2013年6月19日水曜日

アラブの歴史における独裁…

先日ジャズィーラの「奥深く」という番組をチェックしていたところ、モロッコ留学中僅かながら面識のあった方が登場出演していてびっくりしました。

この番組、毎週あるテーマを決めて数人の有識者を呼び、時に議論、時に詳しく解説するというものなのですが、この日のテーマは「アラブの歴史における独裁と公正の根」…
http://www.aljazeera.net/programs/pages/58bddcee-158a-4563-a08c-e8c4af95d7b3#L1
http://www.youtube.com/watch?v=Rt1jORvkZ4A

出演者について少し紹介しておくと、まずイブラーヒーム・ブートシーシュさんはアンダルスの政治史が専門の方で、特に初期アンダルスにおけるイクター制度と政治史の関係について重要な研究があります。少しひょろっとした感じの方で、少し御痩せになった…?と思いましたが、気のせいかもしれません。

マハンマド・ジャバルーンさんは、よりこの番組のテーマに近い方ですが、特にターイファ期からムラービト朝期にかけての、モロッコとアンダルスの政治思想史の研究者です。こちらの方とは特に面識はありません。



イスラームにおけるアダーラ(公正)という概念の起源について、お二人の間で意見が割れてるなあ…ウマイヤ朝の初代であるムアーウィヤ・ブン・スフヤーンの治世とみるか、戦利品の分配を巡ってムスリムが対立したウスマーンの治世とみるか…でもイスラームにおける正義の問題の起源ってハワーリジュ派の誕生にかかわる問題じゃないの…などと思いながら、ふんふんと聴いていたのですが、次第次第にむしろ番組の司会者と二人の話がかみ合わなくなっていきます。

このアダーラという概念は公平、正義などとも訳される言葉で、君主の備えるべき最も重要な資質の一つといえます。2011年モロッコで政権を握った王党保守派のイスラーム主義政党「公正開発党」の「公正」は、このアダーラです。つまり、(少なくともモロッコ的な理解では)今日でもイスラーム的な政治における重要な概念であるとみなされていると考えられるわけです。

この概念についてブートシーシュさんは、14世紀アンダルスのマラガ出身のイブン・リドワーンという法学者が書いた君主論を引き合いに出し、「君主が公正であれば彼には報償があり、臣民には感謝が課される。暴政を行なえば彼には罪があり、臣民には忍耐が課される」という定式を紹介します。
さらに君主論(アーダーブ・スルターニーヤ)においては「君主(スルターン)への服従は義務」であり、「君主への服従から外れた者はアッラーに反抗したのである」と主張されていることを述べます。

私見ですが、このことは、「君主論」と呼ばれるジャンルの作品が、なにより君主により良き統治の指針を示すという目的を持っていることを考えれば、特に不思議ではありません。法学者たちはムスリム共同体の生活がイスラーム的法規範に則った形で営まれるために、それらを執行する強制力を持った統治者を必要としています。彼らの立場からすれば、大切なのはこの統治者が公正であるか否か、そしてその基準を示すのは法学者である、ということです。そしてこの統治者が公正であるなら、独裁者であろうと別に問題はない。つまり独裁(イスティブダード)と公正は対立する概念ではないのであろうと。

さてさて、この公正の問題についてジャバルーンさんが以下のように話したところで、司会者さんが溜まらず異論をはさみます。
これは歴史的な問題であって、この時代の文化と、この時代の精神と結びついた問題なのです。というのも、私たちが話している時期について忘れてならないことですが、それは中世であって、中世においては独裁こそが、そこに至った…人間の政治思想が到達した最も洗練されたものだったのです
教授、今日バッシャール・アサド(や)カッザーフィー(といった)独裁統治者全てを法的に正当化するものがいるのですか?
この発言から明らかなように、司会者さんの図式では、独裁とは名前の挙がっている政治家によって体現されている、自国民を殺害し人権を抑圧するような不当な統治体制なのでしょう。つまりアダーラとイスティブダードという概念は、全く相いれないものだったのでしょう。

しかしモロッコの歴史において、法学者たちが称賛してきたのは、むしろ公正な君主による独裁でしたし、この背景にはジャバルーンさんが強調していたように、法学者たちが抱いていた、内乱への強い恐怖心があるように思います。これはモロッコの中央政府の権力の不安定さとおそらく関係があるのですが、いずれにしてもこの地域の歴史では、 君主に十分な暴力が備わっていなければ、法学者の理想とする公正な統治は実現しなかった。

しかしだからといって、このように法学者たちが歴史的に内乱への恐怖から独裁を許容してきたことは、現在において独裁者が国民を殺戮することを正当化しないと思うのですが、この司会者さんは「公正」という概念の歴史に独裁を否認する論理を求めるつもりだったのだろうな。なかなか難しいことだな、と思った次第です。

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