2014年1月31日金曜日

部族の族長とムラービトゥーン まとめ

Voguet, Élise. "Chefs de tribus et murābiṭūn". Mélanges de l'École française de Rome - Moyen Âge. 124.2, 2012: 375-82.

 この論文で言うムラービトゥーンとはムラービト朝のことではなく、リバートに籠る人々、つまりいわゆる「イスラーム聖者」のこと。15世紀編纂されたファトワー集をもとに、中世末期中央マグリブの「田舎のエリート」の機能や性質、そしてスルターン国家との関係について論じています。

 このファトワー集はJacques BerqueやHouari Touatiも利用してきた文献で、Al-Durar al-Maknūna fī Nawāzil Māzūnaといいます。近年アルジェリアのコンスタンティーヌ大学の院生が学位論文という形で分担して校訂しているらしく、部分的ながらPDFが大学のデポジトリからダウンロードできます。

 論文の要点としては、
・中世末期中央マグリブでは、主にベドウィン部族の族長とムラービトゥーンが田舎のエリートを構成していた
・特に中央集権的な国家の権威が及ばない地域で、両者は国家の機能を代行し、富を蓄積し、国家と競合する独立性の高い権力となっていた
・ベドウィン部族の族長はスルターンと同様に、支配下にある地域住民の安全保障と引き換えに服従と納税を認めさせており、この住民を保護することによって富を得ていた
・ムラービトゥーンは地域住民にとって、国家から任命される統治者やカーディーよりも利用しやすく頼りになる調停者であった
・彼らの紛争調停という政治的機能を国家は正当化し、その支配が及ばない地域での代替として利用した
というところでしょうか。
 Berqueの「文学的な」議論を良くも悪くも整頓したような…あとところどころ、よく意味の分らない言葉づかいが出てくるのが困るのですが…。




〔導入〕(375)
 中世アラブ・ムスリム諸国のエリートに関する議論は、史料上の制約からそのほとんどが「都市民のエリート」に関するものだった。しかし15世紀に編纂された2点のマーリク派ファトワー(法学裁定)集は、ベドウィン部族の族長と、ムラービトゥーンと呼ばれる農村の聖者という「田舎のエリート」の存在の問題について議論することを可能にする。史料中でベドウィンの族長たちは「部族の目」「部族の顔」「部族の族長」「アラブの大物」「アラブのアミール」といった呼称で示され、他の部族民と区別される。聖者たちの集団も、ムラービトゥーンという用語で認識され、社会の他の要素とは区別される。そして 部族の族長とムラービトゥーンたちは、田舎の共同体と中央の権力の仲介者、調停者としての立場、富の蓄積、自治という3つの特徴によって区別される。

「新しい共同体(376)」とは?

機能的エリートたち?(376)
 中央集権的権力の主要な強制力である軍隊は、スルターンを支持するベドウィンによって構成されており、「アラブの大物」は中央権力に味方しその部族民たちを従える。よって部族のエリートは軍事的「エリート」である。またスルターンは部族の族長たちを、ある地域の徴税や裁判に関する権限をもったカーイドに任命し、中央行政の中に統合する。よって部族の族長たちは、中央の権威から権力を譲渡された機能的「エリート」を形成する。
 聖者の共同体は未開発の土地の利用、地域的な商業の発達、住民の定住化を請け負う。中央権力は「シャイフとその一族と墓の祝福」を得ることを求めて、共同体の創始者とその子孫を承認し支持するが、田舎の定住共同体の発達による反抗的な遊牧民の土地の平定、街道の安全確保、そして統制と徴税が可能な領域の拡大もまた目的としている。中央政府に対して反抗的な領域に対する統制を強化するため、公的な権力の譲渡ではなく、威厳と民衆の熱狂を享受する非公式のエリートの利用がなされる。
 スルターン政府によるこれらの「エリート」の利用は、彼らの富の蓄積に貢献することで、その明確化と強化に関与している。

経済的エリートたち(377)
 田舎の「エリート」たちは富の蓄積の能力においても幅を利かす。
 部族の有力者たちは軍事的貢献の代価として土地を授与される。ムラービトゥーンも公有地から土地を多数譲渡される。ただし法学者たちの見解では、ベドウィンにイクターとして譲渡される土地は用益権の譲渡であって、私有権の譲渡ではない。ただし法学者たちのこのような立場は、実際には譲渡された土地が占有され世襲財産に変化していたことを反映している。ムラービトゥーンに対する譲渡は私有権の譲渡だとされるが、その一方で用益権の譲渡に過ぎず、土地から得られる収益でムラービトゥーンの共同体の必要以上のものは、ムスリム一般の利益のために用いられねばならないという見解もある。
 ムラービトゥーンはザカートやウシュルといった税収の一部を受け取るほか、多数の贈り物を得る。また免税も認められている。
 部族の族長も税収によって富を蓄積している。中マグリブのある部族は、スルターンから譲渡された土地で、自らのために税を徴収している。あるアラブの大アミールの財産の大半はスルターンが譲渡した土地の地代(ハラージュ)から得たものである。さらに幾人かの族長はザカートさえ受け取っており、法学者イブン・アラファはこの慣行を規制しようと試みている。
 ベドウィンの族長たちは文献において何より夜盗として現れ、当時の法学者は彼らに対する戦闘をジハードとして推奨した。マーリク派の法学者たちの幾人かは、キリスト教徒に対して行われるものより優れたジハードであるとみなしていた。この襲撃から得られる富に加えて、旅行者たちに対する保護の費用として得られる収入もあった。ムラービトゥーンも街道の安全の確保や宿所の提供をしながら商品流通によって利益を得ていた。また隊商に同行し一定の報酬を得ていた。
 部族の族長もムラービトゥーンも交易によって富を蓄積していた。ザーウィヤは地方の市の創設に関わり、現物で得た物資の余剰を現金化をすることができたし、部族の有力者たちも商取引に投資するに十分な財力を蓄積していた。法学者は彼らとムスリム共同体との商業的関係を成文化した。
 これら税収、土地、商業的資源全体の蓄財は、部族の族長と田舎の聖者を経済的エリートにした。これらの富は彼らに、地域的な規模での社会的、政治的生活に対する彼らの権威と影響力を交渉することも可能にした。

「公有地 terres du domaine public(377)」とは?

自立し競合するエリートたち(379)
 不服従のベドウィンの部族を服従させるため、スルターン国家はその族長たちと交渉する。その妥協の結果として、族長たちは国家を物質的にも象徴的にも攻撃する手段を獲得する。彼らが支配する土地のリソースを占有するとともに、国家の中央政府の権威と領土の統一性を脅かすからである。こうしてベドウィン部族の族長たちは、彼らが支配する土地において、国家と競合する権威を打ち立てることになる。幾つかのファトワーは、ベドウィンのアミールたちに譲渡された土地では、スルターンの権威は及ばず、その統治者に代わってアミールたちが任命した統治者が行政を行い、徴税を行う。アミールたちは彼らが支配する土地において、事実上の権威者となるのである。法学者たちはこの支配を強制的で不正なものだと宣告を下す。
 ベドウィンの部族にある地域の住民が服従するとき、後者が前者の族長から期待するものは、スルターンから期待するものと同じである。ベドウィンのアミールたちはある地域でその支配者と認められているが、同時にその住民の安全を保障するものだとみなされている。つまり両者の関係は、保護の代償としての従属と納税なのである。そしてアミールたちはその支配下にある住民との契約を尊重しており、その権力はスルターンの権力と同様に承認されていたと考えるべきである。アミールたちはその支配下にある村落との保護契約を順守することで村落を保持し、そこから富を得ることができたからである。
 ベドウィンの部族と彼らに従属する住民の良好な関係を示す証言にもかかわらず、法学者たちは両者の関係を辛辣に非難する。ベドウィンの有力者に訴訟を持ち込んだ結果その収奪を招いた人物を非難する事例は、紛争の解決には法学者の手に寄らない付随的な方法が存在していたこと、そして法学者と「部族エリート」の管轄の競合が生じていたことをむしろ示している。国家の中央集権化とその帰結である法の中央集権化から逃れた土地において、その住民は独立した政治権力にのし上がった地域的な権威に自発的に向かったのである。
 ムラービトゥーンもまた、彼らが暮らす地域の住民にとっては公的な統治者やカーディーより利用しやすい政治的機関であり、紛争解決のための有能な仲介者であった。しかし法学者たちは彼らの執り成しを有効であるとみなしたものの、彼らに固有の役割を認めることは注意深く避けていた。それでも彼らは「相互理解を望む集団間の最良の仲介者」であった。ファトワーでは彼らの政治的介入の言及が少ないが、ムラービトゥーンによる政治的権威の行使を、法学者たちはその固有の管轄領域への侵害と考え、これらの事実上の権限を法によって制限しようとしていたのである。また聖者伝史料や旅行記といった文献は、聖者による政治的権威の行使の事例を伝えており、その強力さを明らかにしている。そしてスルターンはこの権威との競合を恐れ、また彼の支配から逃れた土地での彼の権威の代替として利用するため、ムラービトゥーンと和解し、権威の委譲と引き換えに彼らのザーウィヤを仲介者とすることを可能にした。こうして中央政府は、紛争調停という彼らの政治的機能を正当化した。
 部族の族長とムラービトゥーンは、地域的な規模での彼らの権威を確立し、さらには中央権力のそれとの競合さえ可能にするような自立性を享受していた。これらの地域的なエリートは従って、状況に応じてスルターン国家との対立と和解、抵抗と服従の間のある場所に位置した。

〔結論〕(381)
 1511年5月26日のムスタガーナムの降伏文書でも、部族の族長と聖者の共同体の長は「エリート」として明確に区別されている。彼らの有力者としての地位は彼ら自身の集団内での地位によるものであり、この身分は、中央権力から委譲された機能、経済的優位、地域的な事実上の権威と田舎の共同体の指導者として社会・政治的な役割によって認められている。
 最初この2つのエリート集団は、ムラービトゥーンが部族の族長による略奪経済を抑制するという形で対立していたが、ムラービトゥーンによる「アラブの悔い改め」という回路によって、部族の族長はより公的なエリートに加わっていたと解釈し得る。

史料・二次文献一覧(382)


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