彼は公共建築の建設者であったが、それを錬金術によって実現したと伝承は伝えている。神権統治の概念や君主の超自然的能力に関する象徴的な要素は、アフマド・マンスール・ザハビーの事例においてより顕著である。幼少期のアフマドの偉大な将来を予言する逸話は数多く、それらを紹介する中でイフラーニーは、政治権力は預言者の、さらには神の指名によって正当化されるという考えを承認しており、アフマドが行ったその神格化の宣伝活動を我がものとしているように思われる。アフマドが1578年ワーディー・アルマハーズィンの戦いで勝利してから後、諸史料は象徴的重要性を持つ逸話や典礼、豪勢さや栄光や宮廷儀礼について章を割いている。これらはカリフの壮麗化、神格化を意図した宣伝活動だった。その逸話の一つとして、ターンスィフト河畔で軍隊を前にして行った、息子ムハンマド・マームーンへの後継者指名の儀式が挙げられる。また預言者生誕祭(マウリド)やバディー宮殿建設、旅行や謁見の壮麗さが挙げられる。バディー宮殿は謁見と贅沢のためだけに用いられており、様々な象徴的な意味が込められていた。この宮殿でアフマド・マンスールによって実施されたマウリドは、その描写からは、先祖である預言者以上にカリフの名誉のために行われたように思われる。この祭りには王国の様々な社会階層の代表者たちが参加し、ヒエラルキーによって秩序付けられており、史料の記述では宮殿の様子は楽園に擬えられている。断食明けの祭ではスルターンは白馬に乗って軍隊に取り囲まれて現れ、ファーティマ朝から借りたパラソルの下で、半ば聖者、半ば戦士のように描写されている。その表現はアッバース朝のカリフのラカブを想起させるもので、偉大な過去の連続性と混入が行われている。そして寛大に贈り物を与える様子は豊富な雨の比喩で描写されており、これはハディースの、終末の前に現れて惜しみなく金品を与えるカリフの主題を想起させる。そのほか、闇夜を照らす月にカリフを対比する主題も用いられている。マンスールの旅行の壮麗さや儀礼は、預言者とその教友たちとの擬態によって王朝的・宗教的な意味を持った連続性を導入し、しかも単なる擬態だけでなく、預言者との系譜上の繋がりをも主張している。ヴェール(スィトル)の採用はファーティマ朝とアッバース朝から借りたもので、カリフと他の人間との差異と、神のカリフとしての例外的なアイデンティティーを示唆する。反乱の王朝による鎮圧に関する記述もまた、スルターンが預言者の振る舞いを再生産し、共同体をジャーヒリーヤのレプリカである無秩序から解放するという点で、正当化の意図を持っている。
宮廷詩人たちの作品の中でアフマド・マンスールはマフディーであることが示唆されている。この印象は、年代記作家たちの記述を信じるなら一般民衆にも共有されていたようである。カッサールやムッラークシュのムフティーがアフマド・マンスールに捧げた作品は、後者がハディースに述べられているその世紀の革新者であることを主張している。またシャーティビーはマンスールをマフディーに擬えている。またイフラーニーが引用する一文では、マンスールによるスーダン征服は、ペストの流行や反乱、物価上昇、(スペインによる)オランの占領とともに、ファーティマ家のイマーム、マフディー到来が近いことの予兆であるとされる。スーダンの征服はウラマーから強い反対を受けた事業であり、マンスールはメシア的な主張によってこれを正当化する必要があったのではないか。一方ペストについては、イスラームではこの現象が生み出すのは「典型的な恐怖」であって、キリスト教ヨーロッパのように救世主的運動として表れることはなかった。マンスールのマフディズムへの参照はスーダン征服と関連して現れるが、その文書局の書類やフィシュターリー、イブン・アルカーディーといった年代記作家たちはマフディーという単語を用いることはなく、むしろ預言者との一体化、さらには神格化を行なっている。マンスールの大地とムハンマドの預言を相続する権利が言及され、「預言者の」という形容詞やカリフ位、イマーム位といった言葉が用いられている。そしてマンスールが、その唯一正当な政府のもとに、全てのムスリムを統治しウンマを統一する権利が強調される。逆にマンスールの支配を認めた者だけがウンマなのである。スーダン遠征の前にフィシュターリーが起草し、ボルヌーのスルターンに送られた書簡は、アフマド・マンスールこそが預言者と預言の後継者であり、大地を統治する権利を保持した普遍的皇帝(Empereur unversal)であり、ムスリムたちの唯一正当な政府であり、先行する政府全ての後継者にして継続者であり、その頂点であるとして、その征服を正当化している。そしてその支配下に入らない者は異端的であり、攻撃を受けるであろうと述べている。カリフ=マンスールは神から個人的に指名を受け、聖なる統治の力を持ち、神の本質に与るのである。スーダンはスンナ派の国であり、その征服はウラマーの強い反発を呼んだ。つまり、ファース征服のときと同様、君主の行動が法的な支持を受けず、正当性を得られなかった。この遠征の後各地に送った手紙の中でマンスールは、スーダンの征服が預言者の一族、ファーティマ家、アリー家のカリフによる、不信仰者に対する勝利であることを繰り返し述べている。そしてこの勝利によって、不信仰者の土地がムスリムの支配下に入ったのだと主張している。数か月後トンブクトゥで反乱がおこると、サァド朝の指揮官マフムード・ザルクーンは町のカーディーに手紙を送っている。その中で指揮官は、サァド朝の権力は神が預言者の子孫に与えたものであり、それは将来イエスの手に渡ることを述べている。ここでイエス=イーサーは、終末にマフディーがダッジャールを倒すのを助けるとされる人物であることを思い起こす必要がある。そして手紙の中で、悪魔の誘惑によるもので、棄教であり不信仰であると断言している。つまり、カリフに従う者だけが良きムスリムであり、反乱を起こせばその資格を失うのである。またこの征服の際にフィシュターリーが作った詩では、黒人の肌によって象徴される闇の消尽と、カリフの支持者と反対者の根本的対立の主題が用いられている。これは救世主的プロパガンダに典型的な二項対立である。最後に、この遠征の際に捕虜としてモロッコへ連行された法学者アフマド・バーバーとの会見において、アフマド・マンスールはカーテンの奥に隠れていた。アフマド・バーバーが見抜いたように、マンスールは預言者の模倣から神の模倣へと移行していたのである。
著者の結論は以下の3点にまとめられる。
アフマド・マンスールのマフディズムの主張は、その人格の強力な神格化から発したものである。そしてイスラーム共同体の王朝の正当性と唯一の指導を再構成し、単一の共同体に対する君主権を確立することが、王朝固有の正当性の条件となった。この中世イスラームの伝統である正当化の議論は、マグリブでは明らかに救世主的な含意を含んだ言語によって具体化し、カリフの地位の主張と密接に結びついた。
アフマド・マンスールの権力を正当化する言説はマフディーという単語は用いなかったものの、マフディズムを明確に想起させる。ただしマフディーが「魔術的」な人格であるのに対して、マンスールの言説は彼を「宗教的」モデルの内部に位置づけており、これは12世紀以降のマグリブで有効だった王朝創始者たちの言説とは非常に異なっている。
サァド朝のもとでシャリーフィズム、マフディズム、スーフィズムの3つの要素が結合し、その結果として新しい非常に固有の何か(政治制度?)が生み出された。
この論文は、サァド朝によるマフディー像の利用を、王朝の創始者であるムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンと最盛期の君主であるアフマド・マンスールを中心に分析する。マフディーの名における権力樹立の試みはマグリブでは繰り返し見られたが、統治者がその象徴と宣伝を利用するのは珍しく、この点でマンスールの事例は特殊である。以下の議論ではそれぞれの象徴と宣伝の手段を分析し、マフディー像がどのような言葉で表明されてきたかを見る。そして王朝創始の偉業とその継続の試みの間で見られる矛盾の解決を試みる。マフディー像は単に象徴としてだけでなく権力の象徴体系としても言及される。
著者はまず、統治者や王が神といくつかの特徴を共有しているという問題に触れ、『王の二つの身体』や『王の奇跡』といった著作に言及する。またドルス(M. Dols)は預言者の奇跡治療者としての力について研究しているし、ドゥッテ(E. Doutté)は聖者と魔術師の力が全く同一で区別が困難であることを指摘している。そして王権が魔術的な起源をもつという概念や、あらゆる君主権に内在する神聖性という概念はよく知られており古典的でさえある。要約するなら、「国家は確立して以降永続性の意志であり、超越性の追求であり、あらゆる超越性と同様に必然的に神聖性で形作られている。人々はこの神聖性を権力を保持する者たちを介して表現しようとした。」この(聖なる王権という)問題について、アフリカでは人類学者が、ヨーロッパでは歴史研究者が関心を持ってきたが、両者の関係は乏しく重なり合うことが少なかった。ギアツ(Cl. Geertz)、ダクリア(J. Dakhlia)、ソ(Michel Sot)らの研究が例外として挙げられる。これらは権力がそれを介して現れるような儀礼やイメージについて議論し、権力の象徴体系についての研究と権力の性質についての研究の類似を示した。マフディー像は以上の前提に基づいて研究することに適している。そして集団的表象と個人的野心の結合する代表的な事例である。「正しく導かれた者」を意味するマフディーは世界の終わりに神から遣わされる最高の支配者であり、終末の前に神の霊感によってムスリム共同体を指導する。マグリブではマフディーは宗教の再生者という固有の特徴を獲得している。そして神による統治権、神によって選ばれ導かれること、預言者の子孫であること、無謬で法に関する最高権威であることによって特徴づけられる。よってマフディーは個人的カリスマの権威を体現し、既存の規範構造と断絶する権利を保持していると同時に、「伝統的」性格の権威を与えて正統化する、家系によるカリスマの保持者でもある。マフディーはマグリブにおいては独自の共同体を創始し導こうとする戦闘的なムラービトであり、そしてスーフィズムと預言者の模範や「良き導き」といった点で密接に結びついている。両者の境界は閉ざされていないのである。人類学において聖なる現象は魔術と宗教の二極との関係から定義される。前者は個人的、後者は集団的なものである。王権にはその双方の基礎があり、魔術的権力は断絶、宗教的権力は永続で家族の崇拝に根付いており、王朝的である。神聖な血統によって獲得された資格が権力を与える。「魔術的」な王は勝者の王であり、力のある王である。「宗教的」な王は王朝的な王である。宗教的な水準での伝統と儀礼は王権の連続性を強調し、君主を先祖の世界と繋ぐ結びつきの価値を強調する。サァド朝のマフディーはこの前提を考察し直すうえでの興味深い事例である。
サァド家のシャリーフの一族は8/14世紀ヒジャーズ地方からマグリブに移住したとされる。この逸話は、長期間のナツメヤシ栽培の不振に不安を覚えたダルア地方の住民が、預言者の子孫が持つバラカの魔術的な力を期待したと伝えている。同様の話はアラウィー朝の先祖にも知られており、聖なる家系と結びついた東方の起源は魔術的な性質を獲得していた。王朝初代のムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは15世紀末に活動を開始し、法学者として知られていたが、同時に魔術を行なっていたとされる。また彼は戦闘的なムラービトとして活動し、東方への巡礼中も含めて各地で悪を禁じ善を命じていた。この種の逸話はムワッヒド朝マフディー=イブン・トゥーマルトにも見られ、マグリブの歴史における回帰的な要素である。またその2人の息子については、将来人々の指導者になることを予言する夢や魔術的な印が伝えられている。彼はこの種の主張を繰り返し、マフディーと称されていた。そして915/1510年バイアを受けると、マフディズム的な響きを持つ「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」を名乗った。またサァド朝の政治運動とジャズーリー教団は協力関係にあったことが知られている。その開祖ジャズーリーは支持者の一部からマフディーとみなされていたし、その発言にもシャリーフという血統の高貴さを強調するもの、そして預言者の言葉を借りて自身がマフディーであることを宣言するものが見られる。ムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは、ジャズーリーが結びついていたスース地方のマフディズムの伝統を意識的に利用したのである。そして彼の宣伝の中では、その2人の息子も魔術的な記号を付与されている。その後彼は息子たちをファースに送り、教育を受けさせている。聖性の正当化には、ファースのウラマーの系譜に連なることもまた必要とされたのである。またジャンナ―ビーによれば、1513年頃サァド朝の支持者たちはアフマド・アァラジュのことをファーティミーと呼んでいた。ところがイフラーニーは、彼らがシャリーフの系譜に属することと、このことについてウラマーの確証を得たことに依拠して彼らが正当な統治者であることを示そうとしており、マフディズム的な要素は消えている。つまり王朝的カリスマだけが持続している。
しかしその後もサァド朝の統治者たちは、ウラマーの支持が得られない時や既存の規範を侵犯する時には、マフディー像を利用し続けた。1554年ファースを征服したムハンマド・シャィフは、墓の銘文で、古い規範を破棄し新たな規範を作りうる人物であることが示されている。そして個人的な特徴が強調されており、その先祖、つまりムハンマドの法を革新するために神が指名したという例外を除き、家系への言及は見られない。またシャリーフであることは魔術的な特徴を排除するものではない。ムハンマド・シャィフは[ママ]1524年ムッラークシュを占領し1554年までマリーン朝=ワッタース朝との戦いを続けるが、そのうち特に重要なのは1549年と1554年の2度のファース包囲戦である。そして包囲戦は既存の権力の合法性を根拠にサァド朝に抵抗した有力なウラマーの殺害を伴った。1549年の包囲戦の際ムハンマド・シャィフはファースの高名な法学者ワンシャリースィーからのバィアを取り付けようと試みたが、法学者は法的な理由がないことを理由にこれを拒んだ。ミクナースやファースの他の高名なウラマーたちもムハンマド・シャィフとの戦いを呼びかけ、殺害された。これらのウラマーにとって、権力が正当であるためにはその合法性を彼らから承認される必要があり、サァド朝の権力はこの点で不当であった。そしてムハンマド・シャィフはこの意見に対して、マフディーとして、古い規範を破棄し新しい規範を作る法の革新者として、彼の魔術的な性質と無謬性の特徴を突きつけたのではないか。伝統的な権威の基準の擁護者の支持が得られない時には、個人的カリスマだけが権威と権力の基準だったのである。
ムハンマド・シャィフの後継者であるアブド・アッラーフ・ガーリブがマフディーの名前で参照されている事例は見当たらない。むしろ彼はスーフィーのアフマド・ブン・ムーサーの証言によって、偉大な聖者、枢軸(クトゥブ)であるかのように示される。また彼は公共建築の建設者であったが、それを錬金術によって実現したと伝承は伝えている。神権統治の概念や君主の超自然的能力に関する象徴的な要素は、アフマド・マンスール・ザハビーの事例においてより顕著である。幼少期のアフマドの偉大な将来を予言する逸話は数多く、それらを紹介する中でイフラーニーは、政治権力は預言者の、さらには神の指名によって正当化されるという考えを承認しており、アフマドが行ったその神格化の宣伝活動を我がものとしているように思われる。アフマドが1578年ワーディー・アルマハーズィンの戦いで勝利してから後、諸史料は象徴的重要性を持つ逸話や典礼、豪勢さや栄光や宮廷儀礼について章を割いている。これらはカリフの壮麗化、神格化を意図した宣伝活動だった。その逸話の一つとして、ターンスィフト河畔で軍隊を前にして行った、息子ムハンマド・マームーンへの後継者指名の儀式が挙げられる。また預言者生誕祭(マウリド)やバディー宮殿建設、旅行や謁見の壮麗さが挙げられる。バディー宮殿は謁見と贅沢のためだけに用いられており、様々な象徴的な意味が込められていた。この宮殿でアフマド・マンスールによって実施されたマウリドは、その描写からは、先祖である預言者以上にカリフの名誉のために行われたように思われる。この祭りには王国の様々な社会階層の代表者たちが参加し、ヒエラルキーによって秩序付けられており、史料の記述では宮殿の様子は楽園に擬えられている。断食明けの祭ではスルターンは白馬に乗って軍隊に取り囲まれて現れ、ファーティマ朝から借りたパラソルの下で、半ば聖者、半ば戦士のように描写されている。その表現はアッバース朝のカリフのラカブを想起させるもので、偉大な過去の連続性と混入が行われている。そして寛大に贈り物を与える様子は豊富な雨の比喩で描写されており、これはハディースの、終末の前に現れて惜しみなく金品を与えるカリフの主題を想起させる。そのほか、闇夜を照らす月にカリフを対比する主題も用いられている。マンスールの旅行の壮麗さや儀礼は、預言者とその教友たちとの擬態によって王朝的・宗教的な意味を持った連続性を導入し、しかも単なる擬態だけでなく、預言者との系譜上の繋がりをも主張している。ヴェール(スィトル)の採用はファーティマ朝とアッバース朝から借りたもので、カリフと他の人間との差異と、神のカリフとしての例外的なアイデンティティーを示唆する。反乱の王朝による鎮圧に関する記述もまた、スルターンが預言者の振る舞いを再生産し、共同体をジャーヒリーヤのレプリカである無秩序から解放するという点で、正当化の意図を持っている。
宮廷詩人たちの作品の中でアフマド・マンスールはマフディーであることが示唆されている。この印象は、年代記作家たちの記述を信じるなら一般民衆にも共有されていたようである。カッサールやムッラークシュのムフティーがアフマド・マンスールに捧げた作品は、後者がハディースに述べられているその世紀の革新者であることを主張している。またシャーティビーはマンスールをマフディーに擬えている。またイフラーニーが引用する一文では、マンスールによるスーダン征服は、ペストの流行や反乱、物価上昇、(スペインによる)オランの占領とともに、ファーティマ家のイマーム、マフディー到来が近いことの予兆であるとされる。スーダンの征服はウラマーから強い反対を受けた事業であり、マンスールはメシア的な主張によってこれを正当化する必要があったのではないか。一方ペストについては、イスラームではこの現象が生み出すのは「典型的な恐怖」であって、キリスト教ヨーロッパのように救世主的運動として表れることはなかった。マンスールのマフディズムへの参照はスーダン征服と関連して現れるが、その文書局の書類やフィシュターリー、イブン・アルカーディーといった年代記作家たちはマフディーという単語を用いることはなく、むしろ預言者との一体化、さらには神格化を行なっている。マンスールの大地とムハンマドの預言を相続する権利が言及され、「預言者の」という形容詞やカリフ位、イマーム位といった言葉が用いられている。そしてマンスールが、その唯一正当な政府のもとに、全てのムスリムを統治しウンマを統一する権利が強調される。逆にマンスールの支配を認めた者だけがウンマなのである。スーダン遠征の前にフィシュターリーが起草し、ボルヌーのスルターンに送られた書簡は、アフマド・マンスールこそが預言者と預言の後継者であり、大地を統治する権利を保持した普遍的皇帝(Empereur unversal)であり、ムスリムたちの唯一正当な政府であり、先行する政府全ての後継者にして継続者であり、その頂点であるとして、その征服を正当化している。そしてその支配下に入らない者は異端的であり、攻撃を受けるであろうと述べている。カリフ=マンスールは神から個人的に指名を受け、聖なる統治の力を持ち、神の本質に与るのである。スーダンはスンナ派の国であり、その征服はウラマーの強い反発を呼んだ。つまり、ファース征服のときと同様、君主の行動が法的な支持を受けず、正当性を得られなかった。この遠征の後各地に送った手紙の中でマンスールは、スーダンの征服が預言者の一族、ファーティマ家、アリー家のカリフによる、不信仰者に対する勝利であることを繰り返し述べている。そしてこの勝利によって、不信仰者の土地がムスリムの支配下に入ったのだと主張している。数か月後トンブクトゥで反乱がおこると、サァド朝の指揮官マフムード・ザルクーンは町のカーディーに手紙を送っている。その中で指揮官は、サァド朝の権力は神が預言者の子孫に与えたものであり、それは将来イエスの手に渡ることを述べている。ここでイエス=イーサーは、終末にマフディーがダッジャールを倒すのを助けるとされる人物であることを思い起こす必要がある。そして手紙の中で、悪魔の誘惑によるもので、棄教であり不信仰であると断言している。つまり、カリフに従う者だけが良きムスリムであり、反乱を起こせばその資格を失うのである。またこの征服の際にフィシュターリーが作った詩では、黒人の肌によって象徴される闇の消尽と、カリフの支持者と反対者の根本的対立の主題が用いられている。これは救世主的プロパガンダに典型的な二項対立である。最後に、この遠征の際に捕虜としてモロッコへ連行された法学者アフマド・バーバーとの会見において、アフマド・マンスールはカーテンの奥に隠れていた。アフマド・バーバーが見抜いたように、マンスールは預言者の模倣から神の模倣へと移行していたのである。
著者の結論は以下の3点にまとめられる。
アフマド・マンスールのマフディズムの主張は、その人格の強力な神格化から発したものである。そしてイスラーム共同体の王朝の正当性と唯一の指導を再構成し、単一の共同体に対する君主権を確立することが、王朝固有の正当性の条件となった。この中世イスラームの伝統である正当化の議論は、マグリブでは明らかに救世主的な含意を含んだ言語によって具体化し、カリフの地位の主張と密接に結びついた。
アフマド・マンスールの権力を正当化する言説はマフディーという単語は用いなかったものの、マフディズムを明確に想起させる。ただしマフディーが「魔術的」な人格であるのに対して、マンスールの言説は彼を「宗教的」モデルの内部に位置づけており、これは12世紀以降のマグリブで有効だった王朝創始者たちの言説とは非常に異なっている。
サァド朝のもとでシャリーフィズム、マフディズム、スーフィズムの3つの要素が結合し、その結果として新しい非常に固有の何か(政治制度?)が生み出された。
2013年6月22日土曜日
アブド・アッラフマーン三世によるカリフの称号の採用について まとめ
マリベル・フィエロによる、アンダルスのウマイヤ朝のカリフ位主張について論じた短い論文をまとめてみました。
その主張によれば、初代カリフ=アブド・アッラフマーン3世は、カリフ位就任を正当化する要素として、なにより父祖の権利の相続であることを強調していました。そしてそれに加えて、カルマト派のカーバ神殿襲撃に象徴されるアッバース朝の弱体化もまた、重要な要素だったようです。その一方で、歴史研究において重視されているファーティマ朝カリフの登場の問題は、ウマイヤ朝のカリフを正当化するプロパガンダの中では言及されていません。
Fierro, Maribel. "Sobre la adopción del título califal por `Abd al-Rahman III". Sharq al-Andalus 6, 1989: 33-42.
アブド・アッラフマーン三世以前のアンダルスのウマイヤ朝君主は、マリクやアミール、もしくは「カリフたちの子孫」と呼ばれ、カリフの称号を採用することはなかった。王朝初代のアブド・アッラフマーン一世がカリフの称号である「信徒たちの指揮官」と呼ばれている例がイブン・ハズムによって指摘されているが、これは韻文で見られる事例であり、他の史料では確認できない。またアブド・アッラフマーン一世はアッバース朝によるウマイヤ家の虐殺を逃れてアンダルスに来たにもかかわらず、コルドバの征服後短期間ながらアッバース朝のカリフ=アブー・アルアッバース・マンスールの名前をフトバで唱えていたことも知られている。その期間は10か月という説と2年という説とあるが、その後はアッバース朝カリフへの呪詛とウマイヤ朝アミールの名前の言及に置き換わっている。このようにカリフ制の問題に関するアブド・アッラフマーン一世の政策は一貫性がない。アンダルスではこれ以前にもユースフ・フィフリーがアッバース朝の宗主権を認めていたし、このアンダルス最後の総督に対する反乱もまた、アッバース朝の名において行われた。ウマイヤ朝成立後の763年、776年にもアッバース朝によるアンダルス支配を意図した反乱が起きているが、その失敗はアンダルス征服の困難さをアッバース朝に理解させることになった。その後も3世紀終わりのの第一次内乱期には、多くの人々がアッバース朝カリフの名前をミンバル上で唱えたほか、ウマル・ブン・ハフスーンのようにファーティマ朝カリフの名前が唱えられる例も見られた。アブド・アッラフマーン一世がアンダルス支配の正当性を主張するためには、3つの手段があった。
第1はアッバース朝のカリフ位を認めることだが、これは最初採用された後放棄され、再度行なわれることはなかったと考えられる。
第2は自らカリフ位を称することであるが、諸史料はこの可能性に否定的である。それは当時カリフ位の資格が両聖地の領有と結びついていたからだと推測される。ただしアブド・アッラフマーン一世による東方でのウマイヤ朝再興の計画は、彼が先祖の地位の回復を断念していなかったことを示している。
第3はカリフ位の問題を保留するという手段で、これが実際に選択された。その結果として理論的には異常事態となったが、実践的な問題は生じなかったし、それを理論的に正当化する必要が感じられていた証拠もない。こうしてアンダルスのウマイヤ朝は、アッバース家をウマイヤ家の正統なカリフ位の簒奪者と位置付けてその宗主権を否認したが、彼らの先人たちの遺産、特に両聖地再征服が実現できない以上、カリフの称号の採用は無意味なものとして先送りされた。
316年アブド・アッラフマーン3世はカリフを称し、「信徒たちの指揮官」の称号を採用する。その理由をレヴィ・プロヴァンサルは2つ挙げる。
第1に、アンダルスでのハフスーン家らの反乱を鎮圧し、またボバストロの要塞を征服したことで、君主権が十分確立したと感じられたこと。このことには彼がアブド・アッラフマーンという初代と同じ名前であったことも強調される。
第2に、297年イフリーキヤでカリフを称したファーティマ朝に抵抗するため。この対抗カリフ制の創設によって、アンダルスのウマイヤ朝にもカリフ位を称する可能性が生まれた。
ただし、アラビア語の史料は後者の要素については言及しておらず、むしろアッバース朝の衰退と関連付けている。これは、同じスンナ派のアッバース朝と違い、シーア派のファーティマ朝のカリフ登場とウマイヤ朝のそれとを結びつけても、その結果として後者のカリフ位が正当性を得ることはないからだと考えられる。また、ウマイヤ朝がカリフを称するに至った過程については知られておらず、誰がこれを着想したのか、それに対する法学者たちの反応がいかなるものだったのかも記されていない。そしてカリフ位の正当化も、その採用とともに始まったと考えられる。
イブン・ハズムは、ウマイヤ朝のカリフ位について2点情報を提供している。まず彼は、アブド・アッラフマーン3世によるアミールからカリフへの移行を、シューラーの指名によるものに分類している。これはそのカリフ位就任が、先代からの後継者指名によるものにも、実力行使によるものにも分類できないためである。しかしこのシューラーの実体は不明であり、後世の法学者による後付の正当化であると考えられる。アブド・アッラフマーン3世自身は、相続権の主張で十分これを正当化できると考えていたと推測される。アブド・アッラフマーン1世がアミールを称したように、3世はカリフを称したのである。
もう1つの情報はラカブ(尊称)に関する情報である。アブド・アッラフマーン3世は「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」というラカブのほか、「カーイム・ビッラーフ」というラカブを用いている。この後者はファーティマ朝2代カリフ=マフディーによって採用された「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」と類似している。またカーイムという言葉は一般にマフディーを指し、イスマーイール派的な含意を強く持つ。アブド・アッラフマーン3世によるこのラカブの採用には、ファーティマ朝のプロパガンダに対向する意図があったと考えられる。彼が北アフリカの同盟者に送った書簡の中には、「カーイム・ビ・アルハック・ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」を自称しているものがある。
またイスラームでは、世紀の交替はムジャッディド(革新者)の登場を伴うという考えがある。アブド・アッラフマーン3世はこれを利用していたと考えられ、彼が消滅の間際にあったスンナ(慣行)を革新することを謳っている書簡がある。
その主張によれば、初代カリフ=アブド・アッラフマーン3世は、カリフ位就任を正当化する要素として、なにより父祖の権利の相続であることを強調していました。そしてそれに加えて、カルマト派のカーバ神殿襲撃に象徴されるアッバース朝の弱体化もまた、重要な要素だったようです。その一方で、歴史研究において重視されているファーティマ朝カリフの登場の問題は、ウマイヤ朝のカリフを正当化するプロパガンダの中では言及されていません。
Fierro, Maribel. "Sobre la adopción del título califal por `Abd al-Rahman III". Sharq al-Andalus 6, 1989: 33-42.
アブド・アッラフマーン三世以前のアンダルスのウマイヤ朝君主は、マリクやアミール、もしくは「カリフたちの子孫」と呼ばれ、カリフの称号を採用することはなかった。王朝初代のアブド・アッラフマーン一世がカリフの称号である「信徒たちの指揮官」と呼ばれている例がイブン・ハズムによって指摘されているが、これは韻文で見られる事例であり、他の史料では確認できない。またアブド・アッラフマーン一世はアッバース朝によるウマイヤ家の虐殺を逃れてアンダルスに来たにもかかわらず、コルドバの征服後短期間ながらアッバース朝のカリフ=アブー・アルアッバース・マンスールの名前をフトバで唱えていたことも知られている。その期間は10か月という説と2年という説とあるが、その後はアッバース朝カリフへの呪詛とウマイヤ朝アミールの名前の言及に置き換わっている。このようにカリフ制の問題に関するアブド・アッラフマーン一世の政策は一貫性がない。アンダルスではこれ以前にもユースフ・フィフリーがアッバース朝の宗主権を認めていたし、このアンダルス最後の総督に対する反乱もまた、アッバース朝の名において行われた。ウマイヤ朝成立後の763年、776年にもアッバース朝によるアンダルス支配を意図した反乱が起きているが、その失敗はアンダルス征服の困難さをアッバース朝に理解させることになった。その後も3世紀終わりのの第一次内乱期には、多くの人々がアッバース朝カリフの名前をミンバル上で唱えたほか、ウマル・ブン・ハフスーンのようにファーティマ朝カリフの名前が唱えられる例も見られた。アブド・アッラフマーン一世がアンダルス支配の正当性を主張するためには、3つの手段があった。
第1はアッバース朝のカリフ位を認めることだが、これは最初採用された後放棄され、再度行なわれることはなかったと考えられる。
第2は自らカリフ位を称することであるが、諸史料はこの可能性に否定的である。それは当時カリフ位の資格が両聖地の領有と結びついていたからだと推測される。ただしアブド・アッラフマーン一世による東方でのウマイヤ朝再興の計画は、彼が先祖の地位の回復を断念していなかったことを示している。
第3はカリフ位の問題を保留するという手段で、これが実際に選択された。その結果として理論的には異常事態となったが、実践的な問題は生じなかったし、それを理論的に正当化する必要が感じられていた証拠もない。こうしてアンダルスのウマイヤ朝は、アッバース家をウマイヤ家の正統なカリフ位の簒奪者と位置付けてその宗主権を否認したが、彼らの先人たちの遺産、特に両聖地再征服が実現できない以上、カリフの称号の採用は無意味なものとして先送りされた。
316年アブド・アッラフマーン3世はカリフを称し、「信徒たちの指揮官」の称号を採用する。その理由をレヴィ・プロヴァンサルは2つ挙げる。
第1に、アンダルスでのハフスーン家らの反乱を鎮圧し、またボバストロの要塞を征服したことで、君主権が十分確立したと感じられたこと。このことには彼がアブド・アッラフマーンという初代と同じ名前であったことも強調される。
第2に、297年イフリーキヤでカリフを称したファーティマ朝に抵抗するため。この対抗カリフ制の創設によって、アンダルスのウマイヤ朝にもカリフ位を称する可能性が生まれた。
ただし、アラビア語の史料は後者の要素については言及しておらず、むしろアッバース朝の衰退と関連付けている。これは、同じスンナ派のアッバース朝と違い、シーア派のファーティマ朝のカリフ登場とウマイヤ朝のそれとを結びつけても、その結果として後者のカリフ位が正当性を得ることはないからだと考えられる。また、ウマイヤ朝がカリフを称するに至った過程については知られておらず、誰がこれを着想したのか、それに対する法学者たちの反応がいかなるものだったのかも記されていない。そしてカリフ位の正当化も、その採用とともに始まったと考えられる。
イブン・ハズムは、ウマイヤ朝のカリフ位について2点情報を提供している。まず彼は、アブド・アッラフマーン3世によるアミールからカリフへの移行を、シューラーの指名によるものに分類している。これはそのカリフ位就任が、先代からの後継者指名によるものにも、実力行使によるものにも分類できないためである。しかしこのシューラーの実体は不明であり、後世の法学者による後付の正当化であると考えられる。アブド・アッラフマーン3世自身は、相続権の主張で十分これを正当化できると考えていたと推測される。アブド・アッラフマーン1世がアミールを称したように、3世はカリフを称したのである。
もう1つの情報はラカブ(尊称)に関する情報である。アブド・アッラフマーン3世は「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」というラカブのほか、「カーイム・ビッラーフ」というラカブを用いている。この後者はファーティマ朝2代カリフ=マフディーによって採用された「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」と類似している。またカーイムという言葉は一般にマフディーを指し、イスマーイール派的な含意を強く持つ。アブド・アッラフマーン3世によるこのラカブの採用には、ファーティマ朝のプロパガンダに対向する意図があったと考えられる。彼が北アフリカの同盟者に送った書簡の中には、「カーイム・ビ・アルハック・ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」を自称しているものがある。
またイスラームでは、世紀の交替はムジャッディド(革新者)の登場を伴うという考えがある。アブド・アッラフマーン3世はこれを利用していたと考えられ、彼が消滅の間際にあったスンナ(慣行)を革新することを謳っている書簡がある。
ナースィルによるカリフ位就任の決断はアッバース朝の衰退と結びつけて理解されていた。この正当化は、その翌年317年のカルマト派によるマッカ襲撃によって、一層力を持つことになった。ウマイヤ朝カリフはこの醜聞を自らの北アフリカに対するプロパガンダに利用する。そして319年に戦略的要衝であるセウタを征服し、北アフリカで拡大政策を推し進めていく。そしてこの地方の同盟者たちと書簡を交換し、その中でファーティマ朝に対向するプロパガンダを行なっている。例えば11世紀の年代記『ムクタバス』に収録されたある書簡の中では、沿岸地帯のベルベル人君主たちに対して、東方イスラーム世界の征服と先祖たちの遺産の回復を目指す計画を明かす。この再征服は、衰退し防衛能力を失ったアッバース朝から両聖地を取り戻すことを含意し、カリフの地位正当化の形式だったのである。この先祖の権利と遺産の回復、信仰の再生、異端の滅亡、マッカの保護という要素は、書簡の中で繰り返し強調される。
『ムクタバス』の著者イブン・ハィヤーンは、ナースィルがムーサー・ブン・アルアーフィヤに宛てた書簡についてコメントし、東方の支配権の主張や聖地の侵犯の問題について、政治的有用性のために、繰り返し言及されていることを指摘している。この手紙の中でナースィルは、カルマト派によるマッカの神殿への襲撃と巡礼者たちの殺害を空前絶後の出来事として取り上げ、その古の館を保護し名誉を与えることを神への捧げ物にしたと述べる。また、父祖であるカリフたちの王国という権利の主張と遺産の回復、王朝の再興、先人たちの偉業の革新、宗教の再生、正義の完全な行使と異端の消滅といった事柄を謳っている。そして、東方はナースィルの先人たちの遺産であり、北アフリカのベルベル人たちの改宗はこの先人たちによってなされたことが指摘される。
ウマイヤ朝のカリフ位を正当化する主要なプロパガンダは以下のようになる。
ダマスクスのウマイヤ朝はカリフ位の正当な権利者であり、アンダルスのウマイヤ朝はその相続者である。そしてイスマーイール派の脅威と、簒奪者でマッカの涜神を防ぎ得ないほどのアッバース朝の弱体化のために、「カーイム・ビ・アッラーフ/アルハック」であり「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」であるアブド・アッラフマーン3世による、スンナ派イスラームの革新と防衛が必要となっている。
2013年6月21日金曜日
モハメド・カブリー(2005)まとめ 結論
Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.
結論(23)
カブリーは、IIIで検討してきたマフザンの儀礼の発展についての手がかりが、個別の指標として、資料体として意味することは何かを問い、以下の3点を挙げる。
・絶対的で半ば独占的に個人に属する、同一の権力の象徴体系を参照している
・特異な記号なり横断的な振る舞いなりを構成しているが、いずれも描写的な価値しか持たない
・君主について受容されているイメージと実際のステータスを同時に把握しようとする
君主のイメージとステータスは、絶対的で無制約なものと同化(≒神権的な性質の付与?)し、マフザンのバージョンによって、アミール、イマーム、カリフ、スルターンといった人々によって人格化される。君主がこのような様態で神権的な性質を帯びることは、権力の悲劇的な性格を証明している。なぜなら、この権力のシステムにおいて、君主は、神権的な正統性に依拠し、秩序と信仰とアサビーヤの名のもとに、決定権の独占を承認される。しかし、このアサビーヤという要素が、マフザンがもともと部族同盟であり、それは闇取引や均衡計画をもたらす隠れた対立を、常にはらんだものであることを明らかにする。この結果、一見堅固な一枚板に見える君主のステータスは、神権的な正統性を帯びた絶対的な決定権保持者であると同時に、共同支配者たちの前に現れて結束を確認する必要のある、部族同盟の一員でもあるという矛盾をはらむのである。
カブリーによれば、君主はマフザンのシステムの制約に従うことを余儀なくされる。そしてこの制約は、部族同盟的な性格が支配的な神権政治の一環として書き込まれた、管理の様式に起因しており、暗黙のうちではあるが、常に存在している。そして君主は、専制君主的な侵犯の余地を確保するため、これらの制約を超えた存在であるように見える必要があるという。このことをカブリーは、ミラーゲームと呼んでいるが、その明確な意味は不明である。ただ、儀礼によって強調される専制君主的な外見を維持しながらも、中世の特にマリーン朝のマフザンが、その時々の状況に応じて同盟者を選択したことを意識しているのであろう。そしてマフザンのシステムは、この共同支配者にも隷属する社会に対しても、現実主義と厳格さの双方を発揮していた。それゆえに、回帰的なデータが重要性を獲得し、教説的な特徴、政治的実践、儀礼的な性格をもった伝統といった形で伝播されていく。全体として、このシステムは、政治-宗教的二極性をもったものから、その逆の統一的なものに変化していき、「中世」の終わりには、比較的折衷的なアプローチを取るようになった。
最後まで論理がよく把握できないが、おそらく次のようなことが言いたいのだと思われる。
マフザンの儀礼の発達は、君主個人に神権的な外観を与えたが、マフザンから部族同盟的な性質を抽象することには成功しなかった。そのため君主は、その部族同盟の一員としての立場と、絶対的な専制君主としての立場との矛盾を抱えることになる。これは、マフザンの権力の持つ悲劇的な特徴ではあるが、しかしこの矛盾から生ずる制約ゆえに、マフザンは、同盟を結ぶ共同支配者を注意深く選択したのであり、政治と宗教において独占的で排外的なものから、次第に統合的で折衷的なものへと変化していった。
ただし、この変化はムワッヒド朝からマリーン朝にかけては妥当かも知れないが、ムラービト朝のマフザンの位置づけが困難になるように思う。
なお、「教説的な特徴、政治的実践、儀礼的な性格をもった伝統といった形で伝播」というくだりについてはやはりよく分らない。
結論(23)
カブリーは、IIIで検討してきたマフザンの儀礼の発展についての手がかりが、個別の指標として、資料体として意味することは何かを問い、以下の3点を挙げる。
・絶対的で半ば独占的に個人に属する、同一の権力の象徴体系を参照している
・特異な記号なり横断的な振る舞いなりを構成しているが、いずれも描写的な価値しか持たない
・君主について受容されているイメージと実際のステータスを同時に把握しようとする
君主のイメージとステータスは、絶対的で無制約なものと同化(≒神権的な性質の付与?)し、マフザンのバージョンによって、アミール、イマーム、カリフ、スルターンといった人々によって人格化される。君主がこのような様態で神権的な性質を帯びることは、権力の悲劇的な性格を証明している。なぜなら、この権力のシステムにおいて、君主は、神権的な正統性に依拠し、秩序と信仰とアサビーヤの名のもとに、決定権の独占を承認される。しかし、このアサビーヤという要素が、マフザンがもともと部族同盟であり、それは闇取引や均衡計画をもたらす隠れた対立を、常にはらんだものであることを明らかにする。この結果、一見堅固な一枚板に見える君主のステータスは、神権的な正統性を帯びた絶対的な決定権保持者であると同時に、共同支配者たちの前に現れて結束を確認する必要のある、部族同盟の一員でもあるという矛盾をはらむのである。
カブリーによれば、君主はマフザンのシステムの制約に従うことを余儀なくされる。そしてこの制約は、部族同盟的な性格が支配的な神権政治の一環として書き込まれた、管理の様式に起因しており、暗黙のうちではあるが、常に存在している。そして君主は、専制君主的な侵犯の余地を確保するため、これらの制約を超えた存在であるように見える必要があるという。このことをカブリーは、ミラーゲームと呼んでいるが、その明確な意味は不明である。ただ、儀礼によって強調される専制君主的な外見を維持しながらも、中世の特にマリーン朝のマフザンが、その時々の状況に応じて同盟者を選択したことを意識しているのであろう。そしてマフザンのシステムは、この共同支配者にも隷属する社会に対しても、現実主義と厳格さの双方を発揮していた。それゆえに、回帰的なデータが重要性を獲得し、教説的な特徴、政治的実践、儀礼的な性格をもった伝統といった形で伝播されていく。全体として、このシステムは、政治-宗教的二極性をもったものから、その逆の統一的なものに変化していき、「中世」の終わりには、比較的折衷的なアプローチを取るようになった。
最後まで論理がよく把握できないが、おそらく次のようなことが言いたいのだと思われる。
マフザンの儀礼の発達は、君主個人に神権的な外観を与えたが、マフザンから部族同盟的な性質を抽象することには成功しなかった。そのため君主は、その部族同盟の一員としての立場と、絶対的な専制君主としての立場との矛盾を抱えることになる。これは、マフザンの権力の持つ悲劇的な特徴ではあるが、しかしこの矛盾から生ずる制約ゆえに、マフザンは、同盟を結ぶ共同支配者を注意深く選択したのであり、政治と宗教において独占的で排外的なものから、次第に統合的で折衷的なものへと変化していった。
ただし、この変化はムワッヒド朝からマリーン朝にかけては妥当かも知れないが、ムラービト朝のマフザンの位置づけが困難になるように思う。
なお、「教説的な特徴、政治的実践、儀礼的な性格をもった伝統といった形で伝播」というくだりについてはやはりよく分らない。
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