2013年6月26日水曜日

サァド朝とマフディズム まとめ

Mercedes García-Arenal. "Mahdisme et dynastie sa`dienn". Mahdisme: Crise et changement dans l'histoire du Maroc. Ed. Abdelmajid Kaddouri. Casablanca: Najah El Jadida, 1994.

 この論文は、サァド朝によるマフディー像の利用を、王朝の創始者であるムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンと最盛期の君主であるアフマド・マンスールを中心に分析する。マフディーの名における権力樹立の試みはマグリブでは繰り返し見られたが、統治者がその象徴と宣伝を利用するのは珍しく、この点でマンスールの事例は特殊である。以下の議論ではそれぞれの象徴と宣伝の手段を分析し、マフディー像がどのような言葉で表明されてきたかを見る。そして王朝創始の偉業とその継続の試みの間で見られる矛盾の解決を試みる。マフディー像は単に象徴としてだけでなく権力の象徴体系としても言及される。

 著者はまず、統治者や王が神といくつかの特徴を共有しているという問題に触れ、『王の二つの身体』や『王の奇跡』といった著作に言及する。またドルス(M. Dols)は預言者の奇跡治療者としての力について研究しているし、ドゥッテ(E. Doutté)は聖者と魔術師の力が全く同一で区別が困難であることを指摘している。そして王権が魔術的な起源をもつという概念や、あらゆる君主権に内在する神聖性という概念はよく知られており古典的でさえある。要約するなら、「国家は確立して以降永続性の意志であり、超越性の追求であり、あらゆる超越性と同様に必然的に神聖性で形作られている。人々はこの神聖性を権力を保持する者たちを介して表現しようとした。」この(聖なる王権という)問題について、アフリカでは人類学者が、ヨーロッパでは歴史研究者が関心を持ってきたが、両者の関係は乏しく重なり合うことが少なかった。ギアツ(Cl. Geertz)、ダクリア(J. Dakhlia)、ソ(Michel Sot)らの研究が例外として挙げられる。これらは権力がそれを介して現れるような儀礼やイメージについて議論し、権力の象徴体系についての研究と権力の性質についての研究の類似を示した。マフディー像は以上の前提に基づいて研究することに適している。そして集団的表象と個人的野心の結合する代表的な事例である。「正しく導かれた者」を意味するマフディーは世界の終わりに神から遣わされる最高の支配者であり、終末の前に神の霊感によってムスリム共同体を指導する。マグリブではマフディーは宗教の再生者という固有の特徴を獲得している。そして神による統治権、神によって選ばれ導かれること、預言者の子孫であること、無謬で法に関する最高権威であることによって特徴づけられる。よってマフディーは個人的カリスマの権威を体現し、既存の規範構造と断絶する権利を保持していると同時に、「伝統的」性格の権威を与えて正統化する、家系によるカリスマの保持者でもある。マフディーはマグリブにおいては独自の共同体を創始し導こうとする戦闘的なムラービトであり、そしてスーフィズムと預言者の模範や「良き導き」といった点で密接に結びついている。両者の境界は閉ざされていないのである。人類学において聖なる現象は魔術と宗教の二極との関係から定義される。前者は個人的、後者は集団的なものである。王権にはその双方の基礎があり、魔術的権力は断絶、宗教的権力は永続で家族の崇拝に根付いており、王朝的である。神聖な血統によって獲得された資格が権力を与える。「魔術的」な王は勝者の王であり、力のある王である。「宗教的」な王は王朝的な王である。宗教的な水準での伝統と儀礼は王権の連続性を強調し、君主を先祖の世界と繋ぐ結びつきの価値を強調する。サァド朝のマフディーはこの前提を考察し直すうえでの興味深い事例である。

 サァド家のシャリーフの一族は8/14世紀ヒジャーズ地方からマグリブに移住したとされる。この逸話は、長期間のナツメヤシ栽培の不振に不安を覚えたダルア地方の住民が、預言者の子孫が持つバラカの魔術的な力を期待したと伝えている。同様の話はアラウィー朝の先祖にも知られており、聖なる家系と結びついた東方の起源は魔術的な性質を獲得していた。王朝初代のムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは15世紀末に活動を開始し、法学者として知られていたが、同時に魔術を行なっていたとされる。また彼は戦闘的なムラービトとして活動し、東方への巡礼中も含めて各地で悪を禁じ善を命じていた。この種の逸話はムワッヒド朝マフディー=イブン・トゥーマルトにも見られ、マグリブの歴史における回帰的な要素である。またその2人の息子については、将来人々の指導者になることを予言する夢や魔術的な印が伝えられている。彼はこの種の主張を繰り返し、マフディーと称されていた。そして915/1510年バイアを受けると、マフディズム的な響きを持つ「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」を名乗った。またサァド朝の政治運動とジャズーリー教団は協力関係にあったことが知られている。その開祖ジャズーリーは支持者の一部からマフディーとみなされていたし、その発言にもシャリーフという血統の高貴さを強調するもの、そして預言者の言葉を借りて自身がマフディーであることを宣言するものが見られる。ムハンマド・ブン・アブド・アッラフマーンは、ジャズーリーが結びついていたスース地方のマフディズムの伝統を意識的に利用したのである。そして彼の宣伝の中では、その2人の息子も魔術的な記号を付与されている。その後彼は息子たちをファースに送り、教育を受けさせている。聖性の正当化には、ファースのウラマーの系譜に連なることもまた必要とされたのである。またジャンナ―ビーによれば、1513年頃サァド朝の支持者たちはアフマド・アァラジュのことをファーティミーと呼んでいた。ところがイフラーニーは、彼らがシャリーフの系譜に属することと、このことについてウラマーの確証を得たことに依拠して彼らが正当な統治者であることを示そうとしており、マフディズム的な要素は消えている。つまり王朝的カリスマだけが持続している。
 しかしその後もサァド朝の統治者たちは、ウラマーの支持が得られない時や既存の規範を侵犯する時には、マフディー像を利用し続けた。1554年ファースを征服したムハンマド・シャィフは、墓の銘文で、古い規範を破棄し新たな規範を作りうる人物であることが示されている。そして個人的な特徴が強調されており、その先祖、つまりムハンマドの法を革新するために神が指名したという例外を除き、家系への言及は見られない。またシャリーフであることは魔術的な特徴を排除するものではない。ムハンマド・シャィフは[ママ]1524年ムッラークシュを占領し1554年までマリーン朝=ワッタース朝との戦いを続けるが、そのうち特に重要なのは1549年と1554年の2度のファース包囲戦である。そして包囲戦は既存の権力の合法性を根拠にサァド朝に抵抗した有力なウラマーの殺害を伴った。1549年の包囲戦の際ムハンマド・シャィフはファースの高名な法学者ワンシャリースィーからのバィアを取り付けようと試みたが、法学者は法的な理由がないことを理由にこれを拒んだ。ミクナースやファースの他の高名なウラマーたちもムハンマド・シャィフとの戦いを呼びかけ、殺害された。これらのウラマーにとって、権力が正当であるためにはその合法性を彼らから承認される必要があり、サァド朝の権力はこの点で不当であった。そしてムハンマド・シャィフはこの意見に対して、マフディーとして、古い規範を破棄し新しい規範を作る法の革新者として、彼の魔術的な性質と無謬性の特徴を突きつけたのではないか。伝統的な権威の基準の擁護者の支持が得られない時には、個人的カリスマだけが権威と権力の基準だったのである。

 ムハンマド・シャィフの後継者であるアブド・アッラーフ・ガーリブがマフディーの名前で参照されている事例は見当たらない。むしろ彼はスーフィーのアフマド・ブン・ムーサーの証言によって、偉大な聖者、枢軸(クトゥブ)であるかのように示される。また彼は公共建築の建設者であったが、それを錬金術によって実現したと伝承は伝えている。神権統治の概念や君主の超自然的能力に関する象徴的な要素は、アフマド・マンスール・ザハビーの事例においてより顕著である。幼少期のアフマドの偉大な将来を予言する逸話は数多く、それらを紹介する中でイフラーニーは、政治権力は預言者の、さらには神の指名によって正当化されるという考えを承認しており、アフマドが行ったその神格化の宣伝活動を我がものとしているように思われる。アフマドが1578年ワーディー・アルマハーズィンの戦いで勝利してから後、諸史料は象徴的重要性を持つ逸話や典礼、豪勢さや栄光や宮廷儀礼について章を割いている。これらはカリフの壮麗化、神格化を意図した宣伝活動だった。その逸話の一つとして、ターンスィフト河畔で軍隊を前にして行った、息子ムハンマド・マームーンへの後継者指名の儀式が挙げられる。また預言者生誕祭(マウリド)やバディー宮殿建設、旅行や謁見の壮麗さが挙げられる。バディー宮殿は謁見と贅沢のためだけに用いられており、様々な象徴的な意味が込められていた。この宮殿でアフマド・マンスールによって実施されたマウリドは、その描写からは、先祖である預言者以上にカリフの名誉のために行われたように思われる。この祭りには王国の様々な社会階層の代表者たちが参加し、ヒエラルキーによって秩序付けられており、史料の記述では宮殿の様子は楽園に擬えられている。断食明けの祭ではスルターンは白馬に乗って軍隊に取り囲まれて現れ、ファーティマ朝から借りたパラソルの下で、半ば聖者、半ば戦士のように描写されている。その表現はアッバース朝のカリフのラカブを想起させるもので、偉大な過去の連続性と混入が行われている。そして寛大に贈り物を与える様子は豊富な雨の比喩で描写されており、これはハディースの、終末の前に現れて惜しみなく金品を与えるカリフの主題を想起させる。そのほか、闇夜を照らす月にカリフを対比する主題も用いられている。マンスールの旅行の壮麗さや儀礼は、預言者とその教友たちとの擬態によって王朝的・宗教的な意味を持った連続性を導入し、しかも単なる擬態だけでなく、預言者との系譜上の繋がりをも主張している。ヴェール(スィトル)の採用はファーティマ朝とアッバース朝から借りたもので、カリフと他の人間との差異と、神のカリフとしての例外的なアイデンティティーを示唆する。反乱の王朝による鎮圧に関する記述もまた、スルターンが預言者の振る舞いを再生産し、共同体をジャーヒリーヤのレプリカである無秩序から解放するという点で、正当化の意図を持っている。
 宮廷詩人たちの作品の中でアフマド・マンスールはマフディーであることが示唆されている。この印象は、年代記作家たちの記述を信じるなら一般民衆にも共有されていたようである。カッサールやムッラークシュのムフティーがアフマド・マンスールに捧げた作品は、後者がハディースに述べられているその世紀の革新者であることを主張している。またシャーティビーはマンスールをマフディーに擬えている。またイフラーニーが引用する一文では、マンスールによるスーダン征服は、ペストの流行や反乱、物価上昇、(スペインによる)オランの占領とともに、ファーティマ家のイマーム、マフディー到来が近いことの予兆であるとされる。スーダンの征服はウラマーから強い反対を受けた事業であり、マンスールはメシア的な主張によってこれを正当化する必要があったのではないか。一方ペストについては、イスラームではこの現象が生み出すのは「典型的な恐怖」であって、キリスト教ヨーロッパのように救世主的運動として表れることはなかった。マンスールのマフディズムへの参照はスーダン征服と関連して現れるが、その文書局の書類やフィシュターリー、イブン・アルカーディーといった年代記作家たちはマフディーという単語を用いることはなく、むしろ預言者との一体化、さらには神格化を行なっている。マンスールの大地とムハンマドの預言を相続する権利が言及され、「預言者の」という形容詞やカリフ位、イマーム位といった言葉が用いられている。そしてマンスールが、その唯一正当な政府のもとに、全てのムスリムを統治しウンマを統一する権利が強調される。逆にマンスールの支配を認めた者だけがウンマなのである。スーダン遠征の前にフィシュターリーが起草し、ボルヌーのスルターンに送られた書簡は、アフマド・マンスールこそが預言者と預言の後継者であり、大地を統治する権利を保持した普遍的皇帝(Empereur unversal)であり、ムスリムたちの唯一正当な政府であり、先行する政府全ての後継者にして継続者であり、その頂点であるとして、その征服を正当化している。そしてその支配下に入らない者は異端的であり、攻撃を受けるであろうと述べている。カリフ=マンスールは神から個人的に指名を受け、聖なる統治の力を持ち、神の本質に与るのである。スーダンはスンナ派の国であり、その征服はウラマーの強い反発を呼んだ。つまり、ファース征服のときと同様、君主の行動が法的な支持を受けず、正当性を得られなかった。この遠征の後各地に送った手紙の中でマンスールは、スーダンの征服が預言者の一族、ファーティマ家、アリー家のカリフによる、不信仰者に対する勝利であることを繰り返し述べている。そしてこの勝利によって、不信仰者の土地がムスリムの支配下に入ったのだと主張している。数か月後トンブクトゥで反乱がおこると、サァド朝の指揮官マフムード・ザルクーンは町のカーディーに手紙を送っている。その中で指揮官は、サァド朝の権力は神が預言者の子孫に与えたものであり、それは将来イエスの手に渡ることを述べている。ここでイエス=イーサーは、終末にマフディーがダッジャールを倒すのを助けるとされる人物であることを思い起こす必要がある。そして手紙の中で、悪魔の誘惑によるもので、棄教であり不信仰であると断言している。つまり、カリフに従う者だけが良きムスリムであり、反乱を起こせばその資格を失うのである。またこの征服の際にフィシュターリーが作った詩では、黒人の肌によって象徴される闇の消尽と、カリフの支持者と反対者の根本的対立の主題が用いられている。これは救世主的プロパガンダに典型的な二項対立である。最後に、この遠征の際に捕虜としてモロッコへ連行された法学者アフマド・バーバーとの会見において、アフマド・マンスールはカーテンの奥に隠れていた。アフマド・バーバーが見抜いたように、マンスールは預言者の模倣から神の模倣へと移行していたのである。

 著者の結論は以下の3点にまとめられる。
 アフマド・マンスールのマフディズムの主張は、その人格の強力な神格化から発したものである。そしてイスラーム共同体の王朝の正当性と唯一の指導を再構成し、単一の共同体に対する君主権を確立することが、王朝固有の正当性の条件となった。この中世イスラームの伝統である正当化の議論は、マグリブでは明らかに救世主的な含意を含んだ言語によって具体化し、カリフの地位の主張と密接に結びついた。
 アフマド・マンスールの権力を正当化する言説はマフディーという単語は用いなかったものの、マフディズムを明確に想起させる。ただしマフディーが「魔術的」な人格であるのに対して、マンスールの言説は彼を「宗教的」モデルの内部に位置づけており、これは12世紀以降のマグリブで有効だった王朝創始者たちの言説とは非常に異なっている。
 サァド朝のもとでシャリーフィズム、マフディズム、スーフィズムの3つの要素が結合し、その結果として新しい非常に固有の何か(政治制度?)が生み出された。

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