2013年7月17日水曜日

ポルトガルの海外進出とマグリブ・アクサー

7/5(金)に京都女子大学でゲストスピーカーとして話した時の配布資料に、やや手を入れたもの。
ポルトガルの海洋進出というと、インドから東南アジアの香辛料取引への介入やブラジル経営の話が中心になって、アフリカの特にモロッコ支配については、海外進出の発端である1415年のセウタ征服以降ほとんど言及されないように思います。
今回の授業では、ジョアン1世によるこの征服遠征の背景やその後の展開、そしてこのポルトガル人の進出に対するムスリムの反応について、特に前提知識のない人を想定しながら説明してみましたが、若干概略過ぎたようにも思います。「平和のムーア人」と呼ばれる、ポルトガル人の支配に協力するムスリムの話など、興味深い事例がいくつもあったのですが、またの機会に…

ポルトガル語の単語の表記については、山川の新版世界各国史シリーズのそれに従っています。

さて、これはどこの光景でしょうか?


 ヨーロッパ風の街並みにヤシの木、青い空…


日差しがまぶしいです。


何かの記念碑でしょうか…


歴史的な身なりをした人物の銅像がロータリーに立っています。


これはセウタ、ジブラルタル海峡の南側に位置する、スペインの町です。
サン・フランシスコ教会の他いくつかの教会とともに、バニョス・アラベス(アラブ式風呂)とかスィディ=ムバーラク・モスクといった名前が見えます。


この、ジブラルタル海峡の東の端に位置しています。

1. ジブラルタル海峡
・イベリア半島と北アフリカ沿岸を隔てる、最も狭い箇所で約15キロの海峡
・両岸はともに地中海性気候に属し、共通した自然環境をもつ

地中海の西の果てでスペインとアフリカの沿岸は接近し、一方の岸から対岸で焚かれている火を見分けられるほどである。的確に指摘されている通り、西地中海はもはや水路、海峡、容易に渡ることが可能で障害の役割を果しえない『チャネル』でしかない 。 
Braudel, F. “Les espagnols et l’Afrique du Nord de 1492 à 1577,” Revue Africaine 69 (1928), 193.
古代よりこの海峡の両岸に影響力を持った国家は幾つか存在する。
 7-8世紀のイスラームの大征服以降も、この海峡を介して多くの国家が北アフリカからイベリア半島へと北上するが、15世紀以降この流れは北から南へと逆転する。
 1415年のポルトガル王国によるセウタ征服はその嚆矢。

2. ポルトガル王国の歴史概略
・12世紀初頭レコンキスタ運動の中で現在のポルトガル北部のポルトカーレ伯爵領、コインブラ伯爵領が独立して成立した、キリスト教諸国家の一つ
・十字軍騎士と宗教騎士団を動員して南部へ勢力を拡大
・1249年には最南部のファロに到達
→国王の役割はなにより、軍人である貴族階級の頂点に立ち、戦争(特にムスリムに対して)を指揮すること

・14世紀後半ペストの大流行でポルトガルも社会・経済的混乱
・1383年当時の国王が死去しその娘でカスティーリャ王国王妃のベアトリスが即位すると、内戦状態に
・1385年アヴィス騎士団長のドン・ジョアンが身分制議会(コルテス)で都市民や中小貴族の支持を受けてジョアン一世として国王に選出され、アヴィス朝を開く。
→アヴィス朝は14世紀後半の危機の中で都市民からの支持を受けて成立


→これまで政治的重要性を持つことのなかった都市民から支持を取り付けることで、貴族を掣肘し王権の強大化、15世紀後半以降の絶対王政を準備

 アヴィス朝の主要な王族の系図

3. ポルトガルの海外進出
1415年ジョアン一世は自ら大規模な艦隊を率いてセウタ遠征を行う
・戦略的な説明…ジブラルタル海峡の往来を左右する要地
・経済的な説明…サハラ砂漠の南からもたらされる金や奴隷、東方産の香辛料、そしてマグリブ・アクサー(モロッコ)の小麦といった物産の流れを掌握したいという都市民の願望
・レコンキスタの延長としてみる説明…貴族に遠征への強い支持
→彼らにとってポルトガルのレコンキスタは、1249年のファロ征服で終了したとは看做されていなかった。14世紀中にはマグリブ・アクサーの支配王朝マリーン朝の遠征軍との交戦があったほか、5度に亘ってポルトガルに十字軍を認可する教皇勅書が発行されていた。
 また1411年隣国カスティーリャとの和約が成っていたため、貴族にとって戦争の機会が失われていた。対外遠征によって新たに貴族に名誉と戦利品を獲得する機会を与えることもできた。

 セウタは交易ネットワークの末端に過ぎなかったため、商業的な狙いは失敗に終わり、アヴィス朝の対外膨張に関する政策は分断される。
・西アフリカ沿岸での商業的拡大…都市民の支持
・マグリブ・アクサーでの軍事的拡大…貴族の支持
 一世紀ほどに亘り、商業的関心に結びついた海上の進出と、活躍の場を求める貴族の関心に結びついた陸上の征服が繰り返される。
 ジョアン二世(1481-95)、マヌエル一世(1495-1521)の治世に海上進出が進展。
…ギニア湾のサン・ジョルジェ・ダ・ミナに砦の建設(1482)、喜望峰(1488、バルトロメウ・ディアス)、インドのカリカット到達(1498、ヴァスコ・ダ・ガマ)

1437年、エンリーケ親王とフェルナンド親王によるタンジャ(タンジール)遠征
→大敗、フェルナンド親王はマリーン朝の首都ファース(フェズ)で捕囚
1458年、カスル・サギールを征服
1471年、マグリブ・アクサーの内戦の最中にアスィーラ、タンジャを征服
1481年頃、サフィがポルトガル王に臣従
1485-86年、アザンムールが臣従
1505年頃、マザガン、サンタ・クルス(アガディール)の建設
1508年、ポルトガル軍サフィを占領
1513年、ポルトガル軍アザンムールを占領

・マグリブ・アクサー南部でポルトガルの影響下にある地域拡大
ポルトガル王に臣従し現地の部族集団を率いるムスリムのカーイド(将軍)の存在
1515年にはマグリブ・アクサー南部の中心都市ムッラークシュを直接攻撃

・西アフリカ沿岸での商業的拡大を支える中継地点としての役割
ギニア地域との通商や東回り航路の中継地点としての重要性が増大
これらの都市とポルトガルとの取引自体も活発化

4. マグリブ・アクサーの反応
王朝主導のジハード
・13世紀中葉からマリーン朝がファースを首都に支配
・14世紀半ばのペスト流行とその後の内戦で衰退(→1465年断絶)
・1471年成立したワッタース朝は、成立時の内戦でポルトガルによる征服を許す
→王権確立を優先し、ポルトガルと20年間の休戦協定締結
・首都から離れた南部の都市は安全保障と商業的機会を求めてポルトガル国王に臣従

地域的なジハードの拠点の形成
王朝に代わってポルトガルに対してジハードを行なう地域的な拠点がいくつか成立する。
特に北部のシャフシャーワンと南部スース地方で、シャリーフを中心としたジハードの拠点が誕生する。

シャリーフ…預言者ムハンマドの子孫とされる人々。その血統に由来する宗教的権威によって、しばしば宗教的・政治的指導者の役割を担うことがあった。特にマグリブ・アクサーで最初のイスラーム王朝であるイドリース朝はシャリーフを君主とする王朝で、時代とともにその子孫を称する人物が多数現れた。

・北部のシャフシャーワン
 15世紀後半シャフシャーワンのラーシド家のシャリーフらがイベリア半島からの難民や地域の部族民らを組織し、セウタやアスィーラといった北部のポルトガル要塞に対するジハードを行なう
…支配王朝で会うるワッタース朝は和平協定のため直接ジハードを行なうことはできず、これらの軍事指導者らを支援
→軍事的成功を受けて王朝からの独立を志向、緊張した関係に

当時これらの貴人の中のある若者が[…]グラナダへ発ち、そこでしばらくキリスト教徒たちに雇われて仕え、こうして熟練の戦士となった。その後彼はこれらの(マグリブ・アクサー北部の)山々の一つに戻って住んだ。そこには彼の仲間たちが避難していた。彼は非常に多くの騎兵を集め、ポルトガル人たちの激しい攻撃から山を守った。そのため(ファースの)王はこの男の勇敢な活動を見て彼に石弓兵150を加え、彼らと共に彼は山の人々と戦い、そこから彼の敵たちを排除した。しかし彼は王に帰属している山の税収を我が物にした。後者は怒り、多くの兵を率いて彼を攻めた。この男はすぐに誤りを悔いた。王は彼を許し、シャフシャーワンとその地域の支配を認めた。彼はムハンマドの子孫であり、ファースの建設者であるイドリースの家系であった。彼はポルトガル人たちからよく知られており、非常に尊敬されている。彼らは彼をその名前とその家族の名前で、Hali ben Ras(アリー・ブン・ラーシド)と呼ぶ 。

(Jean-Léon L’Africain. Description de l’Afrique. Tr. A. Épaulard. Paris: Adrien-Maisonneuve, 1956, 1: 271)


・南部スース地方でのサァド家のシャリーフの活動
1505年頃、スース地方の大西洋岸サンタ・クルスにポルトガル人が進出
→スース地方の東ダルア地方に暮らしていたサァド家のシャリーフでムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンと呼ばれる人物が抵抗運動を組織
→地域の宗教指導者の協力や王朝からの承認を取り付けて部族民を組織し、サンタ・クルスやサフィのポルトガル人や、彼らに協力するムスリムの部族民を攻撃
1524-25年、ワッタース朝の支配下にあったムッラークシュを占領(→サァド朝)
→当初名目上は王朝の支配を認めるものの、次第にワッタース朝との抗争に
1541年、サンタ・クルスの占領に成功

この勝利は(サァド朝の)シャリーフたちを今日あるが如き状態に置いた。ここで得た大砲、武器、弾薬によって、捕虜となったキリスト教徒たちによって、そして何より評判(opinion)によって、これまで彼らに服従してこなかった大アトラス山脈や諸州、諸都市のベルベル人たちは皆、ムッラークシュ王国全域で彼らに服従したからである。そしてポルトガル王に仕えていたアラブ人たちの大半は、キリスト教徒たちから離れて彼らに加わった 。
(Mármol y Carvajal, Luys del. Primera parte de la descripcion general de Affrica. Granada: Rene Rabut, 1573, f. 248b-249a.) 

1542年、サフィ、アザンムールが放棄
→サァド朝のシャリーフたちのジハードの指揮官としての評判を一層高めることに
1549年、サァド朝はファースを占領してワッタース朝を滅亡させる
→ポルトガル王はさらにカスル・サギール、アスィーラを放棄
→ポルトガル王の支配下に残った都市は、セウタ、タンジャ、マザガンに限られる
1578年、ポルトガル王セバスチアン率いる遠征軍がマグリブ・アクサー北部のカスル・カビール近郊で大敗、セバスチアンは戦死
1580年、ポルトガルがスペイン王権によって併合(~1640年)

ポルトガルの支配する要塞のその後
・セウタ…ポルトガルが独立した際にスペイン領へ
・タンジャ…1661年ポルトガル王女の持参金としてイングランド領となるが、1688年アラウィー朝(サァド朝の後継王朝)期に奪還
・マザガン…1769年アラウィー朝によって奪還、現在のアルジャディーダ

セウタは現在もスペイン領として存続
・帰属をめぐるモロッコとスペインとの対立
・国境付近のモロッコ人にとっては経済的なメリットも存在


参考文献(一部)
ポルトガル王国について
金七紀男 『ポルトガル史』 東京 彩流社、2010.
芝修身 『真説レコンキスタ「イスラームVSキリスト教」史観をこえて』東京 書肆心水、2007.
立石博高 編 『スペイン・ポルトガル史』 東京 山川出版社、2010.
Disney, Anthony R. A. History of Portugal and the Portuguese empire. 2 vols. Cambridge: Cambridge University Press, 2009.
Kennedy, Hugh. Muslim Spain and Portugal: A Political History of Al-Andalus. London: Longman, 1996.
O'Callaghan, Joseph F. Reconquest and Crusade in Medieval Spain. Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 2003.

マグリブ・アクサーについて
Cook, Weston F. The Hundred Years War for Morocco: Gunpowder and the Military Revolution in the Early Modern Muslim World. Boulder: Westview Press, 1994.
Cory, Stephen. "Sharīfian rule in Morocco (tenth-twelfth/sixteenth-eighteenth centuries)". The New Cambridge History of Islam vol. 2. Ed. Maribel Fierro. Cambridge: Cambridge University Press, 2010: 453-479.
Hess, Andrew C. The Forgotten Frontier: A history of the Sixteenth-Century Ibero-African Frontier. Chicago: The University of Chicago Press, 1978.

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