2016年6月26日日曜日

近世初頭モロッコの知的環境について

(別の個所でつぶやいた話をもとに、こそっと更新してみる)

17世紀前半モロッコの学問的状況を調べていたら、1649年にフランス人P. Danが出版した『バルバリアの歴史』に、当時のフェズにおける数学や医学教育に関する短い記述が見つかった。
〔法学者やクルアーン注釈学者のほかにも〕そこには小規模な学校を持っている師匠たちがおり、そこで数学や医学を教えている者も幾人かいる。ただし非常に晦渋で、キリスト教徒の学校におけるこれらの学問とも、そこで行われている教育方法とも、全く関係がない。
... outre quelques autres maistres qui y tiennet les petites Escholes, & quelques-uns qui y enseignent les Sciences de Mathematique & de Medecine, quoy que d'une maniere assez obscure, & qui ne tient rien de ces scicnces & de la maniere de les enseigner qui est pratiquée dans les escholes des Chrestiens.
Dan, Pierre. 1649. Histoire de Barbarie et de ses corsaires de royaumes, et des villes d'Alger, de Tunis, de Salé, & de Tripoly: Paris: Pierr Rocolet, p. 249.

この作品は、1637年に初版が出版されており、BNFのGallicaにはそちらがアップロードされている。今回はarchive.orgにアップロードされた1649年版を参照した。
なお、この一文を発見したのは、Jacques BerqueのL'intérieur du Maghreb(p. 147, n. 3)によるもので、Berqueは1649年版を参照している。

この作品は、特に16世紀以降相当数ある、ヨーロッパ人捕虜やその解放交渉人によって執筆された北アフリカ事情の報告書であり、著者がフェズのマドラサで行われていた教育についてどの程度正確な情報を得ていたかという点において、一旦留保する必要があるとおもう。

とはいえ、その前後に記載された詳細な情報の正確さや、この時期以降のモロッコにおける非実学的な学問の衰退を考えると、17世紀前半の全般的な混乱からアラウィー朝成立までの時期が一つの重要な分岐点であったのかなあと、厳密な検証は難しいながら思う次第。
前述の個所で著者は続けて曰く、
今日この町は、その学校においても交易においても、もはやかつてほど栄えていないし、高名でもない。この国を苛んだ戦争のためである。
Cette Ville aujourd'huy n'a plus tant de vogue, & n'est plus si fameuse, tant en ses escholes, qu'en son trafficq, comme elle a esté, à cause des Guerres qui ont travaillé ce pays.
北アフリカ地域の衰退の起源をどこに位置付けるかは、地域的にも分野的にも多様であり難しい問題だが、モロッコ地域の知的環境に関して、段階的に考えてみる。

まず15世紀以降の世界的な交易網の変動の中で、モロッコ地域はサブサハラ地域と西欧地域との交易の結節点としての重要性を喪失していく。

この傾向に対して、16世紀中葉に成立した中央集権的な国家(サアド朝)は、一方ではサハラ砂漠を介した交易路、他方では大西洋航路の支配強化を試みていくが、これは16世紀末から17世紀初頭の社会・経済的危機を背景とする政治的混乱の中で破たんしていく。

そして、地域内外の交易活動の拠点として発達してきた、フェズを代表とする大都市の経済活動の停滞は、その知的活動の環境を悪化させ、法学関連の実学を除く諸学問の停滞を引き起こした…

みたいなことは言えるのかしらん。