2014年3月23日日曜日

法学文献から見た15-16世紀マグリブ・アクサー北部の境域

Mezzine, Mohamed. 1988. "Les relations entre les places occupées et les localités de la région de Fès aux XViéme et XVIiéme siècles, a partir de documents locaux inédits: les nawāzil." Relaciones de la península Ibérica con el Magreb siglos XIII-XVI : actas del coloquio (Madrid, 17-18 diciembre 1987). Ed. Gárcia-Arenal, Mercedes & Viguera, María Jesús. Madrid: Consejo Superior de Investigaciones Científicas, Instituto de Filología: 539-60.

 モロッコ人社会史研究者ムハンマド・マッズィーンによる、15-16世紀マグリブ・アクサー北部の境域に関する論文を取り上げました。マッズィーンは中世後期から近世初頭のこの地域をフィールドとしており、主要な著作として、サアド朝期のファースとその「農村」を扱った2巻本の浩瀚な研究書Fās wa-bādiyat-hāがあります(1986)。

 1415年ポルトガル王国ジョアン1世によるセウタ占領と、その後一世紀程の間断続的に行われた征服活動は、マグリブ・アクサー北部に新たな「境域」を誕生させます。この異教徒の征服によって成立した境域では、ポルトガル人を中心としたキリスト教徒と被占領地域周辺に暮らすムスリム住民が対峙しあい、頻繁に軍事的な衝突を繰り返します。
 両者の関係はなによりこの対立から生じた恒常的な戦争状態によって支配されます。しかし彼らは同時に隣り合って暮らす必要性から、交易関係もまた発達させていきます。そしてこの関係を規定する法学者たちの議論もまた蓄積されていきます。マッズィーンが中心的に用いている法学文献『ジャワーヒル』は、キリスト教徒とムスリムの関係について提起された質問と回答からなる様々なファトワーを蒐集したものです。
 この文献はJ. Berque以降様々な研究者が利用していますが、未だ校訂はされていません。将来何らかの形で発表しようと、留学中から少しずつ作業を進めているのですが…。またファトワーを史料とした社会史研究としては、D.S.Powersや少し前に取り上げたÉ.Voguetの他様々な研究者が手掛けています。

 マッズィーンのこの論文について少し言葉を足しておくと、興味深い事例をいくつも提示してはいるのですが、あまりにも個々の説明が簡潔すぎて物足りない、また評価の妥当性が判断できないという不満があります。
 それからIVの15世紀から16世紀にかけての通時的な変化については、以下の要約テキストの中でも述べましたが、具体的な事例が一切挙がっていないので何の説得力もありません。そもそもマーリク派のファトワー(をナズィーラ/ナワーズィルというのですが)は、ある法的意見を必要とする問題が起きたとき、その問題に固有の文脈を重要視するが故に、社会史で利用可能になるような詳細な情報が記載されるわけです。よって法学者の回答での見解も個々の事例に即したものとなっているはずで、その変化を恣意的にならずに比較するのは非常に困難であろうと考えられます。彼らはなにか抽象的な同一の質問について見解を述べているわけではないのですから。そして「狂信」や「寛容」という概念にも説明がないため、法学者たちの言説に「狂信-寛容」という変化が起きていたのか、判断の使用がありません。「ナショナリズム」に関する言及も全く唐突のことに思えます。
 15世紀以降のマグリブ・アクサー北部におけるキリスト教徒とムスリムの2つの集団が、恒常的な戦争状態にあったこと、それにもかかわらず両者が交易の他様々な関係を結んでおり、法学者たちがこの関係を規定しようと試みていたこと、この点についてマッズィーンの議論に問題はありません。しかし両者の関係の発展についての結論は、多分に議論の余地があるでしょう。

(この著者の議論はいつも結論がぱっとしないのですが…)








〔序文〕(539-540)
 マッズィーンはまず、イスラーム/キリスト教徒の対立とヨーロッパ/アラブ=ムスリム世界の対立の重なり合いについて言及し、この軍事的対立の関係は15世紀以降のモロッコのスルターンとポルトガル本国の国王の間で継続していたと述べます。ただし被占領地と(地域の)部族民の関係については含みを持たせ、さらにムスリムとキリスト教徒の「双方とも振る舞い方に新しい特徴が表れ始めている。他者へのビジョンに新たな精神的特色が現れている」と主張します。そしてそれらを、「ナワーズィル」と呼ばれる法学文献(IIで後述)によって明らかにすると述べます。

I. (540-543)
 続いてマッズィーンは、被占領地とファース地域(ファースを首座とするマグリブ・アクサー北部)の関係の担い手として、セウタ、アスィーラ、タンジャ、メリリャといった都市の統治者と、シャフシャーワンのラーシド家、ティトワーンのマンザリー家、カスル・カビールのアルースィー家、タズータのカーイドといった、地域の防衛と攻勢を重要な役割とする人々を挙げ、またスペインやポルトガルの王とファースのスルターンたちを挙げます。そしてこれらの人々を中心とした両者の政治・軍事的な関係を、以下のような若干重なり合った4つの段階に区分します。
・第一段階…1415年から1471年、セウタ占領からタンジャ占領まで
・第二段階…15世紀中葉から16世紀初頭で、被占領地内部での生活、補給、防衛の回路が組織される時期
・第三段階…16世紀全般で、異教徒に対する中央政府(ワッタース朝とサアド朝)及び聖者、教団組織、法学者の反応が見られる時期
・第四段階…1578年以降で、キリスト教徒/ムスリムの関係からイベリア半島/モロッコの関係へ、また不寛容の精神によって支配された宗教戦争から外交への変化
 しかしマッズィーンは被占領地/ファース地域の関係を軍事的作戦の総体に還元するのではなく、2つの共同体の間の日常の関係、そしてこれらの関係に起こる微妙な変化を考慮に入れることを要求し、そして軍事的・経済的な公的な関係より、「むしろ非公式のしばしば曖昧な関係が、被占領地の住民と農村の住民を結び付けており、精神と心性の発達をより良く明らかにする」と述べます。

II. (543-545)
 上記の目的を達成するうえでポルトガル語の文献は、視野の偏りがあるとはいえ、研究史上すでにその有益さを示してきました。それに比べてアラビア語の史料状況には問題があり、被占領地と地域住民の関係の社会史的研究に精彩を欠いていましたが、それでも聖者伝を用いた研究は幾つかの成功を収めてきました。
 マッズィーンは彼の研究において、ファトワー集やナワーズィルといった宗教法学文献を利用することを選択します。そして15世紀の法学者ワンシャリースィーの『ミウヤール』のほか、特に16世紀の法学者ズィヤーティー(マッズィーンは著者の名前 الزياتي をザヤティーと表記していますが、一般的ではありません)による『ジャワーヒル』に注目します。
 この『ジャワーヒル』と呼ばれるナワーズィル文献は、16世紀マグリブ・アクサー北部グマーラ地方の各地とその住民に関するファトワーを中心に収録したものです。この地域は恒常的にポルトガル人からの襲撃を受け、またジハードの拠点が多数存在していました。個々のファトワーは、ある所与の問題に対する「質問」と、それに対する法学者らからの「回答」によって成り立っており、特に「ジハード」の章は、キリスト教徒/ムスリムの戦争や接触に関するファトワーを蒐集しています。

III. (545-554)
 キリスト教徒とムスリムの隣り合って暮らす2つの共同体は、1)相手の攻撃に対する恐れから(先手を打って)攻撃すること、2)攻撃に対して自衛すること、3)相手との有益な交易を維持することという、3つの関心事によって支配されていました。法学書で扱われている問題もまた、これらの関心事に関わることを中心にしていました。
 ズィヤーティーが「ジハード」の章に蒐集した事例からは、当時の恒常的な戦争状態が明らかになります。住民たちは死や財産喪失の危険に対して絶えず警戒していました。そして防衛網や情報網を築くとともに、名誉の感覚を養っていました。また両陣営とも、スパイを用いて相手の攻撃に備えていましたが、このスパイたちはしばしば所属する陣営を変えていました。ズィヤーティーは敵への襲撃の際に情報を漏らした者をスパイとみなすか、という事例を取り上げていますし、ある事例で伝えられているキリスト教徒などは、都合4度も陣営を移っています。
 また、被占領地の近くに住むムスリム共同体は非常に雑多な要素から構成されていました。そして捕虜の奴隷や改宗者たちはスパイとなる恐れがありました。このような状況はムスリムの間に不安をかき立てていたようです。そして被占領地の近くに住む者たちは、キリスト教徒との交易関係を維持している者の間でも、被占領地との隔たりによって区分されていました。
 法学者に対する質問やそれに対する回答は、2つの共同体の関係の現状に対する弾劾文の様でもあります。両者はキリスト教/イスラームという宗教の違いにもかかわらず、生存のため必要な関係を調節するためのシステムを生み出しました。すなわち食糧確保の問題です。両者はこの目的のために相手を必要としており、潜在的な戦争状態にもかかわらず、交易は維持され、また保護されていました。
 このことに関する事例は多数あります。ズィヤーティーは、盗んだ牛をキリスト教徒に売ったベドウィンやキリスト教徒からワインを買ったムスリムの事例について伝えています。またアルビー・ファースィーという法学者はある質問について禁止の見解を述べた後、惨憺たる現状について素描しています。
 しかし両者の交易についてとりわけ問題となるのは、武器の取引についてです。ある法学者はキリスト教徒との交易の全面的な禁止を訴えていますが、武器の取引と異なり、食料の取引の禁止を訴える者は部分的でした。また武器の取引はムスリムの側だけでなくキリスト教徒の側でも問題となっており、教皇はムスリムへの武器売却を禁止していましたが、イギリス人はこれに違反して武器や船を売っていました。いずれにしてもこれらの禁令は部分的にしか守られず、「戦争と結びついたこの非合法な取引による組織的な流通は、2つの共同体の関係のある分野全体を活発に」していました。幾つかのベルベル部族はキリスト教徒と良好な関係を維持していましたし、学生たちの中にはレコンキスタの戦争で奪われた本を購入する者もいました。
 『ミウヤール』の著者は、「平和の時には彼らに食料を売ることは可能であるが、武器、鉄、銅、皮、戦争の際に有益なもの一切を売ることは禁止である」、そして「戦争のときは食料でも彼らに売ることは絶対に禁止される」という見解を述べています。あまりに多くの利害が共有されていたため、2つの共同体の間の交易は必要であり、また現実でもあったようです。
 また地域釈迦の人々の間での合意は、国家からの承認を必要としていませんでした。ムスリムの捕虜解放に関わる人々が、キリスト教徒のイノシシ狩りに参加し協力ていた事例は、その一つです。それでもキリスト教徒との直接の取引は問題視されていたため、地域の部族と被占領地のキリスト教との間を、しばしばスパイの疑いを受けながらも、ユダヤ教徒が介在していました。また改宗者も2つの共同体の間を行き来しており、スルターンやファースのハリーファの軍隊に多数加わっていました。

IV(554-556)
 マッズィーンはこのように、特に恒常的戦争と交易という2つの主題に関わる事例を中心に、被占領地のキリスト教徒と周辺地域の住民の非常に複雑な関係について概観します。そして最後に、キリスト教徒に対する周辺地域の住民やアーリムたちのイメージという問題に議論を進めます。
 その見解によれば、15世紀から16世紀にかけて提起された質問への回答からは、「狂信-寛容」という方向への変化が確認されるといいます。そして15世紀のカッバーブやカウリー、イブン・ヒラール、16世紀初頭のイブン・ガーズィーやガズワーニー、ナリー、中葉のイブン・ハッジュー、ザッカーク、ハブティー、世紀末のイブン・アルドゥーン、17世紀中葉のアルビー・ファースィーといった法学者の名前を列挙し、彼らの回答は時代とともに変化しており、ムスリム/キリスト教徒の関係は断固とした口調で話されなくなっていくと主張しています。
 また「ナショナリズム」の感情は、「イスラームの土地」に対する侵入者によってだけでなく、同じムスリムであるオスマン朝によっても刺激されていたと述べます。そしてジハードの「理論家」たちの言説にも、15世紀から17世紀初頭にかけて変化が見られると、やはり人名を列挙しながら主張します。さらに聖者伝のテクストも、「法学者のジハード戦士」の事例を繰り返すことは次第に減少すると述べます。
 しかしこれらの変化について、マッズィーンが具体的な言説を挙げてその変化を明らかにすることはありません。マッズィーンが述べるように、確かに16世紀を通して被占領地のキリスト教徒の軍事力は衰えていきますし、本国の指導者たちは他の地域に関心を写していきます。またサアド朝アフマド・マンスールの外交が非常に巧みだったのは事実ですが、この王朝のスルターンたちがムハンマド・シャイフから彼に至るまでに「ジハードのスルターン」から「外交のスルターン」に変化していったという図式は、非常に疑わしいように思われます。
 またガーリブに対して匿名の『サアド朝年代記』の著者が向けた非難がどのように理解されるのか、16-17世紀被占領地のキリスト教徒と「ファース王国」住民の関係に関する質問が急増するのは何故なのか、マッズィーンは明確な説明をしないまま議論を終了しています。

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