2013年7月25日木曜日

権力の言語 まとめ

Stephen Cory. “Language of Power: the Use of Literary Arabic as Political Propaganda in Early Modern Morocco”. The Maghreb Review 30(1), 2005: 39-56.

 1585年サァド朝君主アフマド・マンスールは、現在のカサブランカ近辺のターマスナー平野で、息子で後継者のマァムーンに対するバィアの儀式を挙行しました。この儀式にはモロッコ各地の名望家たちが出席し、書記官アブド・アルアズィーズ・フィシュターリーの起草したバィアの文章が読み上げられた後、各人スルターンの前で服従の誓いを行ないました。

 フィシュターリーはこの文章を、彼の著した年代記の中で引用しています。その中ではサァド朝のイスラーム世界全体に対するカリフ位が主張され、その理論が詳細に説明されています。アッバース朝の衰退以降途絶えていた普遍的なカリフ位の主張が、16世紀の国際情勢とサァド朝のシャリーフの血統を重視する政治的主張によって復活したわけです。

 マンスールの宮廷で作成された文献は、非常に複雑で様式化されたアラビア語で書かれており、また非常にバイアスの掛かった、そして非現実的な内容を含むものです。そのため歴史研究者はしばしばその史料価値を軽視してきましたが、コーリーはこの種の文献の史料価値を擁護したうえで、これらに用いられている言語そのものが、君主と臣下の分離を強調する働きを持った、「権力の言語」であったと主張します。そしてバィアの文章の中で述べられているシャリーフの政治イデオロギーが、サァド朝滅亡後もアラウィー朝によって継承されていることに注目しています。

 論旨は興味深いのですが、若干気になる点を挙げると、
・サァド朝によるカリフ位の主張は16世紀前半アァラジュの治世で既に公然とされている
・そもそもムワッヒド朝の後継諸王朝においてもカリフ位の主張はされている
・シャリーフと政治権力の結びつきはマリーン朝期においてすでに見られる
といった、マンスールの治世以前の状況に関する認識の粗さが目につきます。
 それからコーリーは、サァド朝宮廷の称賛文学が、若干のモロッコ人研究者を除いて、現代の研究者から無視されていると述べていますが、それは誇張でしょう(そもそもこの著者は、先行研究に対する目配りが極めて乏しいように思います)。
 また〔〕で括って示しておきましたが、アラビア語の翻訳は必ずしも丁寧にされているわけではないかもしれません。この箇所、訳文に括弧が多いので気になってチェックしたのですが、(大意はそこまで変わらないとはいえ)誤訳といってよいと思います。他の研究者がテキストの難解さゆえにこれらの文献を利用していないと非難している時に、このような問題はまったくいただけない。雑誌自体もちゃんと編集しているのか、心配になる個所が散見されますし…

 いずれにせよ、マンスールの治世の安定は16世紀末以降の社会・経済的危機の中で失われていき、その急死とともに王朝は急速に崩壊していくわけです。その政治的危機に、マンスールの提唱した政治的イデオロギーや儀式がどの程度、どのように影響したのか、検討する必要があるように思います。




〔序文〕(39)

1585年のバィアの儀式
サァド朝スルターン=アフマド・マンスールはターマスナー平野で、息子で後継者のムハンマド・シャィフ・マァムーンに対するバィアの儀式を挙行
バィア=服従の誓い、イスラーム共同体が選んだ支配者に対する同意の契約
→スルターンの権威を追認する手続きに

マァムーンに対するバィアは1585年で二度目
・バィアを行う人々の範囲を拡大する
・モロッコ社会の影響力のある人々の前で政治的正当性の教説を詳しく説明する機会

普遍的カリフ位の再主張(40-44)

イスラーム初期(9世紀中葉まで?)のカリフ
・カリフ=神のカリフ(ḫalīfat Allāh)、服従は救済の前提条件
・預言者との血統による結びつきの強調(cf. シーア派)

9世紀中葉以降のカリフ位
カリフの政治的権威衰退によりムスリム全体への普遍的な権威を主張することは困難に
イスラームの統一性のシンボル

16世紀初頭オスマン朝がアラブ世界を征服、トルコ人
カリフ位の主張を開始←オスマン朝の覇権の法的根拠を示す必要
「信徒たちの指揮官」の称号はほとんど用いられない

サァド朝…同時期にカリフ位を主張
シャリーフ(預言者の子孫)の血統を支配の正当化に利用
・大西洋岸を征服したポルトガル人に対するジハード
・ファースを支配するワッタース朝との競争
論理の上ではイスラーム世界全体の正当な支配者であることを意味する
→ムハンマド・シャィフはオスマン朝と対立
シャリーフによる主導権の理論をウラマーに体系的に提示する必要
…ムハンマド・シャィフの息子の一人、アフマドの仕事

アフマド…1578年ワーディー・アルマハーズィンの戦いの後即位
・父の時代からオスマン朝との関係緊張
・自身のほうがオスマン朝よりも信徒の指揮官の資格に相応しいと宣言
〔前任者たちは非公式な使用に留まっていた?〕
・宮廷での称賛文、西アフリカの征服、金曜礼拝のフトバ、建築物の碑文で主張
・先行する諸王朝との比較
→シャリーフとモロッコの政治的主導権の結びつきはサァド朝の新機軸
〔ムワッヒド朝の後継者がカリフ位を主張することはなかった?〕
〔15世紀末までシャリーフが政治権威と結びつくことはなかった?〕
・バィア更新の儀式によって、自身とその後継者に対するモロッコの名望家たちの忠誠を再確認

ターマスナーでの儀式(44-51)

フスタート(パビリオン)=移動する宮廷
参加者…部族(アラブ・ベルベル)の族長、ウラマー、軍高官(トルコ系・アンダルス系)、スーフィーの師匠、シャリーフ、サァド朝王族

バィアの文章
・書記官アブド・アルアズィーズ・フィシュターリーが起草、読み上げ
・インシャーの複雑な文体
→ムッラークシュのカーディーが隣で難解な個所を註釈
・読み上げの後、参加者たちはスルターンの前でウクバ・ブン・ナーフィイのクルアーンに手を置いて服従を誓う(サァド朝王族は数日後別個に行う)

バィアの文章=サァド朝カリフ理論の詳説
・カリフ位の制度の中心性
・カリフ位継承の問題
→カリフ位に関するマンスールの独占的な権利を示す目的
・サァド朝がアッバース朝の真の後継者であること
・「戦争の家」の領域に対するイスラーム拡大の義務=「聖戦士」であること
・マンスールの治世が公正さと正義に満ちていること
・マンスールが敬虔な指導者であること
〔引用文中に著者の説明が混在?〕
・専制ではなくウラマーの諮問と同意によって統治すること
→マァムーンの後継者指名は人々の希望によるものであること
・救世主的なイメージや終末論の利用
・マンスールがイスラームのウンマの指導者として全てのムスリムを支配すること
→マンスール=イマーム、スンナ派とシーア派の対立の克服?
・モロッコに真のカリフが存在する理由(⇔オスマン朝のカリフ)
・マァムーンの後継者としての適性
→「(人々は)あらゆる状況での彼の公正さ、導き、知識を目撃したとき、信徒の指揮官が彼らの誓いを(受けるようマァムーンに)指名することを篤く願った」
〔訳に疑問:
‘(the people) earnestly desired that the Commander of the Faithful appoint (al-Mamūn to receive) their oath when they witnessed his justice, guidance, and knowledge in every circumstance’.
مناهل الصفا، 87. [لم تزل] رغباتهم إلى أمير المؤمنين في نصبه لعهدهم مشتدة لما عرفوه وشاهدوه من عدله وهديه وتعرفوه في كل الأحوال من مشكور سعيه ويمن نقيبته ورأيه...
彼らは彼の公正さ、導きについて知り目撃し、そしてあらゆる状況での彼の称賛に値する振舞い、幸運なる気質と意見について慣れ親しんだため、彼らの誓いについて(受けるように)彼に指名することへの、信徒たちの指揮官に対する彼らの願いは強まるばかりであった。〕
・カリフ=マンスール個人への重要性の強調
→儀式の際のバィアに対する熱狂的で満場一致の同意
→バィアでの約束に反した者に対する現世と来世での悲惨な懲罰

バィアの歴史史料としての価値(51-54)

フィシュターリー…儀式の後ワズィール・アルカラム(書記長官)に昇進
→書記の起草した文章に対するマンスールの喜びを示す
後世のモロッコの歴史家たち…バィアの文章に対する関心は乏しい
現代の研究者たち…むしろマムルーク朝期以降のイスラームの学術全般の衰退の証拠
→イフラーニーの記述を重視…マンスールの没後100年以上後に執筆、マンスールの情報に関して宮廷の讃美者たちの記述に依存

インシャー・テクスト=マンスールの国家が残したもっとも豊富な資料
→称賛の文体はその史料価値を全く損なわせているのか?
Cf. イブン・アルカーディーのal-Muntaqā al-maqṣūr
校訂者Muhammad Razzouqの主張
・賛美史料の問題は前近代の歴史叙述全般に通じる
・賛美史料を書く歴史家が置かれていた状況は、歴史家が宮廷と密接に結びつくことを可能にした条件でもある
・君主の評判と直接結びつかない領域では価値のある情報が得られる

前近代イスラームの歴史家たちは政府の中で要職に在った
→体制や支配者たちについて、宮廷の外部者からは得られない特権的な情報を得られる
フィシュターリー…ワズィール・アルカラムとしての地位によって知り得た情報、多くの一次史料(通信文、勝利報告、高官の任命書)をテクスト内に挿入、同時代人からの尊敬

情報の偏りの問題
・ヨーロッパ人の外交官や商人たちも同様にバイアスがかかっている
・後世のモロッコの歴史家たちにはその時代の制約がある
(アラウィー朝はサァド朝の競争相手であり、後者は正当性を欠いているとみなす)

⇒バィアのような称賛史料にも外部からの史料と同様の価値がある

権力の言語(54-56)

インシャー・テクストの歴史的理解への貢献
・バィアが読み上げられた環境への描写
参加した名望家たちはマンスールのフスタートで、自身の権力基盤から切り離された状態で、後継者に対するバィアを行なう
・スルターンの宮廷の学識、洗練、威厳への注目
バィアの文章…ムッラークシュのカーディーが聴衆に翻訳する必要があるほど複雑
「テクストの様式化された宮廷のアラビア語は、体制と、過去の偉大なイスラーム諸王朝との結びつき、そしてマンスールのその多くがベルベル人である臣下との分離を強調」
⇒歴史的なカリフのイメージの利用や、純粋なシャリーフの血統の主張と同様の目的

マンスールの治世の安定性
・マンスール自身の政治的スキル、軍隊、財政
・儀式や称賛のテクストの効果
⇒マンスールの後継者たちはその儀礼と政治的正統性の理論を模倣

マンスールの没後サァド朝は崩壊
・近世の現実とは相いれない旧式の支配モデル
・南方への拡張によるサハラキャラバン交易の破綻
・後継者マァムーンの支配者としての失敗
⇒シャリーフ・イデオロギーの失敗ではない
サァド朝の後に成立した王朝は、やはりシャリーフの一族によるアラウィー朝
モロッコの外部に対する権威は主張しないとはいえ、「信徒の指揮官」の称号を採用
このカリフ位を、アフマド・マンスールがその政治的プロパガンダで利用したのと同様のイメージの多くを反映した儀礼、儀式、衣服を介して、視覚的に主張

結論(56)

前近代マグリブ
・政府=支配者個人の拡張
・政治的同盟の流動性
・国家のインフラの不十分さ
王朝の成功は、その君主が臣下に対して自己の権威を正当化することにどの程度成功するかにかかっていた。そして宮廷の称賛文学の作者たちは、君主の指導権を神の恩恵と結びつける観念を促進するために雇われていた。
→君主にとってのこの文学の重要性

歴史研究者はこれらの史料を周辺的な価値しかないとみなしがち
…極度のバイアス、空想的で信じがたい主張や逸話、非常に複雑で様式化された文体
著者の主張する称賛文学の有用性
・君主が促進した政治的イデオロギーの理解
・歴史的事件への洞察
Ex. 1585年のマァムーンに対するバィアの文書
マンスールにとってこの文章は、自身と後継者のイスラーム世界全体のカリフとしての覇権を基礎づける重要な手段であった。そしてこの事件で見られた政治的イデオロギーと儀礼的実践は、アラウィー朝によって利用された。

インシャー文学:
君主と臣下の分離と、イスラーム共同体の主導権争いを助ける「権力の言語」で書かれる
アラウィー朝の成功の理由を理解するうえで有用

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