2013年6月26日水曜日

サァド朝とマフディズム まとめ

Mercedes García-Arenal. "Mahdisme et dynastie sa`dienn". Mahdisme: Crise et changement dans l'histoire du Maroc. Ed. Abdelmajid Kaddouri. Casablanca: Najah El Jadida, 1994.

 この論文は、サァド朝によるマフディー像の利用を、王朝の創始者であるムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンと最盛期の君主であるアフマド・マンスールを中心に分析する。マフディーの名における権力樹立の試みはマグリブでは繰り返し見られたが、統治者がその象徴と宣伝を利用するのは珍しく、この点でマンスールの事例は特殊である。以下の議論ではそれぞれの象徴と宣伝の手段を分析し、マフディー像がどのような言葉で表明されてきたかを見る。そして王朝創始の偉業とその継続の試みの間で見られる矛盾の解決を試みる。マフディー像は単に象徴としてだけでなく権力の象徴体系としても言及される。

 著者はまず、統治者や王が神といくつかの特徴を共有しているという問題に触れ、『王の二つの身体』や『王の奇跡』といった著作に言及する。またドルス(M. Dols)は預言者の奇跡治療者としての力について研究しているし、ドゥッテ(E. Doutté)は聖者と魔術師の力が全く同一で区別が困難であることを指摘している。そして王権が魔術的な起源をもつという概念や、あらゆる君主権に内在する神聖性という概念はよく知られており古典的でさえある。要約するなら、「国家は確立して以降永続性の意志であり、超越性の追求であり、あらゆる超越性と同様に必然的に神聖性で形作られている。人々はこの神聖性を権力を保持する者たちを介して表現しようとした。」この(聖なる王権という)問題について、アフリカでは人類学者が、ヨーロッパでは歴史研究者が関心を持ってきたが、両者の関係は乏しく重なり合うことが少なかった。ギアツ(Cl. Geertz)、ダクリア(J. Dakhlia)、ソ(Michel Sot)らの研究が例外として挙げられる。これらは権力がそれを介して現れるような儀礼やイメージについて議論し、権力の象徴体系についての研究と権力の性質についての研究の類似を示した。マフディー像は以上の前提に基づいて研究することに適している。そして集団的表象と個人的野心の結合する代表的な事例である。「正しく導かれた者」を意味するマフディーは世界の終わりに神から遣わされる最高の支配者であり、終末の前に神の霊感によってムスリム共同体を指導する。マグリブではマフディーは宗教の再生者という固有の特徴を獲得している。そして神による統治権、神によって選ばれ導かれること、預言者の子孫であること、無謬で法に関する最高権威であることによって特徴づけられる。よってマフディーは個人的カリスマの権威を体現し、既存の規範構造と断絶する権利を保持していると同時に、「伝統的」性格の権威を与えて正統化する、家系によるカリスマの保持者でもある。マフディーはマグリブにおいては独自の共同体を創始し導こうとする戦闘的なムラービトであり、そしてスーフィズムと預言者の模範や「良き導き」といった点で密接に結びついている。両者の境界は閉ざされていないのである。人類学において聖なる現象は魔術と宗教の二極との関係から定義される。前者は個人的、後者は集団的なものである。王権にはその双方の基礎があり、魔術的権力は断絶、宗教的権力は永続で家族の崇拝に根付いており、王朝的である。神聖な血統によって獲得された資格が権力を与える。「魔術的」な王は勝者の王であり、力のある王である。「宗教的」な王は王朝的な王である。宗教的な水準での伝統と儀礼は王権の連続性を強調し、君主を先祖の世界と繋ぐ結びつきの価値を強調する。サァド朝のマフディーはこの前提を考察し直すうえでの興味深い事例である。

 サァド家のシャリーフの一族は8/14世紀ヒジャーズ地方からマグリブに移住したとされる。この逸話は、長期間のナツメヤシ栽培の不振に不安を覚えたダルア地方の住民が、預言者の子孫が持つバラカの魔術的な力を期待したと伝えている。同様の話はアラウィー朝の先祖にも知られており、聖なる家系と結びついた東方の起源は魔術的な性質を獲得していた。王朝初代のムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは15世紀末に活動を開始し、法学者として知られていたが、同時に魔術を行なっていたとされる。また彼は戦闘的なムラービトとして活動し、東方への巡礼中も含めて各地で悪を禁じ善を命じていた。この種の逸話はムワッヒド朝マフディー=イブン・トゥーマルトにも見られ、マグリブの歴史における回帰的な要素である。またその2人の息子については、将来人々の指導者になることを予言する夢や魔術的な印が伝えられている。彼はこの種の主張を繰り返し、マフディーと称されていた。そして915/1510年バイアを受けると、マフディズム的な響きを持つ「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」を名乗った。またサァド朝の政治運動とジャズーリー教団は協力関係にあったことが知られている。その開祖ジャズーリーは支持者の一部からマフディーとみなされていたし、その発言にもシャリーフという血統の高貴さを強調するもの、そして預言者の言葉を借りて自身がマフディーであることを宣言するものが見られる。ムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは、ジャズーリーが結びついていたスース地方のマフディズムの伝統を意識的に利用したのである。そして彼の宣伝の中では、その2人の息子も魔術的な記号を付与されている。その後彼は息子たちをファースに送り、教育を受けさせている。聖性の正当化には、ファースのウラマーの系譜に連なることもまた必要とされたのである。またジャンナ―ビーによれば、1513年頃サァド朝の支持者たちはアフマド・アァラジュのことをファーティミーと呼んでいた。ところがイフラーニーは、彼らがシャリーフの系譜に属することと、このことについてウラマーの確証を得たことに依拠して彼らが正当な統治者であることを示そうとしており、マフディズム的な要素は消えている。つまり王朝的カリスマだけが持続している。
 しかしその後もサァド朝の統治者たちは、ウラマーの支持が得られない時や既存の規範を侵犯する時には、マフディー像を利用し続けた。1554年ファースを征服したムハンマド・シャィフは、墓の銘文で、古い規範を破棄し新たな規範を作りうる人物であることが示されている。そして個人的な特徴が強調されており、その先祖、つまりムハンマドの法を革新するために神が指名したという例外を除き、家系への言及は見られない。またシャリーフであることは魔術的な特徴を排除するものではない。ムハンマド・シャィフは[ママ]1524年ムッラークシュを占領し1554年までマリーン朝=ワッタース朝との戦いを続けるが、そのうち特に重要なのは1549年と1554年の2度のファース包囲戦である。そして包囲戦は既存の権力の合法性を根拠にサァド朝に抵抗した有力なウラマーの殺害を伴った。1549年の包囲戦の際ムハンマド・シャィフはファースの高名な法学者ワンシャリースィーからのバィアを取り付けようと試みたが、法学者は法的な理由がないことを理由にこれを拒んだ。ミクナースやファースの他の高名なウラマーたちもムハンマド・シャィフとの戦いを呼びかけ、殺害された。これらのウラマーにとって、権力が正当であるためにはその合法性を彼らから承認される必要があり、サァド朝の権力はこの点で不当であった。そしてムハンマド・シャィフはこの意見に対して、マフディーとして、古い規範を破棄し新しい規範を作る法の革新者として、彼の魔術的な性質と無謬性の特徴を突きつけたのではないか。伝統的な権威の基準の擁護者の支持が得られない時には、個人的カリスマだけが権威と権力の基準だったのである。

 ムハンマド・シャィフの後継者であるアブド・アッラーフ・ガーリブがマフディーの名前で参照されている事例は見当たらない。むしろ彼はスーフィーのアフマド・ブン・ムーサーの証言によって、偉大な聖者、枢軸(クトゥブ)であるかのように示される。また彼は公共建築の建設者であったが、それを錬金術によって実現したと伝承は伝えている。神権統治の概念や君主の超自然的能力に関する象徴的な要素は、アフマド・マンスール・ザハビーの事例においてより顕著である。幼少期のアフマドの偉大な将来を予言する逸話は数多く、それらを紹介する中でイフラーニーは、政治権力は預言者の、さらには神の指名によって正当化されるという考えを承認しており、アフマドが行ったその神格化の宣伝活動を我がものとしているように思われる。アフマドが1578年ワーディー・アルマハーズィンの戦いで勝利してから後、諸史料は象徴的重要性を持つ逸話や典礼、豪勢さや栄光や宮廷儀礼について章を割いている。これらはカリフの壮麗化、神格化を意図した宣伝活動だった。その逸話の一つとして、ターンスィフト河畔で軍隊を前にして行った、息子ムハンマド・マームーンへの後継者指名の儀式が挙げられる。また預言者生誕祭(マウリド)やバディー宮殿建設、旅行や謁見の壮麗さが挙げられる。バディー宮殿は謁見と贅沢のためだけに用いられており、様々な象徴的な意味が込められていた。この宮殿でアフマド・マンスールによって実施されたマウリドは、その描写からは、先祖である預言者以上にカリフの名誉のために行われたように思われる。この祭りには王国の様々な社会階層の代表者たちが参加し、ヒエラルキーによって秩序付けられており、史料の記述では宮殿の様子は楽園に擬えられている。断食明けの祭ではスルターンは白馬に乗って軍隊に取り囲まれて現れ、ファーティマ朝から借りたパラソルの下で、半ば聖者、半ば戦士のように描写されている。その表現はアッバース朝のカリフのラカブを想起させるもので、偉大な過去の連続性と混入が行われている。そして寛大に贈り物を与える様子は豊富な雨の比喩で描写されており、これはハディースの、終末の前に現れて惜しみなく金品を与えるカリフの主題を想起させる。そのほか、闇夜を照らす月にカリフを対比する主題も用いられている。マンスールの旅行の壮麗さや儀礼は、預言者とその教友たちとの擬態によって王朝的・宗教的な意味を持った連続性を導入し、しかも単なる擬態だけでなく、預言者との系譜上の繋がりをも主張している。ヴェール(スィトル)の採用はファーティマ朝とアッバース朝から借りたもので、カリフと他の人間との差異と、神のカリフとしての例外的なアイデンティティーを示唆する。反乱の王朝による鎮圧に関する記述もまた、スルターンが預言者の振る舞いを再生産し、共同体をジャーヒリーヤのレプリカである無秩序から解放するという点で、正当化の意図を持っている。
 宮廷詩人たちの作品の中でアフマド・マンスールはマフディーであることが示唆されている。この印象は、年代記作家たちの記述を信じるなら一般民衆にも共有されていたようである。カッサールやムッラークシュのムフティーがアフマド・マンスールに捧げた作品は、後者がハディースに述べられているその世紀の革新者であることを主張している。またシャーティビーはマンスールをマフディーに擬えている。またイフラーニーが引用する一文では、マンスールによるスーダン征服は、ペストの流行や反乱、物価上昇、(スペインによる)オランの占領とともに、ファーティマ家のイマーム、マフディー到来が近いことの予兆であるとされる。スーダンの征服はウラマーから強い反対を受けた事業であり、マンスールはメシア的な主張によってこれを正当化する必要があったのではないか。一方ペストについては、イスラームではこの現象が生み出すのは「典型的な恐怖」であって、キリスト教ヨーロッパのように救世主的運動として表れることはなかった。マンスールのマフディズムへの参照はスーダン征服と関連して現れるが、その文書局の書類やフィシュターリー、イブン・アルカーディーといった年代記作家たちはマフディーという単語を用いることはなく、むしろ預言者との一体化、さらには神格化を行なっている。マンスールの大地とムハンマドの預言を相続する権利が言及され、「預言者の」という形容詞やカリフ位、イマーム位といった言葉が用いられている。そしてマンスールが、その唯一正当な政府のもとに、全てのムスリムを統治しウンマを統一する権利が強調される。逆にマンスールの支配を認めた者だけがウンマなのである。スーダン遠征の前にフィシュターリーが起草し、ボルヌーのスルターンに送られた書簡は、アフマド・マンスールこそが預言者と預言の後継者であり、大地を統治する権利を保持した普遍的皇帝(Empereur unversal)であり、ムスリムたちの唯一正当な政府であり、先行する政府全ての後継者にして継続者であり、その頂点であるとして、その征服を正当化している。そしてその支配下に入らない者は異端的であり、攻撃を受けるであろうと述べている。カリフ=マンスールは神から個人的に指名を受け、聖なる統治の力を持ち、神の本質に与るのである。スーダンはスンナ派の国であり、その征服はウラマーの強い反発を呼んだ。つまり、ファース征服のときと同様、君主の行動が法的な支持を受けず、正当性を得られなかった。この遠征の後各地に送った手紙の中でマンスールは、スーダンの征服が預言者の一族、ファーティマ家、アリー家のカリフによる、不信仰者に対する勝利であることを繰り返し述べている。そしてこの勝利によって、不信仰者の土地がムスリムの支配下に入ったのだと主張している。数か月後トンブクトゥで反乱がおこると、サァド朝の指揮官マフムード・ザルクーンは町のカーディーに手紙を送っている。その中で指揮官は、サァド朝の権力は神が預言者の子孫に与えたものであり、それは将来イエスの手に渡ることを述べている。ここでイエス=イーサーは、終末にマフディーがダッジャールを倒すのを助けるとされる人物であることを思い起こす必要がある。そして手紙の中で、悪魔の誘惑によるもので、棄教であり不信仰であると断言している。つまり、カリフに従う者だけが良きムスリムであり、反乱を起こせばその資格を失うのである。またこの征服の際にフィシュターリーが作った詩では、黒人の肌によって象徴される闇の消尽と、カリフの支持者と反対者の根本的対立の主題が用いられている。これは救世主的プロパガンダに典型的な二項対立である。最後に、この遠征の際に捕虜としてモロッコへ連行された法学者アフマド・バーバーとの会見において、アフマド・マンスールはカーテンの奥に隠れていた。アフマド・バーバーが見抜いたように、マンスールは預言者の模倣から神の模倣へと移行していたのである。

 著者の結論は以下の3点にまとめられる。
 アフマド・マンスールのマフディズムの主張は、その人格の強力な神格化から発したものである。そしてイスラーム共同体の王朝の正当性と唯一の指導を再構成し、単一の共同体に対する君主権を確立することが、王朝固有の正当性の条件となった。この中世イスラームの伝統である正当化の議論は、マグリブでは明らかに救世主的な含意を含んだ言語によって具体化し、カリフの地位の主張と密接に結びついた。
 アフマド・マンスールの権力を正当化する言説はマフディーという単語は用いなかったものの、マフディズムを明確に想起させる。ただしマフディーが「魔術的」な人格であるのに対して、マンスールの言説は彼を「宗教的」モデルの内部に位置づけており、これは12世紀以降のマグリブで有効だった王朝創始者たちの言説とは非常に異なっている。
 サァド朝のもとでシャリーフィズム、マフディズム、スーフィズムの3つの要素が結合し、その結果として新しい非常に固有の何か(政治制度?)が生み出された。

2013年6月22日土曜日

アブド・アッラフマーン三世によるカリフの称号の採用について まとめ

マリベル・フィエロによる、アンダルスのウマイヤ朝のカリフ位主張について論じた短い論文をまとめてみました。
その主張によれば、初代カリフ=アブド・アッラフマーン3世は、カリフ位就任を正当化する要素として、なにより父祖の権利の相続であることを強調していました。そしてそれに加えて、カルマト派のカーバ神殿襲撃に象徴されるアッバース朝の弱体化もまた、重要な要素だったようです。その一方で、歴史研究において重視されているファーティマ朝カリフの登場の問題は、ウマイヤ朝のカリフを正当化するプロパガンダの中では言及されていません。

Fierro, Maribel. "Sobre la adopción del título califal por `Abd al-Rahman III". Sharq al-Andalus  6, 1989: 33-42.

 アブド・アッラフマーン三世以前のアンダルスのウマイヤ朝君主は、マリクやアミール、もしくは「カリフたちの子孫」と呼ばれ、カリフの称号を採用することはなかった。王朝初代のアブド・アッラフマーン一世がカリフの称号である「信徒たちの指揮官」と呼ばれている例がイブン・ハズムによって指摘されているが、これは韻文で見られる事例であり、他の史料では確認できない。またアブド・アッラフマーン一世はアッバース朝によるウマイヤ家の虐殺を逃れてアンダルスに来たにもかかわらず、コルドバの征服後短期間ながらアッバース朝のカリフ=アブー・アルアッバース・マンスールの名前をフトバで唱えていたことも知られている。その期間は10か月という説と2年という説とあるが、その後はアッバース朝カリフへの呪詛とウマイヤ朝アミールの名前の言及に置き換わっている。このようにカリフ制の問題に関するアブド・アッラフマーン一世の政策は一貫性がない。アンダルスではこれ以前にもユースフ・フィフリーがアッバース朝の宗主権を認めていたし、このアンダルス最後の総督に対する反乱もまた、アッバース朝の名において行われた。ウマイヤ朝成立後の763年、776年にもアッバース朝によるアンダルス支配を意図した反乱が起きているが、その失敗はアンダルス征服の困難さをアッバース朝に理解させることになった。その後も3世紀終わりのの第一次内乱期には、多くの人々がアッバース朝カリフの名前をミンバル上で唱えたほか、ウマル・ブン・ハフスーンのようにファーティマ朝カリフの名前が唱えられる例も見られた。アブド・アッラフマーン一世がアンダルス支配の正当性を主張するためには、3つの手段があった。
 第1はアッバース朝のカリフ位を認めることだが、これは最初採用された後放棄され、再度行なわれることはなかったと考えられる。
 第2は自らカリフ位を称することであるが、諸史料はこの可能性に否定的である。それは当時カリフ位の資格が両聖地の領有と結びついていたからだと推測される。ただしアブド・アッラフマーン一世による東方でのウマイヤ朝再興の計画は、彼が先祖の地位の回復を断念していなかったことを示している。
 第3はカリフ位の問題を保留するという手段で、これが実際に選択された。その結果として理論的には異常事態となったが、実践的な問題は生じなかったし、それを理論的に正当化する必要が感じられていた証拠もない。こうしてアンダルスのウマイヤ朝は、アッバース家をウマイヤ家の正統なカリフ位の簒奪者と位置付けてその宗主権を否認したが、彼らの先人たちの遺産、特に両聖地再征服が実現できない以上、カリフの称号の採用は無意味なものとして先送りされた。


 316年アブド・アッラフマーン3世はカリフを称し、「信徒たちの指揮官」の称号を採用する。その理由をレヴィ・プロヴァンサルは2つ挙げる。
 第1に、アンダルスでのハフスーン家らの反乱を鎮圧し、またボバストロの要塞を征服したことで、君主権が十分確立したと感じられたこと。このことには彼がアブド・アッラフマーンという初代と同じ名前であったことも強調される。
 第2に、297年イフリーキヤでカリフを称したファーティマ朝に抵抗するため。この対抗カリフ制の創設によって、アンダルスのウマイヤ朝にもカリフ位を称する可能性が生まれた。
 ただし、アラビア語の史料は後者の要素については言及しておらず、むしろアッバース朝の衰退と関連付けている。これは、同じスンナ派のアッバース朝と違い、シーア派のファーティマ朝のカリフ登場とウマイヤ朝のそれとを結びつけても、その結果として後者のカリフ位が正当性を得ることはないからだと考えられる。また、ウマイヤ朝がカリフを称するに至った過程については知られておらず、誰がこれを着想したのか、それに対する法学者たちの反応がいかなるものだったのかも記されていない。そしてカリフ位の正当化も、その採用とともに始まったと考えられる。
 イブン・ハズムは、ウマイヤ朝のカリフ位について2点情報を提供している。まず彼は、アブド・アッラフマーン3世によるアミールからカリフへの移行を、シューラーの指名によるものに分類している。これはそのカリフ位就任が、先代からの後継者指名によるものにも、実力行使によるものにも分類できないためである。しかしこのシューラーの実体は不明であり、後世の法学者による後付の正当化であると考えられる。アブド・アッラフマーン3世自身は、相続権の主張で十分これを正当化できると考えていたと推測される。アブド・アッラフマーン1世がアミールを称したように、3世はカリフを称したのである。
 もう1つの情報はラカブ(尊称)に関する情報である。アブド・アッラフマーン3世は「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」というラカブのほか、「カーイム・ビッラーフ」というラカブを用いている。この後者はファーティマ朝2代カリフ=マフディーによって採用された「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」と類似している。またカーイムという言葉は一般にマフディーを指し、イスマーイール派的な含意を強く持つ。アブド・アッラフマーン3世によるこのラカブの採用には、ファーティマ朝のプロパガンダに対向する意図があったと考えられる。彼が北アフリカの同盟者に送った書簡の中には、「カーイム・ビ・アルハック・ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」を自称しているものがある。
 またイスラームでは、世紀の交替はムジャッディド(革新者)の登場を伴うという考えがある。アブド・アッラフマーン3世はこれを利用していたと考えられ、彼が消滅の間際にあったスンナ(慣行)を革新することを謳っている書簡がある。

 ナースィルによるカリフ位就任の決断はアッバース朝の衰退と結びつけて理解されていた。この正当化は、その翌年317年のカルマト派によるマッカ襲撃によって、一層力を持つことになった。ウマイヤ朝カリフはこの醜聞を自らの北アフリカに対するプロパガンダに利用する。そして319年に戦略的要衝であるセウタを征服し、北アフリカで拡大政策を推し進めていく。そしてこの地方の同盟者たちと書簡を交換し、その中でファーティマ朝に対向するプロパガンダを行なっている。例えば11世紀の年代記『ムクタバス』に収録されたある書簡の中では、沿岸地帯のベルベル人君主たちに対して、東方イスラーム世界の征服と先祖たちの遺産の回復を目指す計画を明かす。この再征服は、衰退し防衛能力を失ったアッバース朝から両聖地を取り戻すことを含意し、カリフの地位正当化の形式だったのである。この先祖の権利と遺産の回復、信仰の再生、異端の滅亡、マッカの保護という要素は、書簡の中で繰り返し強調される。
 『ムクタバス』の著者イブン・ハィヤーンは、ナースィルがムーサー・ブン・アルアーフィヤに宛てた書簡についてコメントし、東方の支配権の主張や聖地の侵犯の問題について、政治的有用性のために、繰り返し言及されていることを指摘している。この手紙の中でナースィルは、カルマト派によるマッカの神殿への襲撃と巡礼者たちの殺害を空前絶後の出来事として取り上げ、その古の館を保護し名誉を与えることを神への捧げ物にしたと述べる。また、父祖であるカリフたちの王国という権利の主張と遺産の回復、王朝の再興、先人たちの偉業の革新、宗教の再生、正義の完全な行使と異端の消滅といった事柄を謳っている。そして、東方はナースィルの先人たちの遺産であり、北アフリカのベルベル人たちの改宗はこの先人たちによってなされたことが指摘される。

 ウマイヤ朝のカリフ位を正当化する主要なプロパガンダは以下のようになる。
 ダマスクスのウマイヤ朝はカリフ位の正当な権利者であり、アンダルスのウマイヤ朝はその相続者である。そしてイスマーイール派の脅威と、簒奪者でマッカの涜神を防ぎ得ないほどのアッバース朝の弱体化のために、「カーイム・ビ・アッラーフ/アルハック」であり「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」であるアブド・アッラフマーン3世による、スンナ派イスラームの革新と防衛が必要となっている。

2013年6月21日金曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ 結論

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

結論(23)

カブリーは、IIIで検討してきたマフザンの儀礼の発展についての手がかりが、個別の指標として、資料体として意味することは何かを問い、以下の3点を挙げる。
・絶対的で半ば独占的に個人に属する、同一の権力の象徴体系を参照している
・特異な記号なり横断的な振る舞いなりを構成しているが、いずれも描写的な価値しか持たない
・君主について受容されているイメージと実際のステータスを同時に把握しようとする
君主のイメージとステータスは、絶対的で無制約なものと同化(≒神権的な性質の付与?)し、マフザンのバージョンによって、アミール、イマーム、カリフ、スルターンといった人々によって人格化される。君主がこのような様態で神権的な性質を帯びることは、権力の悲劇的な性格を証明している。なぜなら、この権力のシステムにおいて、君主は、神権的な正統性に依拠し、秩序と信仰とアサビーヤの名のもとに、決定権の独占を承認される。しかし、このアサビーヤという要素が、マフザンがもともと部族同盟であり、それは闇取引や均衡計画をもたらす隠れた対立を、常にはらんだものであることを明らかにする。この結果、一見堅固な一枚板に見える君主のステータスは、神権的な正統性を帯びた絶対的な決定権保持者であると同時に、共同支配者たちの前に現れて結束を確認する必要のある、部族同盟の一員でもあるという矛盾をはらむのである。

カブリーによれば、君主はマフザンのシステムの制約に従うことを余儀なくされる。そしてこの制約は、部族同盟的な性格が支配的な神権政治の一環として書き込まれた、管理の様式に起因しており、暗黙のうちではあるが、常に存在している。そして君主は、専制君主的な侵犯の余地を確保するため、これらの制約を超えた存在であるように見える必要があるという。このことをカブリーは、ミラーゲームと呼んでいるが、その明確な意味は不明である。ただ、儀礼によって強調される専制君主的な外見を維持しながらも、中世の特にマリーン朝のマフザンが、その時々の状況に応じて同盟者を選択したことを意識しているのであろう。そしてマフザンのシステムは、この共同支配者にも隷属する社会に対しても、現実主義と厳格さの双方を発揮していた。それゆえに、回帰的なデータが重要性を獲得し、教説的な特徴、政治的実践、儀礼的な性格をもった伝統といった形で伝播されていく。全体として、このシステムは、政治-宗教的二極性をもったものから、その逆の統一的なものに変化していき、「中世」の終わりには、比較的折衷的なアプローチを取るようになった。

最後まで論理がよく把握できないが、おそらく次のようなことが言いたいのだと思われる。
マフザンの儀礼の発達は、君主個人に神権的な外観を与えたが、マフザンから部族同盟的な性質を抽象することには成功しなかった。そのため君主は、その部族同盟の一員としての立場と、絶対的な専制君主としての立場との矛盾を抱えることになる。これは、マフザンの権力の持つ悲劇的な特徴ではあるが、しかしこの矛盾から生ずる制約ゆえに、マフザンは、同盟を結ぶ共同支配者を注意深く選択したのであり、政治と宗教において独占的で排外的なものから、次第に統合的で折衷的なものへと変化していった。
ただし、この変化はムワッヒド朝からマリーン朝にかけては妥当かも知れないが、ムラービト朝のマフザンの位置づけが困難になるように思う。

なお、「教説的な特徴、政治的実践、儀礼的な性格をもった伝統といった形で伝播」というくだりについてはやはりよく分らない。

2013年6月19日水曜日

アラブの歴史における独裁…

先日ジャズィーラの「奥深く」という番組をチェックしていたところ、モロッコ留学中僅かながら面識のあった方が登場出演していてびっくりしました。

この番組、毎週あるテーマを決めて数人の有識者を呼び、時に議論、時に詳しく解説するというものなのですが、この日のテーマは「アラブの歴史における独裁と公正の根」…
http://www.aljazeera.net/programs/pages/58bddcee-158a-4563-a08c-e8c4af95d7b3#L1
http://www.youtube.com/watch?v=Rt1jORvkZ4A

出演者について少し紹介しておくと、まずイブラーヒーム・ブートシーシュさんはアンダルスの政治史が専門の方で、特に初期アンダルスにおけるイクター制度と政治史の関係について重要な研究があります。少しひょろっとした感じの方で、少し御痩せになった…?と思いましたが、気のせいかもしれません。

マハンマド・ジャバルーンさんは、よりこの番組のテーマに近い方ですが、特にターイファ期からムラービト朝期にかけての、モロッコとアンダルスの政治思想史の研究者です。こちらの方とは特に面識はありません。



イスラームにおけるアダーラ(公正)という概念の起源について、お二人の間で意見が割れてるなあ…ウマイヤ朝の初代であるムアーウィヤ・ブン・スフヤーンの治世とみるか、戦利品の分配を巡ってムスリムが対立したウスマーンの治世とみるか…でもイスラームにおける正義の問題の起源ってハワーリジュ派の誕生にかかわる問題じゃないの…などと思いながら、ふんふんと聴いていたのですが、次第次第にむしろ番組の司会者と二人の話がかみ合わなくなっていきます。

このアダーラという概念は公平、正義などとも訳される言葉で、君主の備えるべき最も重要な資質の一つといえます。2011年モロッコで政権を握った王党保守派のイスラーム主義政党「公正開発党」の「公正」は、このアダーラです。つまり、(少なくともモロッコ的な理解では)今日でもイスラーム的な政治における重要な概念であるとみなされていると考えられるわけです。

この概念についてブートシーシュさんは、14世紀アンダルスのマラガ出身のイブン・リドワーンという法学者が書いた君主論を引き合いに出し、「君主が公正であれば彼には報償があり、臣民には感謝が課される。暴政を行なえば彼には罪があり、臣民には忍耐が課される」という定式を紹介します。
さらに君主論(アーダーブ・スルターニーヤ)においては「君主(スルターン)への服従は義務」であり、「君主への服従から外れた者はアッラーに反抗したのである」と主張されていることを述べます。

私見ですが、このことは、「君主論」と呼ばれるジャンルの作品が、なにより君主により良き統治の指針を示すという目的を持っていることを考えれば、特に不思議ではありません。法学者たちはムスリム共同体の生活がイスラーム的法規範に則った形で営まれるために、それらを執行する強制力を持った統治者を必要としています。彼らの立場からすれば、大切なのはこの統治者が公正であるか否か、そしてその基準を示すのは法学者である、ということです。そしてこの統治者が公正であるなら、独裁者であろうと別に問題はない。つまり独裁(イスティブダード)と公正は対立する概念ではないのであろうと。

さてさて、この公正の問題についてジャバルーンさんが以下のように話したところで、司会者さんが溜まらず異論をはさみます。
これは歴史的な問題であって、この時代の文化と、この時代の精神と結びついた問題なのです。というのも、私たちが話している時期について忘れてならないことですが、それは中世であって、中世においては独裁こそが、そこに至った…人間の政治思想が到達した最も洗練されたものだったのです
教授、今日バッシャール・アサド(や)カッザーフィー(といった)独裁統治者全てを法的に正当化するものがいるのですか?
この発言から明らかなように、司会者さんの図式では、独裁とは名前の挙がっている政治家によって体現されている、自国民を殺害し人権を抑圧するような不当な統治体制なのでしょう。つまりアダーラとイスティブダードという概念は、全く相いれないものだったのでしょう。

しかしモロッコの歴史において、法学者たちが称賛してきたのは、むしろ公正な君主による独裁でしたし、この背景にはジャバルーンさんが強調していたように、法学者たちが抱いていた、内乱への強い恐怖心があるように思います。これはモロッコの中央政府の権力の不安定さとおそらく関係があるのですが、いずれにしてもこの地域の歴史では、 君主に十分な暴力が備わっていなければ、法学者の理想とする公正な統治は実現しなかった。

しかしだからといって、このように法学者たちが歴史的に内乱への恐怖から独裁を許容してきたことは、現在において独裁者が国民を殺戮することを正当化しないと思うのですが、この司会者さんは「公正」という概念の歴史に独裁を否認する論理を求めるつもりだったのだろうな。なかなか難しいことだな、と思った次第です。

2013年6月14日金曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ III

この節に限ったことではありませんが、持って回った言い回し、くどくどしい留保、曖昧な語彙、抽象的な議論が続き、何が言いたいのかよく分りません。とりあえず最後まで到達したけれども、全体として何が主張したいのだか…とりあえず特に難解な個所は、括弧に括って凡その解釈を加えてみました。何だか一週間無駄に使ったように思いますが、あとは結論です。

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

III. 正統化の指示対象と「中世」儀礼の特有性 (13-22)

マフザンの様々なバージョンの中でもっともよく研究されているのは、前植民地時代のものであり、それ以前については、転換期であるサアド朝のマフザンも含めて、等閑にされている。ところでサアド朝期には、まずオスマン朝のシステムの影響を受けたことと、そして権力の正統性がシャリーフの性質を含意するようになったことのために、中世半ばから終わりにかけて制度的に確立しつつあったマフザンのイメージとは、とりわけ儀礼の点において大きく相違する。このシャリーフの性質による権力のある種の聖別化は、イブン・トゥーマルトのシーア-シャリーフ的な立場から要求された例外的な譲歩だったのであり、重要な変化が生じていることに留意する必要がある。ここでは、関係する「中世」の諸王朝によるそれぞれの正統化の戦略を検討する。

「聖なるものsacré」という概念を一貫して引き合いに出すことができるのかという問題について、シャリーフたちの時代以降のマフザンに対して、それ以前については懐疑的にならざるを得ない。この概念を表す語彙は、アラビア語では√QDSか√ḤRMから派生する。クルアーンの文脈では:
ḤRM…聖なるもの(sacré)と宣言された時間や空間に関係する
QDS…神の神聖性(sacralité)のみを独占的に表す
イスラームの創始に関わる反擬人主義的性格を鑑みれば、スンナ派の擁護者を自任する統治者たちにとって、この種の主張は曖昧で不適切である。ムワッヒド朝のマフディーの無謬性という例外を除けば、中世のマフザンの正統化の装置はいずれも、明白で程度の差はあれ承認された教説を参照する。
ムラービト朝…スンナ派のマーリク派法学
ムワッヒド朝…ザーヒル派法学に近い字義解釈
マリーン朝…マーリク派法学やシャリーフ全般の崇敬を支援

マフザンの手続きはいずれも神-法学的な基底(fond)に準拠しており、その諸要素はいずれも歴史的に「スンナ」から導き出されたものである。そのためマフザンの様々なバージョンは、いずれもスンナ派的な外観を呈している。宮廷の歴史叙述や書簡文献は、高名な精神的権威からの承認による(マフザンの?)正統化という目的を持った、汎イスラーム的な接触の逸話を伝える。
ムラービト朝…トゥルトゥーシー、ジャザーリー(?)
ムワッヒド朝…ジャザーリー(?)とイブン・トゥーマルト
マリーン朝…ヒジャーズ地方のシャリーフたち
(ジャザーリーはいずれもガザーリーのことだと思われるが、綴りがいずれも誤っている)

それほど明白ではないが、モロッコのマフザンのアプローチの独自性を裏付け、儀礼的な面での君主の立場を明らかにするような特色も存在する。これらの特色の中には、特定の王朝と結びつけられる特異なものがある一方で、諸王朝に横断的にあらわれるものも多々ある。そのいくつかの枠組みとなる要素を、非常に微妙な形態の忠実さへの関心から、提示する。

1. マグリブ・アクサーの諸王朝は、アンダルスよりはるかに遅れて中央集権化を開始したため、後者を支配しながらも、それに倣った。マフザンの文書局は、特に最初期には、専門家の供給の面でも儀礼上の伝統の面でも、アンダルスに依拠することになる。つまりムラービト朝は、アッバース朝に服従しながらも、そのライバルであるコルドバのウマイヤ朝カリフの、より単純な伝統を採用していた。その後のマフザンは、このアンダルスの伝統を活用し、その痕跡を伝播していく。
…権力の「地誌(=その所在)」や壮麗な顕れに関する語彙、諸処のエチケットの総体

2. マフザンの創始者であるムラービト朝において、君主個人に関する儀礼は重要ではなかった。またその君主たちが、ウラマーからの激しい非難に対して、穏健な態度を取った逸話が知られている。これは、ムラービト朝期の政治権力と宗教の権威の二極性という要因に加えて、ムラービト朝とアンダルス人の二重性という要因からも解明しうる。ムラービト朝貴族層が、アンダルス人の生活様式や文明に魅了されたのに対して、後者は前者に対して無関心であるか軽蔑しており、また公的な統治機構の役職を占めていた。
→ムラービト朝の権威の二極性…相互の対立
君主たちは、自らの影響力を確保するため、宗教の名において抜きんでる必要があった
また、イスラームにおいて正統性と教説は相互に支えあうものであり、レコンキスタが進展する中では双方にとってジハードは最重要の問題であった。そのため、君主の付属物は、パラソルも君主への平伏もヒジャーブも言及されず、軍旗や太鼓、君主個人の衛兵といった軍事的なものと、サンハージャ族のリサームに限られることになった。

(難解な主張。ムラービト朝の貴族たちはアンダルス人の文明に魅了されていた。ところが統治に関わる職務を占めていたアンダルス人たちは、ムラービト朝の人々を無視するか軽蔑するかしていた。そこで両者に対して影響力を持つために、王朝の君主たちは宗教的に高い評価を得る必要があった。そして、当時のジハードの宗教的重要性が増大したアンダルスの政治的状況の中で、軍事的な含意を持つ儀礼のみをムラービト朝の君主たちは採用した。そのため全体として、麻布残の儀礼の発達はそれほど見られなかった、ということか?)

3. 〔マフザンの正統性とカリフ制〕
ムラービト朝
・アッバース朝のカリフからの公式な承認
・暴力を行使する能力…10世紀ごろ、東方に現れた諸政権の正統性と共通
→権力を行使する正統性を獲得するためには、他の誰よりも強くなければならない
それ以外の要素(例、カリフの承認)…付随的なもの、ムラービト朝にとっては有益⇔ターイファ諸王国の乱立

ムワッヒド朝
・独自のカリフ制の樹立

マリーン朝
・ムワッヒド朝のカリフ制に依拠しながら、これを打破
→アッバース朝のカリフ制とムワッヒド朝のカリフ制は、共通の結末を辿る

諸朝の正統性…秩序の維持と、共同体の遺産の保護という、日常的な問題に依拠
→正統性の獲得においては、軍事力と結びついた、強制力における支配的状況こそが重要

(後半はやはり持って回った言い回しだが要するに、あるマフザンの正統性は、秩序を維持し共同体を防衛するだけの軍事力を保持しているか否かに依拠していた、ということが言いたいと思われる)

4. 〔カスティーリャ王権との共通性〕
カスティーリャの王権の正統性
・軍事力に基づいた強制力によって、秩序を維持し、共同体の遺産を保護
・ジハードとレコンキスタの交代

カスティーリャ王政
・ウマイヤ朝の西方カリフ制や、ターイファ諸王国の制度的発展の影響
・ピレネー以北のキリスト教諸国家より、アンダルスに近い存在
・ラス・ナバス・デ・トロサの戦いまで、聖別と戴冠の儀礼を利用することに成功しない
…境域の南への遠征が、塗油と戴冠の儀礼に相当
→「聖性なき王権」、北方のキリスト教諸王国と逆、南方のイスラーム諸王国と共通

マグリブ・アクサーの様々なマフザン
→ウマイヤ朝の西方カリフ制から派生したグループの構成要素、権力の正統化と行使において、聖性、戴冠、君主の神聖化といった要素の不在
・ムラービト朝…正統性の付与について承認された権威からの、理論的な委託
・ムワッヒド朝第二代アブー・ヤアクーブ…アンダルス遠征を行い、アンダルス人からのバイアを得るまで、カリフとして認められない
・同王朝第三代アブー・ユースフ…同様の結論(?)
それに、その息子で後継者であるアブー・ユースフの、伝説的になったイメージから、彼の治世の終わり頃である591/1195年の、マンスールの称号に加えて、その死の直後からの、まぎれもない神秘的な変化を彼に与えた、アラルコスにおける目覚ましい勝利という栄光で飾られた、彼の社会・宗教的政策のために、同様の結論が引き出され得るようである。
・マリーン朝アブー・ハサン…全く例外的に、後代の王朝年代記や民衆の記憶の中で、重要性を認められる
それ〔民衆の記憶〕は、二人の君主を、黒人スルターンという、価値を高める――そのように思われる――同じ称号によって混同しながら、永続させただろう。そして人々は彼のことを、そのジハードの遂行と公正さ崇拝のため、伝説の王として理解しようとする。

5. 君主のイメージと、その支配の正統性に対する、振る舞い(誰の?)のインパクトにもかかわらず、君主の支配者としての性格を表現するための典礼自体は存在した。ムラービト朝では、儀礼的要素は軍事的な側面とアッバース朝「君主」とアミールの名が打刻された貨幣等に留まっていた。その後ムワッヒド朝の時代になると、複雑な儀礼の形態が生まれた。ムワッヒド朝のシステムはヒエラルキー化され、ファーティマ朝と同様のシステムに属している。ムワッヒド朝のバージョンはこのファーティマ朝のそれと比較可能である可能性が否定できない(?)ファーティマ朝の手への口づけという儀礼はムワッヒド朝によってモロッコにもたらされた。しかしファーティマ朝で見られる、足への口づけやタマウクと呼ばれる地面に転がる儀礼は採用されなかった。カリフの前で地面に口づけする平伏のしぐさは行われていたが、マリーン朝のアブー・アルハサンはこれらをビドアであるとして廃止し、手や足などへの口づけに置き換えさせた。この改革はスンナ派の人々が、君主に対する崇敬の観念を含意する慣行を忌避するためである。

(全体的に意味不明だが、ムラービト朝においては儀礼は未発達であった。その後シーア派のファーティマ朝と類似したシステムを持つムワッヒド朝においては、君主への崇敬を含意する平伏の儀礼が採用されたが、ファーティマ朝に比べれば控えめであった。そしてスンナ派のマリーン朝の時代には、この慣行は忌避され、手や足、絨毯の上部、中部、下部への口づけで置き換えられたという、君主個人への儀礼の変遷の一例をあげているのであろう)

ムワッヒド朝の宮廷で採用されたこれらの振る舞いは、ファーティマ朝の礼儀作法を参照しているが、文脈が全くが同一というわけではなかった。また、このようなしぐさは、マリーン朝の時代にも類似したものがみられ、特にアブー・イナーンの時代の礼儀作法は、ムワッヒド朝期と同様に厳格だった。

(君主に関する儀礼の?)実践は、常に潜在的に存在し、文脈が求めれば繰り返し現れる。ムワッヒド朝の儀礼は、チュニスで存続したし、ハフス朝のカリフ位を狙うアブー・イナーンのような人物にとって、その典礼はリファレンスだった(?)。ただし、公式の称号も、マフザンによって用いられた形式も、シーア派のファーティマ朝のそれとは異なっている。この王朝にとって、預言者の系譜に連なる君主は、半ば神的性格を持った信仰の対象であったし、そのイマームにしてカリフである君主には、スンナ派では預言者に対してしか用いられない祈願が用いられた。この点で、ムワッヒド朝の典礼は、マリーン朝のそれと同様に正統派的なものだった。また、このような語彙自体、ムラービト朝のマフザンでは知られていなかったようであり、イブン・トゥーマルトや特にその後継者であるアブド・アルムゥミンの時期に導入され、その後発達したと考えられる。そしてこの語彙は、君主の機能と、とりわけその個人に属するものであった。
→ある治世における宮廷生活のキャンバス一般や君主に認められたイメージについて詳述することが可能になる

(モロッコにおける宮廷の儀礼は、シーア派的な傾向を持つムワッヒド朝の時代に発達したが、それがスンナ派のマリーン朝の時代に見られなかったわけではない。むしろ君主に対する儀礼の実践は歴史的文脈によって必要になれば、繰り返し現れたし、実際マリーン朝にとってムワッヒド朝の典礼は参照すべき典拠となった。また君主への儀礼について、特に用いられる祈願の定型句によってイフリーキヤのファーティマ朝と比較した場合、ムワッヒド朝もマリーン朝と同様にスンナ派的なものであった。そしてムラービト朝においてはこのような語彙は知られておらず、その後発達したものだと考えられる。このように、ある時代における宮廷生活の様子や君主個人に対する儀礼について詳細することが可能となる)

2013年6月10日月曜日

アラビアンナイトと北アフリカの物語 写本ワークショップ(2013年6月9日)


アラビアンナイトと北アフリカの物語 写本ワークショップ

 6/9に京都で開催された写本ワークショップに参加してきたので、その内容についてまとめて(?)みました。ワークショップでは参加者が5つのグループに分かれて、最初にタルシューナ教授の2部構成の講演(アラビア語、テクストと通訳あり)を拝聴した後、実際に『百一夜』の写本のコピーを使ってそのテクストを筆写し、教授がその解説をする、という内容でした。講演が予定より30分ほど延長したため、あまり最後の筆写の作業に余裕がなかったのが、やや残念でしたが…
 この『百一夜』はもともとが民衆の口承文学だったために、写本間で内容の差異が大きく、また方言・口語的な要素を多々含むものとのことでした。実際配布された3種類の写本のテクストは同じ個所であるにもかかわらず「てんでばらばら」で、校訂するのは骨が折れそうですが、写本の個性というものを実際に体験するにはよい題材であったように思います。
 校訂の方法論については、写本の描写で一番重要なのが書体の紹介である、という主張や、あまり著者の紹介について言及していないことはやや不思議に思いましたが、文学作品と歴史学の史料で、校訂する際に重視される要素がずれるということかもしれません。教授の扱っている作品はもともと著者のはっきりしない口承伝承をもとにした文献ですし。


日時:2013年6月9日(日)13:00-17:00
会場:京都ノートルダム女子大学 マリア館 ガイスラーホール
講師:国立チュニジア・マンヌーバ大学名誉教授 マフムート・タルシューナ氏
コーディネータ:京都ノートルダム女子大学教授 鷲見朗子氏、東京外国語大学助教 刈谷康太氏

 講演第1部「百一夜物語の写本と千一夜物語との関係」で、タルシューナ氏は、まず、「百一夜物語」の現在知られている写本9点について、その特徴を1点ずつ解説した。なお、氏が70年代にその校訂作業を行ったときには、これらのうち2点はまだ知られておらず、個人蔵の2点も利用できなかったとのことである。
・チュニス写本(2点)…04576;18260
・パリ写本(3点)…3662;3661;3660
・個人蔵写本(2点)
・アルジェリア写本(1点)
・ベルリン・アーガー・ハーン美術館写本(1点)
 これらの写本は何れも18世紀から19世紀にかけて作成されたもので、マグリブ書体で書かれていることは共通しているが、本の題名は別の名称で記載されていることがあり、大きさも様々、内容も写本によって含んでいる逸話、欠落している逸話があるなど差異が大きい。例えばチュニス04576写本の写字生は、「千一夜」から7つの逸話を追加している。また書写年や写字生については不明なことが多い。とはいえ、パリ3662写本のように、その写本に用いられている言葉から、それがチュニジア起源のものであるとわかることもあるとのことである。またベルリン写本は、同じ本に含まれている地理書の部分の化学分析からは西暦1234年作成というデータが出ているが、「百一夜」がこれと同じ時期に作成されたかははっきりしない。
 「千一夜」と「百一夜」の関係については、両者の間にはインド起源でヒジュラ暦4世紀からよく知られた2つの逸話しか共通するものがない。両者ともインド起源の源泉を核に、ペルシア的な源泉や文献・口述のアラブ的源泉が加わって成立した、別々の作品である。ただし「百一夜」には北アフリカ(マグリブ)的要素という第4の源泉がある。
両者のクロノロジーの問題については、ゴドフロワ-ドゥモンビヌ、サヒール・カルマーウィー、クラチコフスキー、エドモン・コスカン、ブルズルスキーらの見解を紹介したうえで、「百一夜」のほうが先行しているとする。特に両者の枠物語のインドのオリジナルとの比較(コスカン)、夜の数の変化(ブルズルスキー)が重要な手がかりである。後者については、インドのオリジナルでは最初夜の数は1晩で4つの逸話を含むだけだったのが、25の逸話に増え、その後100夜、1000夜と増大したとのことである。
 最後に、「百一夜」にはイスラームの影響が少ないこと、「千一夜」の伝承者たちは逸話を付け加え話全体の規模を大きくさせようとする傾向があることが指摘され、2つの本は同じインドの源泉とアラビア語の記述と民衆的な口述の源泉から水を飲み、一方は東方アラブ世界で、他方は西方アラブ世界で有名になった、著述と伝承の時期については「百一夜」のほうが先行する。という結論が述べられた。

 休憩を挟んで第2部へ入る前に、鷲見氏よりアラビア語写本の基本的な用語及び文字の形について説明がされた。
 第2部「写本校訂の方法論」では、タルシューナ氏は最初に、これから述べることが個人的な経験に基づくものであることであると断ったうえで、アラブ・イスラーム文明の盛期の姿を知る上での、写本校訂の重要性について言及した。そして以下の3段階に分けて、校訂の方法論を解説した。

  • 校訂に入る前のこと

 校訂者はまず、写本の時代、分野、さらにその下位のジャンルについて専門とする領域を決めなければならない。そして重要性の高いと考えられるタイトルを1つ選び、その写本を可能な限り集めなければならない。その際に写本を多数所蔵していることで知られる、世界各地の図書館の目録を利用する。


  • 校訂の作業

 集めた写本について可能な限り時代順に並べ、もっとも古い、理想的には直筆の本を選び、校訂の底本とする。その底本によって最後まで一文一文書き写す。それから残りの写本との比較を行い、それらと底本との違いを欄外に注記する。底本より新しい写本に見られる形でも、より正しいと思われるものを最終的なテクストに選ぶこともある。写字生が部分的に誤ることはあるからである。底本の葉数・頁数は、欄外の注か括弧に入れて本文中に記載しなければならない。
 写本の誤りについては、それを本文で保持して注記するか、もしくは正しい単語に改めて余白に写本に見られる形を保持する。他の写本から修正する時は、その根拠となった写本での位置を明記する。稀用語や方言・口語、外国語についても注記すべきで、その数が多い場合には、本の最後に単語帳を作って説明する、もしくはフスハーでの形を記載するのが望ましい。
 韻文については、2行に分けた韻文の形式を用いる。韻律や詩的破格、詩人の名前も記載する。


  • 本の紹介

 その本の重要性を述べ、著者について紹介しなければならない。それから写本の描写と研究、索引等の付録の作成をしなければならない。
1. 本とその内容
 なにより、なぜその本を選択したのか、まずその理由を述べる。その写本が他に例のない稀なものであれば、それに取り組むことは重要な発見となる。
 著者の紹介については、その生きた時代を明らかにし、その仕事の重要性や先進性を証明することを述べる。知識や理論を創始する新たな知識の領域を扱っているのに、写本のままに留まっているために、その先進性や貢献について紹介できないことがある。
例…血液の循環や神経外科?といった医学的な知見が古くから知られていたことについて

2. 写本の描写
 写本の描写には様々な要素が含まれるが、最重要のものはその写本に用いられた書体への言及である。書体には様々な種類がある。書道はアラブにとって非常に歴史があり多様な芸術で、文字を使って鳥や木などを描く書家もいるほどである。それから紙の数やサイズ、写字生の名前や作成の日付も見つかるなら記載する。注で底本との違いを指摘する際に用いる記号も定義する。
 写本の数が非常に多い時は、それを作成の年代、場所、書体等々に依拠して「家族=عائلة」に分類する。

3. テクストの研究
 その内容や叙述方法、様々な側面についての分析ができるように、テクストの分野、ジャンル、源泉、後代の文献への影響に関わること全てについて研究する。

4. 索引
 資料や典拠を全て挙げる。
 校訂作業で参照した資料や、研究で依拠した理論・方法論の典拠、その本が属する領域に関する研究、翻訳についてビブリオグラフィーを作成する。
 そのほか、人名、地名、詩、クルアーンの章句、方言の単語帳も索引を作ることが望ましい。
 最後に、その他写本の頁や挿絵などの画像も追加するとよい。

2013年6月7日金曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ II

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

II. 「中世」マフザンの基礎と変化(7-13)

ムラービト朝のサンハージャ族の軍事行動によって成立したマフザンは、被征服民に対してこれまで用いられたことのないシステムを構築した。
→中央集権化の導入に求められる定住化をほとんどしていない遊牧民による、国家権力の中央集権化のシステムが導入されたという矛盾した特徴
サバンナ、サヘル地帯に登場した諸国家のサブサハラ的な図式の中でこの現象を理解するべきである。ムラービト朝のマフザンは「労働の社会的分業の専門化とエリートの諸機能の構成の相対的な交差を提示する国家」に属する。(S. N. Eisenstadt, M. Abitbol & N. Chazan. "Les origines de l'Etat : une nouvelle approche". Annales ESC, 38.6 (1983): 1238.)
ムラービト朝の社会の中には、キャラバン交易に結びついたエリートの勢力と、軍事活動・ジハードの従事する勢力の双方が存在した。
→空間の安全を恒常的に保持するための強制力の独占
→統治者と結びつきのある集団や交易路の関係者がこの独占の維持に貢献

「中世」のマフザンは、国家である前に権威であり、そのシステムは、アフリカと地中海を結ぶ交易に統合され、それを支える軸と結びついていた。その調停者としての性質は、ここに起因する。調停-支えは、外部に向けられる前に、まず内部の様々な水準に介入しなければならず、そのため諸王朝は、同盟者や家族的な集団に属する部族的要素を統合する連合に依拠する。この連盟的な含意を持った性質のため、陰謀に晒され、潜在的な対立関係を助長することなしに、連合の相手を増やすことはできない。またマフザン国家は、この対立関係を利用して、分離的な行動を中立化しようとしている。この不安定な均衡の急な変化に備えて、権力はその統治を宗教的に正統化することに関心を持ち、神権的(…規範の順守、分担者・制限のない権威の審級であるという位置づけ)であろうとする。

「中世」マフザン・システムと国際的な状況の変化の関係
…地中海北岸の優位、マグリブの側による海峡のコントロールの喪失、ラス・ナバス・デ・トロサの大敗
→沿岸の相対的重要性の増大

マフザン・システムのマグリブ・アクサー版は、ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝(+イフリーキヤのハフス朝)の経験に帰着する。そして問題の連続する政府の間で、選択肢とイメージの面で境界画定は明確である。
ムラービト朝…スンナ派、マーリク派法学者と権力の結びつき
ムワッヒド朝…シーア派の過激な教義の主張、イマームで無謬のマフディーであるイブン・トゥーマルト(とその後継者たち)への全権集中
→マフザン・システムへの重大な変化=厳格なヒエラルキーの導入、教説上の差異に基づく排除の戦略、粛清や不寛容さの逸話、抑圧

イブン・トゥーマルトの教義に対するへの全面的な不満が生じ、それはスーフィーたちの運動と重なり合う。この運動はムラービト朝の成立とともにあらわれ、最初はアリー・ブン・ユースフ・ターシュフィーンの治世に半ば非合法とされた後、ムワッヒド朝の超権威主義的権力の登場時には、既に重要な役割を演じ、統治者たちに対して慎重な態度を示すようになっていた。この慎重さは、素朴で実践的な教育法によって支えられており、民衆に対する模範として示されたため、民衆とマーリク派法学者の双方からの支持を獲得し、新たな領域は地域の潜在的な反権力の場として認識される。

この認識が含意する、ムワッヒド朝マフザンに対する不満は、ラス・ナバス・デ・トロサでの大敗後実体化し、王朝のカリフ自身による無謬のマフディーの公式教義否認へとつながる。「厳格主義者たち」にとっては真の背教である、この決定を口実として、イフリーキヤのハフス家のアブー・ザカリヤーが反乱を起こし、その息子のムスタンスィルはカリフを自称するに至る。
→その支持者たちにとってはイブン・トゥーマルトとムワッヒド朝の唯一の後継者にして代表者
1269年マラケシュのカリフ制が廃止されるまで、イフリーキヤとマグリブ・アクサーの首都は、傭兵集団を間に挟んで敵対しあい、その一つであるマリーン族の部族集団が、ムワッヒド朝を滅亡させる。

ムワッヒド朝の滅亡後マリーン朝は、空間と権力の論理によって、次第にハフス朝と距離を取り始める。ハフス朝が信奉するイブン・トゥーマルトの教義のシステマチックな隠匿は、新たな征服者の独立の意志を印付けるものである。
初期マリーン朝君主たちのハフス朝のカリフに対する独立の意志を示すいくつもの兆候:
・アンダルスでのジハードによる彼らの継承の正統性の主張…ムワッヒド朝滅亡から5年余りで開始
・彼らによるマーリク派法学への断固とした支持…スーフィーたちの抗議的領域との相互作用に対して加えられた長期間の迫害後
・シャリーフたちへの全体的な崇敬…預言者の血統を含意するマフディー主義の乗り越え
マリーン朝の君主たちはイドリース家を優遇し、そのかつての政治・宗教的拠点だったファースを首都としながら、預言者家の家系を主張するほかの派の地位向上を警戒する。
この正統化の傾向は後にアブー・ハサンとアブー・イナーンによって、西方カリフ制の主張に用いられる。

マリーン朝のマフザンは、ムワッヒド朝の厳格さからは距離を取り、協調主義的な手続きを選択する。この種の運営の結果として、分割に依拠した支配の様態が現れ、この現象の結果として、王朝内部での策謀的な傾向が生じる。
君主たちの権力欲によって生じたこの状況は、協力者たちの欲求を一層刺激し、彼らはマフザンの覆いの下での分離的細分化を、一層推し進めることになる。
マリーン朝マフザン…実際的な性質、安易な妥協の危険性

マリーン朝のシステムは、このような状況の繰り返しの中で破たんしたが、その三世紀半ほどの持続の中で、マフザンのあり様に影響を及ぼした。ムワッヒド朝よりも寛容であると同時に、ムラービト朝よりも統合的なそのマフザンは、より近づきやすく、そのために複数の関与、服従と分割の枠組みの中で繰り返し再調整を施された。そしてマリーン朝は有力者、シャリーフ、学識者、民衆的神秘主義の師匠たちといった多様なパートナーを選ぶ戦略をとった。

この形態は、王朝の交代とともに手直しを受け、16世紀中葉シャリーフ主義によって権力を要求したサアド朝は、マフディー主義を自称した。ただしこれは、ジャズーリー教団によって調整を受けたシャリーフ主義であり、ムワッヒド朝マフディーの排他的な図式を複製することはできなかった。またマフザン・システムの側も、これを過度に強調することはなかった。

マフザンとは、安定した骨格を持ちながらも、柔軟で浸透性のある組織であり、その採用した諸形態は、個人的なコネと権力の個人化に運営を依存する、伝統的な国家の図式に属していた。そして、この国家は自律的傾向を持った複数の同盟者たちに依拠しており、その対立を利用する形で被害を抑え込もうとする。おそらくマフザンは、この脆い形態に内在する誘惑を悪魔祓いするために、被支配者に対しても共同支配者の集団に対しても、超越的で半ば攻略不可能な権力の側面を維持するための、儀礼的表現の諸手段に頼る。

2013年6月5日水曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ I


Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

I. 指示対象-サポートと登場の文脈(3-7)
カブリーによれば、マグリブにおいて空間の関連性は常に最重要の要素であり、定常的なものとして作用してきた。そしてあらゆる性質の差異にも拘らず、マグリブ各地の国家的建築物の全体と包括するような均一化が起こった。そしてこの均一化-指標と空間的形成が、はっきりとわかるような相互干渉をもたらした。
→この相互作用について考慮することが重要

平均的な国家の図式は同一の道程と結びついている。
=領域的基盤→諸条件充足→支配領域拡大→中央集権化(事実上→法的)
・ファーティマ朝(イフリーキヤ、9-10世紀)
・ズィール朝(イフリーキヤに加えて中マグリブの大半、10世紀末から11世紀)

ズィール朝の衰退及びヒラール族アラブの侵入と同時期に、ムラービト朝のサハラの南西からの北上が始まる。彼らはその呼称のもととなった禁欲主義とジハードだけでなく、地中海とサブサハラ地帯を結ぶネットワークのコントロールに関心をもつ。これらのネットワークの形成に応じて、彼らの領土の中心となる、マグリブ・アクサーと呼ばれる新たな空間-軸が形成されていく。地中海、サハラ、ムルーヤ川とその延長にある南東部のオアシスに挟まれたこの空間-軸は、可変的な周辺領域を持った空間-核を繰り返し形成する。
・マグリブの空間の結合
・諸王朝の勢力拡大の方向の共通性(北→太平洋岸→海峡の北側)⇔出発点の多様性
その多方向への勢力拡大の中心に、マフザン(Makhzan)と呼ばれる中央集権化のシステムが位置する。

→カブリーは、イフリーキヤのことをジール朝のプラットフォームと呼んでいる。よってこの言葉は、国家的組織の勢力拡大の基盤となる領域のことを指すと考えられる。ムラービト朝のプラットフォームは交易ネットワークの統制を通して形成され、マグリブ・アクサーと呼ばれる地域を軸に、変動する周辺領域を持った支配領域の核が形成され、その中心にマフザンと呼ばれる中央集権的なシステムが位置することになった、とまとめてよいだろう。

次いでカブリーはマフザンという用語の起源について議論を開始する。
アンダルスのウマイヤ朝においてマフザンという用語は、政府というより倉庫を意味していた。
ex. アビード・アルマフザン=倉庫の奴隷、ハーズィン・アルマール、ヒザーナト・アルマール等
マグリブでは、イフリーキヤのアグラブ朝期にバグダートのカリフに送る税を保管する金庫がマフザンと呼ばれた。このことからマフザンとは国家の徴税と結びついた概念だったと考えられる。
一方ファーティマ朝、ズィール・ハンマード朝では、倉庫を意味する孤立した例が1012年以前のイフリーキヤのファトワーに見られるだけで、この用語は少なくとも文献ではほとんど使用されていない。よって、公的な徴税組織を指して一般に用いられていた言葉ではないと考えられる。

マフザンという言葉は、11世紀ごろムラービト朝期のマグリブ・アクサーで権力システムを示すようになる。カブリーは以下のように推測している。
・ムラービト朝の遊牧民たちはダルア地方とスース地方で貯蔵庫(=アーガーディール)の機能を知った
・この貯蔵庫を管理する制度に魅了され、大規模なアーガーディールとしての倉庫国家を構想した
・彼らにとって国家とはアミール個人の倉庫であり、それが次第に集合的なもの、国家的なものとして提示されるようになった
マフザンという呼称の採用については、以下のように述べている。
征服者たちの計画に枠組みを与える社会・文化的な文脈を鑑みれば、このような態度は、少なくとも仮説としては承認できるものと思われる。理論的な視点においてシニフィアンとそれを支える、共有されたそして/もしくは暗黙の知識の間に存在する弁証法が、おそらくここでマフザンという聖化され支配的な語彙から借用された――もちろんアラビア語での――言葉を、シニフィアンとして選ばせたのだろうから。同時にそれは生き生きとした、ただし押し殺されたシニフィエを、それが世俗的であると同時に支配されているために表明しているということなのだが。

ムラービト朝のマフザンのシステムは、アグラブ朝のマフザン(=金庫)との類似に加えて、ファーティマ朝のシステムとも、何れも独占の排外的要求者を自任、キャラバン交易を重視、交易ネットワークの統制を優先するという類似性がある。
→国家の中央集権化の様態に従うほかない
→歴史叙述の中では創始に関する選択に仕立て上げられる
ただし、ムラービト朝とイフリーキヤでの先例との間には以下の相違がある。

  1. ムラービト朝が彼らの行動領域に属していたのに対して、アグラブ朝とファーティマ朝は東方を志向していた
  2. マフザンの中央集権化はおそらくこの理由によって(?)より柔軟だった

ムラービト朝の中央集権化は、支配的な部族連帯意識の内外で、部族の協調主義的な調合を伝播していた(?)。またこの王朝に先行するイドリース朝の権力システムは、鉱山採掘と農業経済活性化に結びついた都市化を優先していたものの、他の集団や敵対するアミール国を排除して、実効的な中央集権的国家を樹立することには失敗した。そしてイドリース二世は、領域拡大とキャラバン交易に関心を示したものの、その没後領域は反集権的な複数の公国に分裂した。

マフザンと呼ばれるシステムは、マグリブ・アクサーにおいては新機軸だった。

  • その第一の使命は何だったのか?
  • どのようにして定着に成功したのか?
  • その恒常的な要素は何だったのか?
  • 王朝ごとの境界を真に画定するものはあったのか?
  • それはどのような方向性においてであったのか?

→このシステムを構造化する土台と変化について問いかける

2013年6月3日月曜日

日本イスラム協会公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」その2

2013年6月2日東京外国語大学で日本イスラム協会の主催で開催された公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」の講演より、齋藤剛「ベルベル人とイスラーム―モロッコにおける「先住民」運動の展開とその宗教観」の内容をまとめました。
なお、佐藤講演についてはこちら

最初に発表の目的として、以下の二点が挙げられた
・モロッコにおける「アマズィグ運動」の成立と展開の紹介
・運動の言語観、歴史観、故郷観、宗教観の特質を明らかにすること

I. ベルベル人の概要
ベルベル人とはベルベル語を母語とする人々のことで、北アフリカの「先住民」であるといいう認識が近年現れている。彼らは北アフリカ一帯を中心に、東はエジプトのスィーワ・オアシス、そしてニジェール、ナイジェリア、モーリタニア、ブルキナファソなどの西アフリカや、さらにカナリア諸島まで広く分布している。そのため形質の面でも習慣の面でも非常に多様であり、専門家にとってもベルベル語を母語とする人々であるという以上の定義はし辛いのが実態。
ベルベル(berber、berbère)という呼称は多少であり、当人たちは自由な人、高貴な人を意味するアマズィグ(Amazigh/Imazighen)と自称する。
大半はモロッコ、アルジェリア(、チュニジア)に住んでおり、民族ごとの統計が存在しないため正確なベルベル人口は不明だが、全体では千数百万人と言われる。
ベルベル語を母語とする、というのがその定義ではあるが、言語の地域間の際は相当ある。
宗教的には圧倒的多数がムスリムである。
ベルベル語は歴史的には固有の文字を使用せず、それがこの言語の地域間の際の大きさの一因となっている。ただしアルジェリア南部を中心に活動する遊牧民トゥアレグ族の地域では、ティフィナグと呼ばれる独自の文字が古くから存在した。そして近年になって、ティフィナグをベルベル固有の文字として採用する動きが拡大している。

アラブ人とベルベル人は重なり合ったカテゴリーであり、アラブ人のベルベル化、ベルベル人のアラブ化という現象がみられる。そのアイデンティティーは重層的であり、ベルベル人であることがアラブ人であることを否定しない、そして逆も然りであることに留意する必要がある。ところでアマズィグ運動は、この両者を明確に区別しようとする傾向がある。

II. アマズィグ運動成立の歴史的背景
・アマズィグ運動が持つアラブとベルベルの二項対立的傾向の起源
ベルベルの研究は19世紀フランスのアルジェリア植民地化によって始まった。
アブド・アルカーディルの反フランス運動に対する現地住民の間での態度の際から、ベルベル人の存在が発見される。特にカビール山地にすむ部族民の研究から「カビール神話」が形成される。
→ベルベル人はアラブ人に対してより平等な社会を形成している、イスラーム化の程度は低く表層的なイスラーム化に留まる、女性に対してもより平等である、フランス文化と同質であるという想定
ムスリムであるアラブ人に対してキリスト教的なベルベル人という、両者を差異化する視点が現れる。キリスト教の宣教師の、イスラーム化したベルベル人をキリスト教化しようとする活動も行われる。

モロッコにおける植民地支配期のベルベル研究は、1912年の植民地化(保護領化と称された)以前は探検の時代であり、アラブとベルベルがそれほど明確に分けられるものではないことが指摘されるなど、比較的柔軟な発想によって行われた。しかし1904年以降は組織的な研究が開始し、イスラームとベルベルの関係を巡る特殊な見解(「表層的イスラーム論」=ベルベルは侵略者であるアラブ人によってイスラーム化されただけであり、その程度は低く表層的なものに留まる、という議論)が醸成された。そしてアラブ人ベルベル人の二項対立的な図式に基づくイメージが確立する。
アラブ⇔ベルベル
アラブ人⇔ベルベル人
アラビア語話者⇔ベルベル語話者
マフゼンの地⇔スィーバの地
イスラーム化されている⇔イスラーム化されていない
シャリーア⇔慣習法
ベルベル勅令の成立…シャリーアの適用対象をアラブ人だけに限り、ベルベル人の問題解決は先祖から受け継いできた慣習法によって行うことを規定
→アラブ、ベルベルの双方から、「我々はムスリム」という意識に基づく反発を受ける

フランス植民地支配期の二項対立的民族観は、両者の際を強調、強化することになり、これはアマズィグ運動指導者たちに受け継がれていく。しかしこの見方からは、二重言語話者の存在や、ベルベル人居住地域における知識人(ウラマー=イスラーム知識人?)の活躍の重要性、本人たちの自己認識における重層的なアイデンティティーといった要素が零れ落ちてしまう。

III. アマズィグ運動の成立と展開
アマズィグ運動交流の背景として、モロッコ独立後の国家統合政策がある。モロッコの植民地(保護領と呼ばれる)統治は既存の統治体制であるアラウィー朝を温存する形で行われた。そしてその権力を統制するために、地方のベルベル部族民を支援し、強化した。1956年にモロッコが独立すると国家統合政策の支柱として「アラビア語化」「モロッコ化」が掲げられた。これに対するベルベル部族民の抵抗運動は、皇太子時代のハサン二世によって武力によって鎮圧された。ベルベル諸語「方言」の公的領域での使用は禁止され、1990年代半ばまでメディアや学校教育からベルベル語は締め出されることになった。
ベルベル人は「アラビア語を話すモロッコ人」を中心とする国家統合政策によって周辺化される。また独立に伴う入植者の国外流出によって、その空白を埋める形でベルベルの故郷からの人口流出が進み、独自の慣習や言語の忘却への危惧が高まる。また都市へ流入したベルベル人に対しては、すでに長く都市に居住しているアラブ人からの偏見・差別がある。こういった社会状況を背景として、アマズィグ運動が成立する。
1960年代後半、一部のベルベル系住民の中から言語や慣習の保存、アイデンティティーの確立を訴える運動が形成される。彼らはベルベルではなくイマズィゲンを自称し、そのように呼ばれることを要求する。その主導者たちの多くは「世俗主義」的な思想を継承し、学校教員や大学の教員、学生、そして役人が参加していた。またフランスの同時代の社会主義、共産主義運動の影響を受けていた。
彼らは1967年「モロッコ文化交流協会」を設立するが、この名称は「アマズィグ」という言葉を使えないため採用されたものであり、また90年代半ばまで活動は活発化しなかった。1994年ハサン二世はベルベル三方言によるニュース番組の放映を許可(一方言ごとに5分の割り当て)し、その後活動が活発化する。2001年にはムハンマド六世がアマズィグ文化をモロッコ文化の一柱として公認、IRCAM=王立アマズィグ学院の設立。アマズィグ語教育の準備が開始され、2003年から小学校での教育が開始される。2011年にはアマズィグ語を公用語とすることが正式に発表される。
→国家主導でのアマズィグ運動への支援
…先住民運動の世界的な興隆、アルジェリアでの民族対立の激化の例、欧米に対して人権に配慮していることを示す意図
アマズィグ運動はアマズィグとしてのアイデンティティー、言語権、教育権を希求し、アラビア語化(国家統合政策)や政治体制(ベルベルの社会的周辺化とアラブの政治的優位)、「アラブ」への批判を行なう。そして「イスラーム」に対しても独特のスタンスを持つ。

IV. アマズィグ運動とイスラーム
・言語観
ベルベル語は地域間で差異が非常に大きいため、標準アマズィグ語を生成することになった。これはエリートの主導で行われ、三方言の話者からそれぞれ二人ずつの合計六人で、対等な形で語彙が選定された。その結果三方言からのパッチワークのような言語となり、従来使われてきた生活言語としての「方言」とは乖離することになった。また標準アマズィグ語は「世俗性」が求められ、宗教的な意味を持った表現は別の言葉で置き換えられることになり、イスラームとは距離を取った語彙選定がなされた。

・故郷観
ベルベルにとっての故郷はタマズィルトという言葉で表される。
出身村落、部族、地域、国と範囲が変化する、そして具体的な人間関係の連鎖と関連した故郷概念である。
これに対して運動はタマザガという新たな故郷概念を創出する。これは北アフリカ全域及び西アフリカのベルベル人が分布していると考えられる「国々」を包含する概念で、国家の集合体として構想されている。そこでは、イスラーム到来以前から今に至るまで、一貫してアマズィグ文化が継承され、独自のイスラーム文化が形成されてきたとみなす。

・宗教観
タマザガの内部では「穏健なイスラーム」「アマズィグ的イスラーム」が信仰され、その外部では「過激なイスラーム」が信仰されているとみなされる。タマザガはアマズィグ的イスラームが展開する固有の空間なのである。

・歴史観
運動はアラブとアマズィグの関係を再規定する。その対象はアラブとイスラームである。しかしこの差異化において運動はジレンマを抱え込むことになる。
まず世俗性と宗教性において、運動家たちと一般のベルベルはアラブからの差別などの経験を共有しているものの、それは後者においてはイスラームへの批判へと向かわない。むしろ彼らは、アラブが敬虔なムスリムでないからそのような行動をするのだと批判する。
そして「アラブ」と王権の関係において、アラブへの批判を突き詰めていくと、運動は王権批判の問題に直面する。国王の宗教的正統性の源泉はそのシャリーフの血統にあり、つまり国王はアラブの中のアラブだからである。これを回避するために、正統性の源泉の別の要素である、国王は信徒たちの指揮官である、という主張や、国王とのバイアはベルベル的なものだという理論を挙げる。
差異化の論理としては、植民地主義的ベルベル観を援用する。これはアラブ・イスラーム的歴史伝統を忌避するためである。そしてグローバル・スタンダードとなりつつある諸概念による再定義を行なう。
平等主義的社会→民主主義的社会
女性の扱いの平等性→女性の人権擁護
イスラーム化の低さ→宗教的・文化的多様性への寛容
上述のジレンマの乗り越えが試みられる。世俗性の強調と宗教性の受容については、独自のイスラーム理解の提示、つまりタマザガにおける「アマズィグ的イスラーム」を提示する。アラブと王権の関係においては、王権とアマズィグ文化の類縁性を強調し、イスラーム到来以前と以降の諸王の連続性を強調するとともに、アラブの「内的差異」を創出する。そしてタマザガの外部から流入してきた「アンダルス・アラブ」を批判する。


アマズィグ運動は独立以降の国家統合政策への批判から興り、アラブ・イスラームを批判対象とした。その展開は国家が主体的にリードし、モロッコ国外のグローバルなネットワークの活用、世界的な先住民運動への関心、グローバル・スタンダードとなりつつある概念への依拠という特徴がみられる。
運動の指導者たちは「世俗主義」的な背景を持っており、イスラームからは距離を置きたい一方で、支持者を獲得するためにはイスラームを無視できないというジレンマを抱えている。そのため、植民地支配期の研究の民族観、新たな故郷概念・言語・歴史観の創出と連動した独自のイスラーム理解を創造している。
→「アマズィグ的イスラーム論」「穏健なイスラーム論」「表層的イスラーム論」
→グローバル・スタンダードに依拠した権利請求の展開
(→信教の自由へも拡大)
ただしこれらの展開には、一般(ベルベル?)住民の宗教意識と乖離している面がある。

日本イスラム協会公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」その1

2013年6月2日東京外国語大学で、日本イスラム協会の主催による公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」が開催されました。講師は北海道大学の佐藤健太郎氏と神戸大学の齋藤剛氏で、60人強の聴衆の前でそれぞれ1時間ほどの時間を使っての議論となりました。
先に佐藤氏の「ジブラルタル海峡の北と南 ~イスラーム期のスペインとその対岸~」について内容をまとめてみました。
なお齋藤講演はこちら

佐藤講演はジブラルタル海峡を挟んでイベリア半島とアフリカ大陸の両岸の関係を、特に13-14世紀の人的・文化的交流を中心に論じた。
アンダルス=イベリア半島の特にムスリム支配地域
マグリブ=アフリカ大陸北西部の、特に現在のリビア西部からモロッコを中心とした地域
最初にジブラルタル海峡が最狭部で約15キロと、日本の津軽海峡とほぼ同じ程度しか両岸が隔たっていないこと、自然環境の上でも共に地中海性気候に属し、小麦や果樹栽培を主とする農業が営まれていることを確認した。そしてこの海峡が歴史的には「zuqāq=道、隘路」と呼ばれ、またアンダルスからマグリブを見て「`udwa=対岸」と呼んだり、双方を合わせて「`udwatān=両岸」と呼んだりする例もあることを紹介した。

次いでマグリブ・アンダルスを代表する14世紀の知識人イブン・ハルドゥーンの生涯を軸に、この時代の知識人と文化の交流について議論を展開した。
マグリブ・アンダルスでは13世紀前半この地域を統一支配していたムワッヒド朝の崩壊により、マリーン朝、ザイヤーン朝、ハフス朝、ナスル朝の四王朝が分立する自体となった。そしてこの事態に伴うムスリム側の政治的混乱・弱体化をついて、キリスト教徒諸国家(カスティーリャ、アラゴン、ポルトガル)による大レコンキスタが進展し、アンダルスの主要都市が次々と陥落していった。
イブン・ハルドゥーンは1332年チュニスに生まれ、マグリブ・アンダルスの各地を遍歴して学問修業や宮廷への出仕をした後、1382年以降はカイロに移住した。その主著『歴史序説』は近代の社会科学を先取りする作品として名高い。

この時代知識人たちは、イブン・ハルドゥーンのように学問修業や宮廷での出仕を求めて、海峡を往来していた。これは両岸に同じ文化的土俵があったことが前提となる。具体的には法学、スーフィズム、ハディース学、韻文・散文学といった学術を両岸の人々が共通して学んでいたことである。このような知識人の例として、マグリブのセウタ生まれでナスル朝に仕えたイブン・アブドゥルムハイミンやアンダルスのマラガ出身でマリーン朝に仕えたイブン・リドワーンといった人物がいる。そして高名な知識人の名声は海峡を越えて伝わり、マリーン朝の君主がアンダルスの高名な知識人との会見を熱望するという事例も見られた。
また、イブン・ハルドゥーンとグラナダを代表する知識人でナスル朝の宰相でもあったイブン・ハティーブのように、海峡の両岸で文通・著作の交換を行う例もあった。両者はイブン・ハティーブの君主であるムハンマド五世が1539年マリーン朝宮廷に亡命した時から交流があり、一時仲違いするものの、その後関係が修復し、文通が始まった。この関係はイブン・ハティーブがグラナダを出奔しマリーン朝宮廷に亡命した後、ムハンマド五世の圧力で処刑されるまで続き、イブン・ハルドゥーンはその執り成しに尽力している。なお、交通や通信が未発達の時代、文通は巡礼者や短距離の旅行者、共通の知人などを介して行われていたと考えられる。
この様な人的交流だけでなく文化活動でも、両岸で流行の共通性がみられる。その例として建築様式の流行や、宮廷行事としての預言者生誕祭の広まりが挙げられる。イブン・ハルドゥーンはグラナダでの預言者生誕祭について、これがマグリブの王たちに倣って行われるようになったと説明している。

またレコンキスタの進展によって、マグリブ社会ではアンダルスからの移民が活躍するようになった。ハルドゥーン家(=イブン・ハルドゥーンの一族)もその一例である。この一族は8世紀以来セビーリャの名族であったが、13世紀ハサンと呼ばれる人物の代に、この町がカスティーリャによって陥落する直前セウタへ移住した。この頃チュニジアを支配していたハフス朝の君主は、元セビーリャの統治者であったため、ハサンはさらにチュニスへ移住し、この君主からから厚遇された。息子ムハンマドは宮廷に出仕して王国の財務行政の責任者となった。その息子のやはりムハンマドは軍人として重用されたが、のちに学問と信仰を中心とした生活を送るようになった。その息子のやはりムハンマドは宮仕えはせずに学問と信仰の生活を送った。その息子が『歴史序説』の著者アブドゥッラフマーンである。
このほかにもアンダルス移民の中には、宮廷人・軍人として活躍したり、イブン・ハルドゥーンの師匠であるイブン・ブッラールやアービリーのように知識人として活躍した者がいた。

この様に佐藤講演は、ジブラルタル海峡の両岸の人的・文化的交流の諸相を明らかにし、最後に現代のモロッコで「アンダルス音楽」という名前で呼ばれる音楽の演奏会の様子を映像で紹介して終了した。また、文化交流の一端として、セビーリャのアルカサルに見られるペドロ一世の宮殿のように、アンダルスのムスリム文化の影響がキリスト教国家まで及んだ例も紹介された。ただしそれは特異な事例に留まり、またこのペドロ一世に対する政敵のネガティブキャンペーンに、彼がムスリムやユダヤ教徒を厚遇していることが挙げられたことからして、リスクの大きい行為だったと考えられるという説明がなされた。

2013年6月1日土曜日

ブログタイトルについてごにょごにょと…

このブログを開設する時に、エイヤッとつけてしまったこの「地中海の西の果てから」というタイトルですが、まるで私があの地域に暮らしているみたいですね。実際2010年の秋から丸々二年間、モロッコ北部、地中海の南岸最西部に位置する歴史ある田舎町、ティトワーンに暮らしていたのですけれど、今は愛知県のやはり歴史ある田舎町に暮らしながら、アラビア語の非常勤講師をしています。

今後このブログに書きつづっていくことは、時々現在のモロッコのニュースを交えながらも、概ね15-16世紀モロッコを中心とした歴史研究のまとめ・メモの類、つまりまあ極めて需要の少ない情報であろうと思いますので、その点ご了承ください。

モハメド・カブリー(2005)まとめ 序文

 現代モロッコを代表する中世史研究者モハメド・カブリーが2005年発表した、モロッコのマフザン(中央政府)の起源に関する論考を少しずつまとめていきます。というのも、氏の叙述はフランス語であろうとアラビア語であろうと極めて難解で、この決して長くない論文でも一息に読み切ってまとめることが、私にはどうにも困難だからなのですが。
 最初は、1ページほどの序文をまとめた、というよりは様々な留保の類を削ってみた、といったところです。まずこの試論の目的が宣言されます。すなわち:
マフザンについての近代の個々の国家の枠組みの中で行われてきた議論を、より古い時代にさかのぼり、かつマグリブ全域を考察対象に入れたうえで、これまでの研究成果を再検討し、その起源を探究すること
ただ、「意味論的考古学」「プラットフォーム」「指示対象-サポート」とは何ぞや?これ以降の議論でどれだけ明確になることか、何とも不安です。

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

(序文 pp. 2-3)
 イスラームの政治制度は、全体的な発展の範囲では、その本質的な表象と構造を通して、信任(investi)されている。その歴史叙述と「実践」を考慮すると、この政治制度は多様な資料体(相互の矛盾、特定の文脈への参照)に依拠しているようにみえる。そしていくつかの試みは、地域的な固有性に注意を払いながらも、その形成の過程を総体として把握することには、すでに成功している。モロッコにおける政治制度の形成は、多くの互いに交差しあう研究の対象となり、豊かな成果をもたらしている。

この試論の目的
=より古い構造化するデータを解読しながら、これまでの豊富な研究の貢献を確認すること

最初に検討する研究の範囲を、時間・空間の両面で拡大するのが有益
時間…「近代=moderne」以前にさかのぼる
空間…領土的区分を超えてマグリブ全域に及ぶ
(大抵の場合、近代のみがモロッコの政治制度に関する最近の解釈を支持すると考えられている)

  • 起源へ(aux origines=複数の起源へ)とさかのぼること
  • この数世紀に現れ出た形態からだけでなく、プラットフォーム(plate-forme)の表象と記号の蓋然的な意味論的考古学(archéologie sémantique probable)からも読解が行われること(プラットフォームとは?)

多様な資料(sources)に対して、資料体(corpus)は限定されている。資料体を膨らませるのは、緩慢で段階的な現実の歩みであり、それがその(資料体の?)指示対象-サポート(référent-support)を構成する。この指示対象を特定するためには、本質的な構造化するデータで満足すべきだろう。

2012年ムーレイ・ブーアッザのムーセム

2012年4月8日モロッコ中部のムーレイ・ブーアッザという村で行われたムーセムを見学してきました。
ムーセムというのは聖者、この場合は村の名前の元であるムーレイ・ブーアッザ(アブー・イアッザー)という12世紀ごろの聖者の生誕祭のこと。
写真は聖者廟の前から延びる参詣路の両側に立ち並ぶ臨時スーク。
(写真テストのために掲載したものです)