2013年6月5日水曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ I


Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

I. 指示対象-サポートと登場の文脈(3-7)
カブリーによれば、マグリブにおいて空間の関連性は常に最重要の要素であり、定常的なものとして作用してきた。そしてあらゆる性質の差異にも拘らず、マグリブ各地の国家的建築物の全体と包括するような均一化が起こった。そしてこの均一化-指標と空間的形成が、はっきりとわかるような相互干渉をもたらした。
→この相互作用について考慮することが重要

平均的な国家の図式は同一の道程と結びついている。
=領域的基盤→諸条件充足→支配領域拡大→中央集権化(事実上→法的)
・ファーティマ朝(イフリーキヤ、9-10世紀)
・ズィール朝(イフリーキヤに加えて中マグリブの大半、10世紀末から11世紀)

ズィール朝の衰退及びヒラール族アラブの侵入と同時期に、ムラービト朝のサハラの南西からの北上が始まる。彼らはその呼称のもととなった禁欲主義とジハードだけでなく、地中海とサブサハラ地帯を結ぶネットワークのコントロールに関心をもつ。これらのネットワークの形成に応じて、彼らの領土の中心となる、マグリブ・アクサーと呼ばれる新たな空間-軸が形成されていく。地中海、サハラ、ムルーヤ川とその延長にある南東部のオアシスに挟まれたこの空間-軸は、可変的な周辺領域を持った空間-核を繰り返し形成する。
・マグリブの空間の結合
・諸王朝の勢力拡大の方向の共通性(北→太平洋岸→海峡の北側)⇔出発点の多様性
その多方向への勢力拡大の中心に、マフザン(Makhzan)と呼ばれる中央集権化のシステムが位置する。

→カブリーは、イフリーキヤのことをジール朝のプラットフォームと呼んでいる。よってこの言葉は、国家的組織の勢力拡大の基盤となる領域のことを指すと考えられる。ムラービト朝のプラットフォームは交易ネットワークの統制を通して形成され、マグリブ・アクサーと呼ばれる地域を軸に、変動する周辺領域を持った支配領域の核が形成され、その中心にマフザンと呼ばれる中央集権的なシステムが位置することになった、とまとめてよいだろう。

次いでカブリーはマフザンという用語の起源について議論を開始する。
アンダルスのウマイヤ朝においてマフザンという用語は、政府というより倉庫を意味していた。
ex. アビード・アルマフザン=倉庫の奴隷、ハーズィン・アルマール、ヒザーナト・アルマール等
マグリブでは、イフリーキヤのアグラブ朝期にバグダートのカリフに送る税を保管する金庫がマフザンと呼ばれた。このことからマフザンとは国家の徴税と結びついた概念だったと考えられる。
一方ファーティマ朝、ズィール・ハンマード朝では、倉庫を意味する孤立した例が1012年以前のイフリーキヤのファトワーに見られるだけで、この用語は少なくとも文献ではほとんど使用されていない。よって、公的な徴税組織を指して一般に用いられていた言葉ではないと考えられる。

マフザンという言葉は、11世紀ごろムラービト朝期のマグリブ・アクサーで権力システムを示すようになる。カブリーは以下のように推測している。
・ムラービト朝の遊牧民たちはダルア地方とスース地方で貯蔵庫(=アーガーディール)の機能を知った
・この貯蔵庫を管理する制度に魅了され、大規模なアーガーディールとしての倉庫国家を構想した
・彼らにとって国家とはアミール個人の倉庫であり、それが次第に集合的なもの、国家的なものとして提示されるようになった
マフザンという呼称の採用については、以下のように述べている。
征服者たちの計画に枠組みを与える社会・文化的な文脈を鑑みれば、このような態度は、少なくとも仮説としては承認できるものと思われる。理論的な視点においてシニフィアンとそれを支える、共有されたそして/もしくは暗黙の知識の間に存在する弁証法が、おそらくここでマフザンという聖化され支配的な語彙から借用された――もちろんアラビア語での――言葉を、シニフィアンとして選ばせたのだろうから。同時にそれは生き生きとした、ただし押し殺されたシニフィエを、それが世俗的であると同時に支配されているために表明しているということなのだが。

ムラービト朝のマフザンのシステムは、アグラブ朝のマフザン(=金庫)との類似に加えて、ファーティマ朝のシステムとも、何れも独占の排外的要求者を自任、キャラバン交易を重視、交易ネットワークの統制を優先するという類似性がある。
→国家の中央集権化の様態に従うほかない
→歴史叙述の中では創始に関する選択に仕立て上げられる
ただし、ムラービト朝とイフリーキヤでの先例との間には以下の相違がある。

  1. ムラービト朝が彼らの行動領域に属していたのに対して、アグラブ朝とファーティマ朝は東方を志向していた
  2. マフザンの中央集権化はおそらくこの理由によって(?)より柔軟だった

ムラービト朝の中央集権化は、支配的な部族連帯意識の内外で、部族の協調主義的な調合を伝播していた(?)。またこの王朝に先行するイドリース朝の権力システムは、鉱山採掘と農業経済活性化に結びついた都市化を優先していたものの、他の集団や敵対するアミール国を排除して、実効的な中央集権的国家を樹立することには失敗した。そしてイドリース二世は、領域拡大とキャラバン交易に関心を示したものの、その没後領域は反集権的な複数の公国に分裂した。

マフザンと呼ばれるシステムは、マグリブ・アクサーにおいては新機軸だった。

  • その第一の使命は何だったのか?
  • どのようにして定着に成功したのか?
  • その恒常的な要素は何だったのか?
  • 王朝ごとの境界を真に画定するものはあったのか?
  • それはどのような方向性においてであったのか?

→このシステムを構造化する土台と変化について問いかける

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