2013年6月14日金曜日

モハメド・カブリー(2005)まとめ III

この節に限ったことではありませんが、持って回った言い回し、くどくどしい留保、曖昧な語彙、抽象的な議論が続き、何が言いたいのかよく分りません。とりあえず最後まで到達したけれども、全体として何が主張したいのだか…とりあえず特に難解な個所は、括弧に括って凡その解釈を加えてみました。何だか一週間無駄に使ったように思いますが、あとは結論です。

Kably, Mohamed. "A propos du makhzen des origines : cheminement fondateur et contour cérémonial". The Maghreb Review 30.1, 2005: 2-23.

III. 正統化の指示対象と「中世」儀礼の特有性 (13-22)

マフザンの様々なバージョンの中でもっともよく研究されているのは、前植民地時代のものであり、それ以前については、転換期であるサアド朝のマフザンも含めて、等閑にされている。ところでサアド朝期には、まずオスマン朝のシステムの影響を受けたことと、そして権力の正統性がシャリーフの性質を含意するようになったことのために、中世半ばから終わりにかけて制度的に確立しつつあったマフザンのイメージとは、とりわけ儀礼の点において大きく相違する。このシャリーフの性質による権力のある種の聖別化は、イブン・トゥーマルトのシーア-シャリーフ的な立場から要求された例外的な譲歩だったのであり、重要な変化が生じていることに留意する必要がある。ここでは、関係する「中世」の諸王朝によるそれぞれの正統化の戦略を検討する。

「聖なるものsacré」という概念を一貫して引き合いに出すことができるのかという問題について、シャリーフたちの時代以降のマフザンに対して、それ以前については懐疑的にならざるを得ない。この概念を表す語彙は、アラビア語では√QDSか√ḤRMから派生する。クルアーンの文脈では:
ḤRM…聖なるもの(sacré)と宣言された時間や空間に関係する
QDS…神の神聖性(sacralité)のみを独占的に表す
イスラームの創始に関わる反擬人主義的性格を鑑みれば、スンナ派の擁護者を自任する統治者たちにとって、この種の主張は曖昧で不適切である。ムワッヒド朝のマフディーの無謬性という例外を除けば、中世のマフザンの正統化の装置はいずれも、明白で程度の差はあれ承認された教説を参照する。
ムラービト朝…スンナ派のマーリク派法学
ムワッヒド朝…ザーヒル派法学に近い字義解釈
マリーン朝…マーリク派法学やシャリーフ全般の崇敬を支援

マフザンの手続きはいずれも神-法学的な基底(fond)に準拠しており、その諸要素はいずれも歴史的に「スンナ」から導き出されたものである。そのためマフザンの様々なバージョンは、いずれもスンナ派的な外観を呈している。宮廷の歴史叙述や書簡文献は、高名な精神的権威からの承認による(マフザンの?)正統化という目的を持った、汎イスラーム的な接触の逸話を伝える。
ムラービト朝…トゥルトゥーシー、ジャザーリー(?)
ムワッヒド朝…ジャザーリー(?)とイブン・トゥーマルト
マリーン朝…ヒジャーズ地方のシャリーフたち
(ジャザーリーはいずれもガザーリーのことだと思われるが、綴りがいずれも誤っている)

それほど明白ではないが、モロッコのマフザンのアプローチの独自性を裏付け、儀礼的な面での君主の立場を明らかにするような特色も存在する。これらの特色の中には、特定の王朝と結びつけられる特異なものがある一方で、諸王朝に横断的にあらわれるものも多々ある。そのいくつかの枠組みとなる要素を、非常に微妙な形態の忠実さへの関心から、提示する。

1. マグリブ・アクサーの諸王朝は、アンダルスよりはるかに遅れて中央集権化を開始したため、後者を支配しながらも、それに倣った。マフザンの文書局は、特に最初期には、専門家の供給の面でも儀礼上の伝統の面でも、アンダルスに依拠することになる。つまりムラービト朝は、アッバース朝に服従しながらも、そのライバルであるコルドバのウマイヤ朝カリフの、より単純な伝統を採用していた。その後のマフザンは、このアンダルスの伝統を活用し、その痕跡を伝播していく。
…権力の「地誌(=その所在)」や壮麗な顕れに関する語彙、諸処のエチケットの総体

2. マフザンの創始者であるムラービト朝において、君主個人に関する儀礼は重要ではなかった。またその君主たちが、ウラマーからの激しい非難に対して、穏健な態度を取った逸話が知られている。これは、ムラービト朝期の政治権力と宗教の権威の二極性という要因に加えて、ムラービト朝とアンダルス人の二重性という要因からも解明しうる。ムラービト朝貴族層が、アンダルス人の生活様式や文明に魅了されたのに対して、後者は前者に対して無関心であるか軽蔑しており、また公的な統治機構の役職を占めていた。
→ムラービト朝の権威の二極性…相互の対立
君主たちは、自らの影響力を確保するため、宗教の名において抜きんでる必要があった
また、イスラームにおいて正統性と教説は相互に支えあうものであり、レコンキスタが進展する中では双方にとってジハードは最重要の問題であった。そのため、君主の付属物は、パラソルも君主への平伏もヒジャーブも言及されず、軍旗や太鼓、君主個人の衛兵といった軍事的なものと、サンハージャ族のリサームに限られることになった。

(難解な主張。ムラービト朝の貴族たちはアンダルス人の文明に魅了されていた。ところが統治に関わる職務を占めていたアンダルス人たちは、ムラービト朝の人々を無視するか軽蔑するかしていた。そこで両者に対して影響力を持つために、王朝の君主たちは宗教的に高い評価を得る必要があった。そして、当時のジハードの宗教的重要性が増大したアンダルスの政治的状況の中で、軍事的な含意を持つ儀礼のみをムラービト朝の君主たちは採用した。そのため全体として、麻布残の儀礼の発達はそれほど見られなかった、ということか?)

3. 〔マフザンの正統性とカリフ制〕
ムラービト朝
・アッバース朝のカリフからの公式な承認
・暴力を行使する能力…10世紀ごろ、東方に現れた諸政権の正統性と共通
→権力を行使する正統性を獲得するためには、他の誰よりも強くなければならない
それ以外の要素(例、カリフの承認)…付随的なもの、ムラービト朝にとっては有益⇔ターイファ諸王国の乱立

ムワッヒド朝
・独自のカリフ制の樹立

マリーン朝
・ムワッヒド朝のカリフ制に依拠しながら、これを打破
→アッバース朝のカリフ制とムワッヒド朝のカリフ制は、共通の結末を辿る

諸朝の正統性…秩序の維持と、共同体の遺産の保護という、日常的な問題に依拠
→正統性の獲得においては、軍事力と結びついた、強制力における支配的状況こそが重要

(後半はやはり持って回った言い回しだが要するに、あるマフザンの正統性は、秩序を維持し共同体を防衛するだけの軍事力を保持しているか否かに依拠していた、ということが言いたいと思われる)

4. 〔カスティーリャ王権との共通性〕
カスティーリャの王権の正統性
・軍事力に基づいた強制力によって、秩序を維持し、共同体の遺産を保護
・ジハードとレコンキスタの交代

カスティーリャ王政
・ウマイヤ朝の西方カリフ制や、ターイファ諸王国の制度的発展の影響
・ピレネー以北のキリスト教諸国家より、アンダルスに近い存在
・ラス・ナバス・デ・トロサの戦いまで、聖別と戴冠の儀礼を利用することに成功しない
…境域の南への遠征が、塗油と戴冠の儀礼に相当
→「聖性なき王権」、北方のキリスト教諸王国と逆、南方のイスラーム諸王国と共通

マグリブ・アクサーの様々なマフザン
→ウマイヤ朝の西方カリフ制から派生したグループの構成要素、権力の正統化と行使において、聖性、戴冠、君主の神聖化といった要素の不在
・ムラービト朝…正統性の付与について承認された権威からの、理論的な委託
・ムワッヒド朝第二代アブー・ヤアクーブ…アンダルス遠征を行い、アンダルス人からのバイアを得るまで、カリフとして認められない
・同王朝第三代アブー・ユースフ…同様の結論(?)
それに、その息子で後継者であるアブー・ユースフの、伝説的になったイメージから、彼の治世の終わり頃である591/1195年の、マンスールの称号に加えて、その死の直後からの、まぎれもない神秘的な変化を彼に与えた、アラルコスにおける目覚ましい勝利という栄光で飾られた、彼の社会・宗教的政策のために、同様の結論が引き出され得るようである。
・マリーン朝アブー・ハサン…全く例外的に、後代の王朝年代記や民衆の記憶の中で、重要性を認められる
それ〔民衆の記憶〕は、二人の君主を、黒人スルターンという、価値を高める――そのように思われる――同じ称号によって混同しながら、永続させただろう。そして人々は彼のことを、そのジハードの遂行と公正さ崇拝のため、伝説の王として理解しようとする。

5. 君主のイメージと、その支配の正統性に対する、振る舞い(誰の?)のインパクトにもかかわらず、君主の支配者としての性格を表現するための典礼自体は存在した。ムラービト朝では、儀礼的要素は軍事的な側面とアッバース朝「君主」とアミールの名が打刻された貨幣等に留まっていた。その後ムワッヒド朝の時代になると、複雑な儀礼の形態が生まれた。ムワッヒド朝のシステムはヒエラルキー化され、ファーティマ朝と同様のシステムに属している。ムワッヒド朝のバージョンはこのファーティマ朝のそれと比較可能である可能性が否定できない(?)ファーティマ朝の手への口づけという儀礼はムワッヒド朝によってモロッコにもたらされた。しかしファーティマ朝で見られる、足への口づけやタマウクと呼ばれる地面に転がる儀礼は採用されなかった。カリフの前で地面に口づけする平伏のしぐさは行われていたが、マリーン朝のアブー・アルハサンはこれらをビドアであるとして廃止し、手や足などへの口づけに置き換えさせた。この改革はスンナ派の人々が、君主に対する崇敬の観念を含意する慣行を忌避するためである。

(全体的に意味不明だが、ムラービト朝においては儀礼は未発達であった。その後シーア派のファーティマ朝と類似したシステムを持つムワッヒド朝においては、君主への崇敬を含意する平伏の儀礼が採用されたが、ファーティマ朝に比べれば控えめであった。そしてスンナ派のマリーン朝の時代には、この慣行は忌避され、手や足、絨毯の上部、中部、下部への口づけで置き換えられたという、君主個人への儀礼の変遷の一例をあげているのであろう)

ムワッヒド朝の宮廷で採用されたこれらの振る舞いは、ファーティマ朝の礼儀作法を参照しているが、文脈が全くが同一というわけではなかった。また、このようなしぐさは、マリーン朝の時代にも類似したものがみられ、特にアブー・イナーンの時代の礼儀作法は、ムワッヒド朝期と同様に厳格だった。

(君主に関する儀礼の?)実践は、常に潜在的に存在し、文脈が求めれば繰り返し現れる。ムワッヒド朝の儀礼は、チュニスで存続したし、ハフス朝のカリフ位を狙うアブー・イナーンのような人物にとって、その典礼はリファレンスだった(?)。ただし、公式の称号も、マフザンによって用いられた形式も、シーア派のファーティマ朝のそれとは異なっている。この王朝にとって、預言者の系譜に連なる君主は、半ば神的性格を持った信仰の対象であったし、そのイマームにしてカリフである君主には、スンナ派では預言者に対してしか用いられない祈願が用いられた。この点で、ムワッヒド朝の典礼は、マリーン朝のそれと同様に正統派的なものだった。また、このような語彙自体、ムラービト朝のマフザンでは知られていなかったようであり、イブン・トゥーマルトや特にその後継者であるアブド・アルムゥミンの時期に導入され、その後発達したと考えられる。そしてこの語彙は、君主の機能と、とりわけその個人に属するものであった。
→ある治世における宮廷生活のキャンバス一般や君主に認められたイメージについて詳述することが可能になる

(モロッコにおける宮廷の儀礼は、シーア派的な傾向を持つムワッヒド朝の時代に発達したが、それがスンナ派のマリーン朝の時代に見られなかったわけではない。むしろ君主に対する儀礼の実践は歴史的文脈によって必要になれば、繰り返し現れたし、実際マリーン朝にとってムワッヒド朝の典礼は参照すべき典拠となった。また君主への儀礼について、特に用いられる祈願の定型句によってイフリーキヤのファーティマ朝と比較した場合、ムワッヒド朝もマリーン朝と同様にスンナ派的なものであった。そしてムラービト朝においてはこのような語彙は知られておらず、その後発達したものだと考えられる。このように、ある時代における宮廷生活の様子や君主個人に対する儀礼について詳細することが可能となる)

0 件のコメント:

コメントを投稿