フランスのモロッコ植民地統治時代に活躍したセニヴァルの古い論文をまとめてみました。
イスラーム伝来以降のマグリブ・アクサーについては、概ね時代とともに史料は増加するのですが、その中で15世紀は例外的に乏しいという問題があります。これは、中央集権的国家の消滅により王朝年代記叙述の伝統が途絶えたこと、証書史料の保存状況もよくないこと、聖者伝文学の興隆が見られるサアド朝期以前の段階であること、そしてポルトガル人やカスティーリャ人など外国人による叙述が増えるのも16世紀以降であることによります。そして特にマグリブ・アクサー南部では情報が乏しく、南部の主邑たるムッラークシュをいつ頃誰が支配していたのかさえ、確かなことは殆ど言えなくなってしまいます。
盛期マリーン朝期までは、特にイブン・ハルドゥーンが様々な情報を報告していますし、16世紀初頭になると、特に最後の外国人による情報が急増します。セニヴァル論文は、この間ムッラークシュを支配していたと考えられる「ヒンタータ族のアミール」についての情報を集めたものです。
Cenival, Pierre de. 1937. "Les émir des Hintata, "Rois" de Marrakech." Hespéris 24: 245-257.
セニヴァルはまず、1508年ポルトガル人がアスフィー(サフィ)を武力占領したとき、Mulei Nacer Buxentif、もしくはMulei Nazar Bugentuf Elantetaと呼ばれるベルベル人の「王」がムッラークシュを支配していたという、16世紀のカスティーリャ人ルイス・デル・マールモルの証言を紹介します。
この人物の名前に見えるElanteta=「ヒンターティー」は、高アトラス山脈のマスムーダ族の一派としてよく知られた部族に関するニスバ(名前の中で関係性を示すもの、この場合は「ヒンタータ族に属する者」であること)です。モロッコ最高峰として知られるトゥブカール Toubkal山は、ムワッヒド朝の史料からマールモルまで、「ヒンタータの山」として知られていました。そしてこの部族は、ムワッヒド朝のマフディー=イブン・トゥーマルトの活動をその最初期から支援した部族でした。
当時のヒンタータ族族長アブー・ハフス・ウマルの一族は、王朝内で重要な地位を占めることになりました。その一派は、王朝がイフリーキヤ(現在のアルジェリア東部からリビア西部)に勢力を拡大すると、この地方の統治を任されました。彼らは13世紀ムワッヒド朝が内紛に陥り衰退すると独立し、ハフス朝と呼ばれる王朝国家を建てることになります。
また別の一派の中は、王朝の内紛に関与し粛清されたものもありますが、その後もアブー・ハフスの子孫と推定されるユーヌス家の人々はこの部族の指導権を握り続け、マリーン朝期まで存続することになります。新王朝は自らの権威をマスムーダ族に承認させるため、この有力部族の族長をムッラークシュに住まわせて地域の統治と徴税を委任します。そして1310年任命されたユーヌス家のムーサーという人物は、この地位を世襲させることに成功します。ムッラークシュにはファースの王朝からアミール(太守)が派遣されているのですが、これとは別に、ヒンタータ族の族長が地域的で安定した常置の権威者として振る舞うようになります。
14世紀中葉以降のマリーン朝内訌にも、この一族は関与しています。1347年当時のスルターン=アブー・ハサン・アリーはイフリーキヤ遠征を敢行しますが、この事業はアラブ部族民の反乱とペストの流行によって破綻します。そして留守を任されていた息子の1人アブー・イナーンが反乱を起こすと、アブー・ハサンはヒンタータ族のアブドゥルアズィーズの庇護を受けます。この関係は1351年アブー・ハサンが没し、アブドゥルアズィーズがアブー・イナーンから許しを得るまで続きます。
また当時の族長でイフリーキヤ遠征にも同行していたアーミルは、1353年マスムーダ族全ての指揮権を与えられ、その数年後にはマグリブ・アクサー中部の大河ウンム・ラビーウ川以南の統治を委任されます。しかし彼は1370年王朝の内戦に関与して捕らえられ、処刑されてしまいます。
アーミルの処刑後も、ユーヌス家の一族はヒンタータ族の指導権を握り続けます。1387年にはアブドゥルアズィーズの息子アリーが族長の地位に就きます。そしてセニヴァルは、ムッラークシュのサアド家の墓に残されている2点の碑文史料をもとに、彼の子孫が16世紀初頭までこの地位を世襲していったと推定しています。
14世紀末以降の史料は極めて乏しいのですが、ポルトガルによる1415年のセウタ征服と1437年のタンジャ遠征、その後のワッタース家の宰相アブー・ザカリーヤーの支配に関する記事から、この時期までマリーン朝王族が南部を統治していたと考えられます。しかし1447‐8年宰相アブー・ザカリーヤーが没すると、マリーン朝は南部に対する権威を喪失し、ヒンタータ族の族長が権力を回復したようです。というのも、1455年没したアフマド・ブン・アーミルは、その墓碑においてアミールを自称しているのに対して、その父はシャイフとしか呼ばれていないのです。このことからセニヴァルは、ユーヌス家で独立を果たした最初の人物をこのアフマドであると考えています。またもう1点の碑文から、1520年没したナースィルはアフマドの直系の子孫ではなく、その男系のいとこの息子であったようです。
このような過程を経てムッラークシュの支配権を手にしたヒンタータ族のアミールですが、その権威は大きくなかったとされます。まず1481年8月24日、ポルトガル人がアスフィーに商業拠点を建設し始めたとき、彼らがムッラークシュの王の意向を気にした様子はありません。16世紀初頭のレオ・アフリカヌスは、ムッラークシュ王の権威が衰え始めて以降、アスフィーの町を支配していたのはファルフーン家という地域の一族のカーイドだったと述べています。また、ウンム・ラビーウ川以南の町と部族は自らの指導者によって統治されており、ムッラークシュ王の理論的な主権を認める否かが問題になることは稀でした。そしてムッラークシュの東に位置するアンマーイの町の領主の支配は、アグマートの河畔まで及んでいました。さらに南の山脈はヒンタータ族の族長たちが支配していたが、彼らと同族であるムッラークシュの王たちとの関係は良好ではありませんでした。そして西のハウズ地方のアラブたちは最初にポルトガル人に税を支払った集団の1つであり、ムッラークシュの領主のことを顧みませんでした。
ポルトガル王マヌエル1世とムッラークシュ王ナースィルの関係は、後者から前者に宛てられた1502年の書簡が最初だと考えられます。これはポルトガル人商人がムッラークシュに来て取引を行うことを認める内容でした。しかし1508年ポルトガル人がアスフィーを征服すると、ムッラークシュ王はキリスト教徒の脅威を理解します。1511年ドゥッカーラ地方の部族民によってアスフィー包囲戦が行われると援軍を派遣しますが、これは包囲戦に間に合いませんでした。そして1512年7月にはベニ・マーギルでナースィルとアスフィー司令官ヌーノ・フェルナンデス・デ・アタイデの間で戦闘があり、ナースィルの敗走に終わります。同年秋にはジハードを提唱し、高アトラス山脈やダルア地方の兵も糾合してターンスィーフト川河口付近まで進軍しますが、再度敗北してしまいます。1514年春、ファースの支配王朝ワッタース朝がドゥッカーラ地方のポルトガル人に対して遠征軍を派遣したときには協力を拒み、むしろマヌエル1世との協定締結を意図します。しかしムッラークシュにポルトガル人のための城塞を築くなど厳しい条件を提示されたため、同意に至りませんでした。
逆に1514年秋から1515年春にかけて、アスフィーのポルトガル人はムッラークシュに対して3度の遠征を行っています。1514年10月にはアルモカデン(指揮官)の1人ディオゴ・ロペスがハウズ地方(ムッラークシュ周辺)でテント生活を行っていた部族民を襲撃し、翌1515年1月には、司令官ヌーノ・フェルナンデス・デ・アタイデが再びムッラークシュの目前で襲撃を行っています。そして4月には再びヌーノ・フェルナンデスがアザンムール司令官と部族民騎兵の支援を得て、ムッラークシュの征服を試みます。しかしこのとき、ムッラークシュにはファース王が派遣したカーイドと、後にマグリブ・アクサーを統一するサアド家のシャリーフがおり、彼らによって撃退されます。そしてこの時期以降、ヒンタータ族のアミールはサアド家に服従するようになります。
ダルア地方出身のシャリーフであるサアド家の人々は、1510年サンタ・クルスのポルトガル人に対してスース地方の部族民を糾合して闘争を開始し、1513年末にはアトラス山脈の北側に進出していました。彼らは当初政治的野心を示さず、ジハードの指揮官としてのみ振る舞い、またナースィルと接触していました。1514年4月以降ムッラークシュに滞在し、1515年ポルトガルの攻撃に対して防戦にあたりました。その後マグリブ・アクサー南部でのポルトガル人の攻勢は、同年北部でのマアムーラ遠征失敗と1516年ヌーノ・フェルナンデス戦死によって衰えます。
ヒンタータ族のアミール=ナースィルは1520年没し、息子のムハンマド・ブーシャントゥーフがその後を継ぎます。しかしヒンタータ族のムッラークシュ支配は1524/5年、サアド家のアフマド・アアラジュとムハンマド・シャイフがこのムハンマドを暗殺し町を支配下に入れることで、終わりを迎えることになります。
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