II. 「中世」マフザンの基礎と変化(7-13)
ムラービト朝のサンハージャ族の軍事行動によって成立したマフザンは、被征服民に対してこれまで用いられたことのないシステムを構築した。
→中央集権化の導入に求められる定住化をほとんどしていない遊牧民による、国家権力の中央集権化のシステムが導入されたという矛盾した特徴
サバンナ、サヘル地帯に登場した諸国家のサブサハラ的な図式の中でこの現象を理解するべきである。ムラービト朝のマフザンは「労働の社会的分業の専門化とエリートの諸機能の構成の相対的な交差を提示する国家」に属する。(S. N. Eisenstadt, M. Abitbol & N. Chazan. "Les origines de l'Etat : une nouvelle approche". Annales ESC, 38.6 (1983): 1238.)
ムラービト朝の社会の中には、キャラバン交易に結びついたエリートの勢力と、軍事活動・ジハードの従事する勢力の双方が存在した。
→空間の安全を恒常的に保持するための強制力の独占
→統治者と結びつきのある集団や交易路の関係者がこの独占の維持に貢献
「中世」のマフザンは、国家である前に権威であり、そのシステムは、アフリカと地中海を結ぶ交易に統合され、それを支える軸と結びついていた。その調停者としての性質は、ここに起因する。調停-支えは、外部に向けられる前に、まず内部の様々な水準に介入しなければならず、そのため諸王朝は、同盟者や家族的な集団に属する部族的要素を統合する連合に依拠する。この連盟的な含意を持った性質のため、陰謀に晒され、潜在的な対立関係を助長することなしに、連合の相手を増やすことはできない。またマフザン国家は、この対立関係を利用して、分離的な行動を中立化しようとしている。この不安定な均衡の急な変化に備えて、権力はその統治を宗教的に正統化することに関心を持ち、神権的(…規範の順守、分担者・制限のない権威の審級であるという位置づけ)であろうとする。
「中世」マフザン・システムと国際的な状況の変化の関係
…地中海北岸の優位、マグリブの側による海峡のコントロールの喪失、ラス・ナバス・デ・トロサの大敗
→沿岸の相対的重要性の増大
マフザン・システムのマグリブ・アクサー版は、ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝(+イフリーキヤのハフス朝)の経験に帰着する。そして問題の連続する政府の間で、選択肢とイメージの面で境界画定は明確である。
ムラービト朝…スンナ派、マーリク派法学者と権力の結びつき
ムワッヒド朝…シーア派の過激な教義の主張、イマームで無謬のマフディーであるイブン・トゥーマルト(とその後継者たち)への全権集中
→マフザン・システムへの重大な変化=厳格なヒエラルキーの導入、教説上の差異に基づく排除の戦略、粛清や不寛容さの逸話、抑圧
イブン・トゥーマルトの教義に対するへの全面的な不満が生じ、それはスーフィーたちの運動と重なり合う。この運動はムラービト朝の成立とともにあらわれ、最初はアリー・ブン・ユースフ・ターシュフィーンの治世に半ば非合法とされた後、ムワッヒド朝の超権威主義的権力の登場時には、既に重要な役割を演じ、統治者たちに対して慎重な態度を示すようになっていた。この慎重さは、素朴で実践的な教育法によって支えられており、民衆に対する模範として示されたため、民衆とマーリク派法学者の双方からの支持を獲得し、新たな領域は地域の潜在的な反権力の場として認識される。
この認識が含意する、ムワッヒド朝マフザンに対する不満は、ラス・ナバス・デ・トロサでの大敗後実体化し、王朝のカリフ自身による無謬のマフディーの公式教義否認へとつながる。「厳格主義者たち」にとっては真の背教である、この決定を口実として、イフリーキヤのハフス家のアブー・ザカリヤーが反乱を起こし、その息子のムスタンスィルはカリフを自称するに至る。
→その支持者たちにとってはイブン・トゥーマルトとムワッヒド朝の唯一の後継者にして代表者
1269年マラケシュのカリフ制が廃止されるまで、イフリーキヤとマグリブ・アクサーの首都は、傭兵集団を間に挟んで敵対しあい、その一つであるマリーン族の部族集団が、ムワッヒド朝を滅亡させる。
ムワッヒド朝の滅亡後マリーン朝は、空間と権力の論理によって、次第にハフス朝と距離を取り始める。ハフス朝が信奉するイブン・トゥーマルトの教義のシステマチックな隠匿は、新たな征服者の独立の意志を印付けるものである。
初期マリーン朝君主たちのハフス朝のカリフに対する独立の意志を示すいくつもの兆候:
・アンダルスでのジハードによる彼らの継承の正統性の主張…ムワッヒド朝滅亡から5年余りで開始
・彼らによるマーリク派法学への断固とした支持…スーフィーたちの抗議的領域との相互作用に対して加えられた長期間の迫害後
・シャリーフたちへの全体的な崇敬…預言者の血統を含意するマフディー主義の乗り越え
マリーン朝の君主たちはイドリース家を優遇し、そのかつての政治・宗教的拠点だったファースを首都としながら、預言者家の家系を主張するほかの派の地位向上を警戒する。
この正統化の傾向は後にアブー・ハサンとアブー・イナーンによって、西方カリフ制の主張に用いられる。
マリーン朝のマフザンは、ムワッヒド朝の厳格さからは距離を取り、協調主義的な手続きを選択する。この種の運営の結果として、分割に依拠した支配の様態が現れ、この現象の結果として、王朝内部での策謀的な傾向が生じる。
君主たちの権力欲によって生じたこの状況は、協力者たちの欲求を一層刺激し、彼らはマフザンの覆いの下での分離的細分化を、一層推し進めることになる。
マリーン朝マフザン…実際的な性質、安易な妥協の危険性
マリーン朝のシステムは、このような状況の繰り返しの中で破たんしたが、その三世紀半ほどの持続の中で、マフザンのあり様に影響を及ぼした。ムワッヒド朝よりも寛容であると同時に、ムラービト朝よりも統合的なそのマフザンは、より近づきやすく、そのために複数の関与、服従と分割の枠組みの中で繰り返し再調整を施された。そしてマリーン朝は有力者、シャリーフ、学識者、民衆的神秘主義の師匠たちといった多様なパートナーを選ぶ戦略をとった。
この形態は、王朝の交代とともに手直しを受け、16世紀中葉シャリーフ主義によって権力を要求したサアド朝は、マフディー主義を自称した。ただしこれは、ジャズーリー教団によって調整を受けたシャリーフ主義であり、ムワッヒド朝マフディーの排他的な図式を複製することはできなかった。またマフザン・システムの側も、これを過度に強調することはなかった。
マフザンとは、安定した骨格を持ちながらも、柔軟で浸透性のある組織であり、その採用した諸形態は、個人的なコネと権力の個人化に運営を依存する、伝統的な国家の図式に属していた。そして、この国家は自律的傾向を持った複数の同盟者たちに依拠しており、その対立を利用する形で被害を抑え込もうとする。おそらくマフザンは、この脆い形態に内在する誘惑を悪魔祓いするために、被支配者に対しても共同支配者の集団に対しても、超越的で半ば攻略不可能な権力の側面を維持するための、儀礼的表現の諸手段に頼る。
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