その主張によれば、初代カリフ=アブド・アッラフマーン3世は、カリフ位就任を正当化する要素として、なにより父祖の権利の相続であることを強調していました。そしてそれに加えて、カルマト派のカーバ神殿襲撃に象徴されるアッバース朝の弱体化もまた、重要な要素だったようです。その一方で、歴史研究において重視されているファーティマ朝カリフの登場の問題は、ウマイヤ朝のカリフを正当化するプロパガンダの中では言及されていません。
Fierro, Maribel. "Sobre la adopción del título califal por `Abd al-Rahman III". Sharq al-Andalus 6, 1989: 33-42.
アブド・アッラフマーン三世以前のアンダルスのウマイヤ朝君主は、マリクやアミール、もしくは「カリフたちの子孫」と呼ばれ、カリフの称号を採用することはなかった。王朝初代のアブド・アッラフマーン一世がカリフの称号である「信徒たちの指揮官」と呼ばれている例がイブン・ハズムによって指摘されているが、これは韻文で見られる事例であり、他の史料では確認できない。またアブド・アッラフマーン一世はアッバース朝によるウマイヤ家の虐殺を逃れてアンダルスに来たにもかかわらず、コルドバの征服後短期間ながらアッバース朝のカリフ=アブー・アルアッバース・マンスールの名前をフトバで唱えていたことも知られている。その期間は10か月という説と2年という説とあるが、その後はアッバース朝カリフへの呪詛とウマイヤ朝アミールの名前の言及に置き換わっている。このようにカリフ制の問題に関するアブド・アッラフマーン一世の政策は一貫性がない。アンダルスではこれ以前にもユースフ・フィフリーがアッバース朝の宗主権を認めていたし、このアンダルス最後の総督に対する反乱もまた、アッバース朝の名において行われた。ウマイヤ朝成立後の763年、776年にもアッバース朝によるアンダルス支配を意図した反乱が起きているが、その失敗はアンダルス征服の困難さをアッバース朝に理解させることになった。その後も3世紀終わりのの第一次内乱期には、多くの人々がアッバース朝カリフの名前をミンバル上で唱えたほか、ウマル・ブン・ハフスーンのようにファーティマ朝カリフの名前が唱えられる例も見られた。アブド・アッラフマーン一世がアンダルス支配の正当性を主張するためには、3つの手段があった。
第1はアッバース朝のカリフ位を認めることだが、これは最初採用された後放棄され、再度行なわれることはなかったと考えられる。
第2は自らカリフ位を称することであるが、諸史料はこの可能性に否定的である。それは当時カリフ位の資格が両聖地の領有と結びついていたからだと推測される。ただしアブド・アッラフマーン一世による東方でのウマイヤ朝再興の計画は、彼が先祖の地位の回復を断念していなかったことを示している。
第3はカリフ位の問題を保留するという手段で、これが実際に選択された。その結果として理論的には異常事態となったが、実践的な問題は生じなかったし、それを理論的に正当化する必要が感じられていた証拠もない。こうしてアンダルスのウマイヤ朝は、アッバース家をウマイヤ家の正統なカリフ位の簒奪者と位置付けてその宗主権を否認したが、彼らの先人たちの遺産、特に両聖地再征服が実現できない以上、カリフの称号の採用は無意味なものとして先送りされた。
316年アブド・アッラフマーン3世はカリフを称し、「信徒たちの指揮官」の称号を採用する。その理由をレヴィ・プロヴァンサルは2つ挙げる。
第1に、アンダルスでのハフスーン家らの反乱を鎮圧し、またボバストロの要塞を征服したことで、君主権が十分確立したと感じられたこと。このことには彼がアブド・アッラフマーンという初代と同じ名前であったことも強調される。
第2に、297年イフリーキヤでカリフを称したファーティマ朝に抵抗するため。この対抗カリフ制の創設によって、アンダルスのウマイヤ朝にもカリフ位を称する可能性が生まれた。
ただし、アラビア語の史料は後者の要素については言及しておらず、むしろアッバース朝の衰退と関連付けている。これは、同じスンナ派のアッバース朝と違い、シーア派のファーティマ朝のカリフ登場とウマイヤ朝のそれとを結びつけても、その結果として後者のカリフ位が正当性を得ることはないからだと考えられる。また、ウマイヤ朝がカリフを称するに至った過程については知られておらず、誰がこれを着想したのか、それに対する法学者たちの反応がいかなるものだったのかも記されていない。そしてカリフ位の正当化も、その採用とともに始まったと考えられる。
イブン・ハズムは、ウマイヤ朝のカリフ位について2点情報を提供している。まず彼は、アブド・アッラフマーン3世によるアミールからカリフへの移行を、シューラーの指名によるものに分類している。これはそのカリフ位就任が、先代からの後継者指名によるものにも、実力行使によるものにも分類できないためである。しかしこのシューラーの実体は不明であり、後世の法学者による後付の正当化であると考えられる。アブド・アッラフマーン3世自身は、相続権の主張で十分これを正当化できると考えていたと推測される。アブド・アッラフマーン1世がアミールを称したように、3世はカリフを称したのである。
もう1つの情報はラカブ(尊称)に関する情報である。アブド・アッラフマーン3世は「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」というラカブのほか、「カーイム・ビッラーフ」というラカブを用いている。この後者はファーティマ朝2代カリフ=マフディーによって採用された「カーイム・ビ・アムル・アッラーフ」と類似している。またカーイムという言葉は一般にマフディーを指し、イスマーイール派的な含意を強く持つ。アブド・アッラフマーン3世によるこのラカブの採用には、ファーティマ朝のプロパガンダに対向する意図があったと考えられる。彼が北アフリカの同盟者に送った書簡の中には、「カーイム・ビ・アルハック・ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」を自称しているものがある。
またイスラームでは、世紀の交替はムジャッディド(革新者)の登場を伴うという考えがある。アブド・アッラフマーン3世はこれを利用していたと考えられ、彼が消滅の間際にあったスンナ(慣行)を革新することを謳っている書簡がある。
ナースィルによるカリフ位就任の決断はアッバース朝の衰退と結びつけて理解されていた。この正当化は、その翌年317年のカルマト派によるマッカ襲撃によって、一層力を持つことになった。ウマイヤ朝カリフはこの醜聞を自らの北アフリカに対するプロパガンダに利用する。そして319年に戦略的要衝であるセウタを征服し、北アフリカで拡大政策を推し進めていく。そしてこの地方の同盟者たちと書簡を交換し、その中でファーティマ朝に対向するプロパガンダを行なっている。例えば11世紀の年代記『ムクタバス』に収録されたある書簡の中では、沿岸地帯のベルベル人君主たちに対して、東方イスラーム世界の征服と先祖たちの遺産の回復を目指す計画を明かす。この再征服は、衰退し防衛能力を失ったアッバース朝から両聖地を取り戻すことを含意し、カリフの地位正当化の形式だったのである。この先祖の権利と遺産の回復、信仰の再生、異端の滅亡、マッカの保護という要素は、書簡の中で繰り返し強調される。
『ムクタバス』の著者イブン・ハィヤーンは、ナースィルがムーサー・ブン・アルアーフィヤに宛てた書簡についてコメントし、東方の支配権の主張や聖地の侵犯の問題について、政治的有用性のために、繰り返し言及されていることを指摘している。この手紙の中でナースィルは、カルマト派によるマッカの神殿への襲撃と巡礼者たちの殺害を空前絶後の出来事として取り上げ、その古の館を保護し名誉を与えることを神への捧げ物にしたと述べる。また、父祖であるカリフたちの王国という権利の主張と遺産の回復、王朝の再興、先人たちの偉業の革新、宗教の再生、正義の完全な行使と異端の消滅といった事柄を謳っている。そして、東方はナースィルの先人たちの遺産であり、北アフリカのベルベル人たちの改宗はこの先人たちによってなされたことが指摘される。
ウマイヤ朝のカリフ位を正当化する主要なプロパガンダは以下のようになる。
ダマスクスのウマイヤ朝はカリフ位の正当な権利者であり、アンダルスのウマイヤ朝はその相続者である。そしてイスマーイール派の脅威と、簒奪者でマッカの涜神を防ぎ得ないほどのアッバース朝の弱体化のために、「カーイム・ビ・アッラーフ/アルハック」であり「ナースィル・リ・ディーン・アッラーフ」であるアブド・アッラフマーン3世による、スンナ派イスラームの革新と防衛が必要となっている。
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