2013年6月3日月曜日

日本イスラム協会公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」その2

2013年6月2日東京外国語大学で日本イスラム協会の主催で開催された公開講演会「マグリブ・アンダルスの歴史と社会」の講演より、齋藤剛「ベルベル人とイスラーム―モロッコにおける「先住民」運動の展開とその宗教観」の内容をまとめました。
なお、佐藤講演についてはこちら

最初に発表の目的として、以下の二点が挙げられた
・モロッコにおける「アマズィグ運動」の成立と展開の紹介
・運動の言語観、歴史観、故郷観、宗教観の特質を明らかにすること

I. ベルベル人の概要
ベルベル人とはベルベル語を母語とする人々のことで、北アフリカの「先住民」であるといいう認識が近年現れている。彼らは北アフリカ一帯を中心に、東はエジプトのスィーワ・オアシス、そしてニジェール、ナイジェリア、モーリタニア、ブルキナファソなどの西アフリカや、さらにカナリア諸島まで広く分布している。そのため形質の面でも習慣の面でも非常に多様であり、専門家にとってもベルベル語を母語とする人々であるという以上の定義はし辛いのが実態。
ベルベル(berber、berbère)という呼称は多少であり、当人たちは自由な人、高貴な人を意味するアマズィグ(Amazigh/Imazighen)と自称する。
大半はモロッコ、アルジェリア(、チュニジア)に住んでおり、民族ごとの統計が存在しないため正確なベルベル人口は不明だが、全体では千数百万人と言われる。
ベルベル語を母語とする、というのがその定義ではあるが、言語の地域間の際は相当ある。
宗教的には圧倒的多数がムスリムである。
ベルベル語は歴史的には固有の文字を使用せず、それがこの言語の地域間の際の大きさの一因となっている。ただしアルジェリア南部を中心に活動する遊牧民トゥアレグ族の地域では、ティフィナグと呼ばれる独自の文字が古くから存在した。そして近年になって、ティフィナグをベルベル固有の文字として採用する動きが拡大している。

アラブ人とベルベル人は重なり合ったカテゴリーであり、アラブ人のベルベル化、ベルベル人のアラブ化という現象がみられる。そのアイデンティティーは重層的であり、ベルベル人であることがアラブ人であることを否定しない、そして逆も然りであることに留意する必要がある。ところでアマズィグ運動は、この両者を明確に区別しようとする傾向がある。

II. アマズィグ運動成立の歴史的背景
・アマズィグ運動が持つアラブとベルベルの二項対立的傾向の起源
ベルベルの研究は19世紀フランスのアルジェリア植民地化によって始まった。
アブド・アルカーディルの反フランス運動に対する現地住民の間での態度の際から、ベルベル人の存在が発見される。特にカビール山地にすむ部族民の研究から「カビール神話」が形成される。
→ベルベル人はアラブ人に対してより平等な社会を形成している、イスラーム化の程度は低く表層的なイスラーム化に留まる、女性に対してもより平等である、フランス文化と同質であるという想定
ムスリムであるアラブ人に対してキリスト教的なベルベル人という、両者を差異化する視点が現れる。キリスト教の宣教師の、イスラーム化したベルベル人をキリスト教化しようとする活動も行われる。

モロッコにおける植民地支配期のベルベル研究は、1912年の植民地化(保護領化と称された)以前は探検の時代であり、アラブとベルベルがそれほど明確に分けられるものではないことが指摘されるなど、比較的柔軟な発想によって行われた。しかし1904年以降は組織的な研究が開始し、イスラームとベルベルの関係を巡る特殊な見解(「表層的イスラーム論」=ベルベルは侵略者であるアラブ人によってイスラーム化されただけであり、その程度は低く表層的なものに留まる、という議論)が醸成された。そしてアラブ人ベルベル人の二項対立的な図式に基づくイメージが確立する。
アラブ⇔ベルベル
アラブ人⇔ベルベル人
アラビア語話者⇔ベルベル語話者
マフゼンの地⇔スィーバの地
イスラーム化されている⇔イスラーム化されていない
シャリーア⇔慣習法
ベルベル勅令の成立…シャリーアの適用対象をアラブ人だけに限り、ベルベル人の問題解決は先祖から受け継いできた慣習法によって行うことを規定
→アラブ、ベルベルの双方から、「我々はムスリム」という意識に基づく反発を受ける

フランス植民地支配期の二項対立的民族観は、両者の際を強調、強化することになり、これはアマズィグ運動指導者たちに受け継がれていく。しかしこの見方からは、二重言語話者の存在や、ベルベル人居住地域における知識人(ウラマー=イスラーム知識人?)の活躍の重要性、本人たちの自己認識における重層的なアイデンティティーといった要素が零れ落ちてしまう。

III. アマズィグ運動の成立と展開
アマズィグ運動交流の背景として、モロッコ独立後の国家統合政策がある。モロッコの植民地(保護領と呼ばれる)統治は既存の統治体制であるアラウィー朝を温存する形で行われた。そしてその権力を統制するために、地方のベルベル部族民を支援し、強化した。1956年にモロッコが独立すると国家統合政策の支柱として「アラビア語化」「モロッコ化」が掲げられた。これに対するベルベル部族民の抵抗運動は、皇太子時代のハサン二世によって武力によって鎮圧された。ベルベル諸語「方言」の公的領域での使用は禁止され、1990年代半ばまでメディアや学校教育からベルベル語は締め出されることになった。
ベルベル人は「アラビア語を話すモロッコ人」を中心とする国家統合政策によって周辺化される。また独立に伴う入植者の国外流出によって、その空白を埋める形でベルベルの故郷からの人口流出が進み、独自の慣習や言語の忘却への危惧が高まる。また都市へ流入したベルベル人に対しては、すでに長く都市に居住しているアラブ人からの偏見・差別がある。こういった社会状況を背景として、アマズィグ運動が成立する。
1960年代後半、一部のベルベル系住民の中から言語や慣習の保存、アイデンティティーの確立を訴える運動が形成される。彼らはベルベルではなくイマズィゲンを自称し、そのように呼ばれることを要求する。その主導者たちの多くは「世俗主義」的な思想を継承し、学校教員や大学の教員、学生、そして役人が参加していた。またフランスの同時代の社会主義、共産主義運動の影響を受けていた。
彼らは1967年「モロッコ文化交流協会」を設立するが、この名称は「アマズィグ」という言葉を使えないため採用されたものであり、また90年代半ばまで活動は活発化しなかった。1994年ハサン二世はベルベル三方言によるニュース番組の放映を許可(一方言ごとに5分の割り当て)し、その後活動が活発化する。2001年にはムハンマド六世がアマズィグ文化をモロッコ文化の一柱として公認、IRCAM=王立アマズィグ学院の設立。アマズィグ語教育の準備が開始され、2003年から小学校での教育が開始される。2011年にはアマズィグ語を公用語とすることが正式に発表される。
→国家主導でのアマズィグ運動への支援
…先住民運動の世界的な興隆、アルジェリアでの民族対立の激化の例、欧米に対して人権に配慮していることを示す意図
アマズィグ運動はアマズィグとしてのアイデンティティー、言語権、教育権を希求し、アラビア語化(国家統合政策)や政治体制(ベルベルの社会的周辺化とアラブの政治的優位)、「アラブ」への批判を行なう。そして「イスラーム」に対しても独特のスタンスを持つ。

IV. アマズィグ運動とイスラーム
・言語観
ベルベル語は地域間で差異が非常に大きいため、標準アマズィグ語を生成することになった。これはエリートの主導で行われ、三方言の話者からそれぞれ二人ずつの合計六人で、対等な形で語彙が選定された。その結果三方言からのパッチワークのような言語となり、従来使われてきた生活言語としての「方言」とは乖離することになった。また標準アマズィグ語は「世俗性」が求められ、宗教的な意味を持った表現は別の言葉で置き換えられることになり、イスラームとは距離を取った語彙選定がなされた。

・故郷観
ベルベルにとっての故郷はタマズィルトという言葉で表される。
出身村落、部族、地域、国と範囲が変化する、そして具体的な人間関係の連鎖と関連した故郷概念である。
これに対して運動はタマザガという新たな故郷概念を創出する。これは北アフリカ全域及び西アフリカのベルベル人が分布していると考えられる「国々」を包含する概念で、国家の集合体として構想されている。そこでは、イスラーム到来以前から今に至るまで、一貫してアマズィグ文化が継承され、独自のイスラーム文化が形成されてきたとみなす。

・宗教観
タマザガの内部では「穏健なイスラーム」「アマズィグ的イスラーム」が信仰され、その外部では「過激なイスラーム」が信仰されているとみなされる。タマザガはアマズィグ的イスラームが展開する固有の空間なのである。

・歴史観
運動はアラブとアマズィグの関係を再規定する。その対象はアラブとイスラームである。しかしこの差異化において運動はジレンマを抱え込むことになる。
まず世俗性と宗教性において、運動家たちと一般のベルベルはアラブからの差別などの経験を共有しているものの、それは後者においてはイスラームへの批判へと向かわない。むしろ彼らは、アラブが敬虔なムスリムでないからそのような行動をするのだと批判する。
そして「アラブ」と王権の関係において、アラブへの批判を突き詰めていくと、運動は王権批判の問題に直面する。国王の宗教的正統性の源泉はそのシャリーフの血統にあり、つまり国王はアラブの中のアラブだからである。これを回避するために、正統性の源泉の別の要素である、国王は信徒たちの指揮官である、という主張や、国王とのバイアはベルベル的なものだという理論を挙げる。
差異化の論理としては、植民地主義的ベルベル観を援用する。これはアラブ・イスラーム的歴史伝統を忌避するためである。そしてグローバル・スタンダードとなりつつある諸概念による再定義を行なう。
平等主義的社会→民主主義的社会
女性の扱いの平等性→女性の人権擁護
イスラーム化の低さ→宗教的・文化的多様性への寛容
上述のジレンマの乗り越えが試みられる。世俗性の強調と宗教性の受容については、独自のイスラーム理解の提示、つまりタマザガにおける「アマズィグ的イスラーム」を提示する。アラブと王権の関係においては、王権とアマズィグ文化の類縁性を強調し、イスラーム到来以前と以降の諸王の連続性を強調するとともに、アラブの「内的差異」を創出する。そしてタマザガの外部から流入してきた「アンダルス・アラブ」を批判する。


アマズィグ運動は独立以降の国家統合政策への批判から興り、アラブ・イスラームを批判対象とした。その展開は国家が主体的にリードし、モロッコ国外のグローバルなネットワークの活用、世界的な先住民運動への関心、グローバル・スタンダードとなりつつある概念への依拠という特徴がみられる。
運動の指導者たちは「世俗主義」的な背景を持っており、イスラームからは距離を置きたい一方で、支持者を獲得するためにはイスラームを無視できないというジレンマを抱えている。そのため、植民地支配期の研究の民族観、新たな故郷概念・言語・歴史観の創出と連動した独自のイスラーム理解を創造している。
→「アマズィグ的イスラーム論」「穏健なイスラーム論」「表層的イスラーム論」
→グローバル・スタンダードに依拠した権利請求の展開
(→信教の自由へも拡大)
ただしこれらの展開には、一般(ベルベル?)住民の宗教意識と乖離している面がある。

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