2014年3月19日水曜日

16世紀スース地方の食生活:大麦を食べると…?

 あまりちゃんと更新していませんが、小ネタ紹介。妙なタイトルが付いておりますがお気になさらずに…

 17世紀初頭にスース地方のあるウラマーが著した、あまり知られていない小さな聖者伝『マナーキブ・バウキーリー』を読んでいたのですが、16世紀マグリブ・アクサー南部の食生活に関する妙な記事に行き当たりました。




 先にこの文献についてもう少し詳しく述べておくと、著者はムハンマド・ブン・アフマド・ムラービト・バウキーリー・スースィー(محمد بن أحمد المرابط البعقيلي السوسي)という人物です。彼について詳細は知られていませんが、史料の校訂者である20世紀前半から中葉にかけての歴史家ムフタール・スースィーによれば、モロッコ南部スース地方のジャズーラと呼ばれる地域、アンチ・アトラス山脈の周辺で活動していた師匠から学んだ法学者でスーフィーであり、没年は不詳だがヒジュラ暦11世紀の10年代以降であるとのことです。この著作は彼が訪問し学んだ師匠たちの伝記集で、タマーナールティーの『ファワーイド・ジャンマ』と並び、この種の文献としてはスース地方で最初の作品と考えられています。

 問題の個所は29-30頁、アブドゥッラフマーン・ブン・アリー・ブン・ムハンマド・ブン・アブドゥルアズィーズという、ジャバル・ベニ・アフマドという場所に住んでいた聖者の記事。どこや!と思いながらムフタール・スースィーの註を手掛かりに捜すと、どうやらここではないかと思われる地点はあるのですが、正直確信がありません…。

 さて、著者の師匠の一人であるムハンマド・ブン・ユースフ・タルギーが直接著者に伝えたところでは、彼はアッラーのワリーに会いたいと願っていたが、マラケシュの町でも他の町でも果たせぬまま、時が過ぎていたとされます。
そしてついに至高なるアッラーは、ジャズーラ地方のスィディ=アブドゥッラフマーン・ブン・アリーを訪問する旅を私にお命じになりました。至高なるアッラーが我らを彼のところへ到着させてくださったとき、彼(アブドゥッラフマーン)の奉仕者たちは我らを客人たちの宿泊所に泊まらせました。そして夕食の時間になると彼らは大麦(شعير)の食事を持って我らのところへ来ました。それは調理した鳩を乗せたクスクスの料理でした。彼らは食事のため手を清めようと、水を注ぎ始めました。しかし私は心の中で考えていました。
「大麦の食事を食べようか、やめようか…私は生涯で一度もそれを食べたことがないのだ。フェズの町でも他の町でも。そしてそれを食べた町の人々が死から逃れることは少なかった。」 
それから私は心の中で言いました。 
「私の意図はこの人物を訪問することであった。もしアッラーが死をお前に天命となさったのなら、それは歓迎すべきことである!」 
こうして私は客人たちとともに食べ始め、食べ終わりました。すると奉仕者たちは我々に寝具を用意しました。私は右手を下にして、キブラを向いて横たわりました。この様な状態で死にたかったのです。というのも私は、大麦の食事を食べたのだから、朝には生きてはおるまいと確信していたからです。
ここでタルギーがキブラ(マッカのカアバの方角)を向いて寝たのは、ムスリムは頭をこの方角に向けて埋葬されるからで、死を覚悟していたことを強調したものでしょう。しかし、なぜ大麦がこれほど恐れられているのか。

 この記事が書かれた17世紀後半のウラマー=ハサン・ユースィーは『ムハーダラート』の中で、マグリブ・アクサー各地の住民の好物を少しおどけた調子で記述しながら、ベルベル人(当時のスース地方の住民は大半がベルベル人だと考えられます)のそれは大麦のアスィーダ(スープ)とオリーブだと述べています。そしてスース地方の東に位置するダルア地方の住民が好物とするハリーラをアラブ人は拒絶するし、フェズの人々は差し出されたアスィーダを見るなり仰天した、などと述べています。

 今日のモロッコの特に都市部では、食生活もだいぶ多様になって和食も含め様々な国の料理が食べられますが、前近代の人々の食事に対する好みは非常に保守的なものだったらしい。それにもかかわらずこの17世紀の間に大麦の消費がマグリブ・アクサー南部で一般化したので「あれば」、それはどのような要因によるものか、どのような過程を経て広まったのか、なかなか興味深いことであるように思います。

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